行きついた場所

ザイオンキャピタル

行きついた場所

 運河が静かに流れているようだが、夜になるとその流れそのものは見えず、平たくて物質然とした液体が目の前をたゆたっているだけに見える。桟橋に腰掛けてぼくはそれを眺めていた。暗闇の、ビルとビルの間を流れる運河を。

 運河の向こう側には、モノレールがときおり横切っていった。それはちかちかと明かりのきれそうな点滅する光に似ていた。たくさんの人を乗せて、住宅区へと走っていく。それがぼくに何本も何本も見せつけ、そのたびに通り抜けていった。

 さらにその奥には巨大なマンションが二棟、並んで建っていて、双方ともにあまりにも大きすぎて、一戸一戸、そのベランダや窓がちいさなちいさな格子のなかに閉じ込められているようだった。夜になると明かりは色とりどりになっていって、水色やオレンジ色、まだベランダに小さな洗濯物を干しっぱなしにしているところ、カーテンから人影が横切るところ、稀にベランダへ人が出ているところ、そして白い物干し竿だけがあるところ、など様々だ。

 そのすぐ、本当にきっと、手を伸ばせば触れられるほどすぐ目の前に、モノレールは通っており、真下はオフィス街に張り巡らされた運河となっている。ぼくは桟橋にこうして座って、モノレールのちかちか、凝縮されたたくさんの部屋のちかちか、と眺めることにしていた。眺めなければ、ぼくは生きているとは言えないほどだった。

 ある晩のことだった。ぼくは突然、桟橋を降り立ち、向こう岸、つまり運河をひとつ橋を超えたところにある巨大なマンションへ向かおうと、突然思い立った。不思議なことに、そちら側、には行ったことがなかった。そちら側には生活があり、運河のこちら側には無機質なオフィス街が広がっている。言うまでもなく、ぼくはこちら側の物質だった。

 色褪せた短いアーチの端を渡り切って、マンションのふもとまでたどり着く。

 果てしなく巨大で、試しにぼくは両手を広げてみても、まだ一切、なにをも感じ取れないほど、切れ目の見えない、圧倒的な平面だった。

 それでも、近くには洗濯物や、それから部屋のくっきりした青みがかった明るさ、それから洗濯物か、洗濯を回しているのか、洗剤のいい匂いを嗅ぐことができた。その匂いを嗅いで、胸が締め付けられるような思いをした。ぼくはもといた場所にすぐに帰った。

 そうか、あそこに近寄ると、洗剤の匂いがするのか。ほかにも、食器を洗う音や、料理中の香ばしい臭い、食事の際の、ナイフと皿ががちゃがちゃ言う音、も聞こえてくるかもしれない。

 その日からぼくはもう、遠くの桟橋からそれらを眺めているだけでは済まなくなってしまっていた。陽が暮れて、しばらく桟橋から眺めたのち、ぼくは軽やかに橋を越えていったのだった。

 時刻はだいたい遅い時間帯だったと思う。そうでなければ、たくさんの人があの二棟のマンションに仕事から帰ってくるのだ。そこを邪魔するつもりもなかったし、その時間はまだ、ぼくが行ってはいけないような気がしていた。

 やがて、ぼくは様々な感覚を身に着けた。生活の音、気配の音、生活のにおい、明らかな人の声、床を踏む音。それらは、そばのアスファルトを通り抜けるタイヤの音や、モノレールの轟音、あたりに植えられた樹々の葉がこすれる音とは明らかに違っていた。それは確かな壁や窓、それから換気扇を通して伝えられたくぐもった音やにおいであり、それこそが、ぼくの手に入らないものだった。

 夜中まで徘徊し続けたぼくは、次第に病に落ち込んでいくようだった。一つ、二つ、たくさんの窓やベランダに近づけば近づくほど、すぐそばまで行ってしまうようなら、そのぼく自身はより暗闇に、すぐ目の前にあるものとの溝がより深く、絶望的なまでに深く感じるのだった。

 やがて、一歩一歩、マンションのそばを歩くということが、いや、マンションのすぐそばまで近づくということが苦しくなっていった。けれど、もう戻ることはできなかった。あの桟橋から再び眺めるなんていう呑気なことは、もうできそうになかった。いつも喉が渇いているみたいだった。それでも、飲んでも飲んでも、一切、染み入るという感覚もなにもなく、もっと渇きやそんなものを超えたなにか深い、湖の底にあるようなもの、暗さを感じてゆくだけだった。

 ぼくはある日、朦朧とするまで夜中ずっと、マンションの一戸一戸に集中し、あらゆる感覚から情報とそれからその奥にある生活を感じ取ろうとしていた。連日の、この突然の変化でぼくの身体はもう限界に近づいていた。睡眠もろくにとれず、何時間も立って、歩き続けて、おまけに暗闇が、ベランダとぼくを隔たる暗闇の溝を絶えず感じてしまっていて、ぼくはそのとき限界を迎えていたのだと思う。なにか結論を下したかった。なんでもいい。なんでもいいので、完結して、暖かさのなかで再び、ぐっすりと眠れる時が訪れてほしかった。

 そのときぼくは、ぼくの頭は、まるで風船になったかのように、ふわっと持ち上げられるような気がして、ぼくの目ははるか上階に向けられた。その視線の先に、よく見ると、葉の太い観葉植物が一つ、ぼくを見下していた。それはまるで、人間とはいかないものの、ある種の存在のようにぼくは感じてしまった。観葉植物は、ずっとぼくを見下ろしていた。見下していたような気もするし、見下ろしていたような気もする。ただ、その観葉植物というのが、あまりに生活から見放されたような、オフィスにおいてありそうな、とても事務的なものに見えた。ただ、なんの用か、もしくはなんの用もなく、窓際にただ置かれているだけに見えた。そこがぼくの拠点だと、そのとき心からそう考えた。ぼくはこのマンションのいずれにも、入ることはもちろん、触れることすら許されない。だけど、そこ、その観葉植物のあるところだけは、その部屋に入っても、触れてもいいのだと、理解してしまった。

 敷地へ侵入しやすい箇所はすぐに思い当たった。裏手が小さな公園になっていて、そこからだとマンションと公園の区切りはフェンスしかなかった。ぼくは裏手に回り、だれもいない公園からフェンスにしがみついた。-

 時間が時間だけに、敷地内を歩いている人はほとんどいなかった。ときおり、仕事帰りのサラリーマンや、近くのコンビニへ出かけていく子どもなどが暗闇のなかにいた。

 敷地のなかに入ることができても、棟のなかに入るにはまだオートロックの関門が待っていた。ぼくはしばらく考えたあと、近くに植えられていた樹々のなかにもぐりこんだ。そこで朝まで過ごすのだ。明日は平日だったので、出勤時間にはたくさん扉が開くことだろう。

 そうしてぼくは棟のなかに入りこみ、あの観葉植物のあった十七階に向かった。観葉植物のある部屋は角部屋だった。方角を頼りにすすんでいくと、ちょうど突き当りに行きついた。たぶん、その奥に観葉植物があるはずだった。

 扉に手を添えてみる。なんの音も、振動も、匂いもしなかった。この部屋の奥はどうなっているんだろう。そばにはインターホンがあった。ぼくはそれを押し込んだ。

 誰も出なかった。試しに、ぼくはドアノブを回してみた。ゆっくりと引いてみた。扉は開いた。

 そこは倉庫のようだった。あらゆる物、赤いコーンや、立ち入り禁止のポール、ロープ、青いビニールシート、ホース、その他雑多なものたち。その奥に、葉の広い観葉植物がひとつ、しっかりと置かれていた。ぼくはそこに近寄っていった。

 背丈はぼくと同じくらいだった。窓からは向こう岸が、オフィス街が広がっていた。ぼくはその観葉植物のそばに立って、何時間も突っ立って窓からの景色を眺めていた。音はなく、そして暖かな部屋だった。

 夕陽が近づいていた。ぼくは観葉植物のそばに座り込み、そしてもたれかかった。重たい眠りが近づいていた。

 目が覚めると、まだ部屋の明かりは煌々とついていて、あたりは真っ暗になっていた。窓に鼻がくっつくくらい顔を近づけると、あの街並みが見えた。ぼくがいた世界があった。ぼくはいま、自分が眺めていた場所にいると確かに感じることができた。そこからの眺めはとても良くって、たしかにここには、洗濯物も、暖かい色の明かりも、生活の音も、においもなにもないけれど、ぼくには観葉植物があり、そしてなにより、部屋のなかにいることができた。

 きっといつか追い出されるだろう。そしてそれはもうすぐそばまで迫っている。でも再び外に出たぼくは、もうこの街にはいることはないだろう。自分が決定的に変わったのだ。それは覚悟であり、限界を知ったことだった。

 ああ、と思った。さようなら、この街。そして、このぼく。ぼくが辿り着ける場所は、ここまでだった。

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