亜熱帯の夜なか

ザイオンキャピタル

亜熱帯の夜なか

 ぼくは夜の郊外に住んでいた。そこは熱帯の植物が生い茂り、その樹林でぼくは暮らしていた。樹林から郊外のほうを覗くと、建てられたばかりの白や青の高層マンションがいくつも立ち並んでいる。夜なのでいくつもの明かりが発せられ、通りはその代わりに閑散としていた。ポールの先っぽに付いた街灯が白く通りを映していた。

 ぼくは今度、近寄ってみようと考えていた。この原人のような暮らしをしていると、昼間表に出てしまったなら、途端に大変なことになる。だからぼくの世界に昼というのはなかった。ただ夜だけがあった。あの、マンションたちの光や、カーテンの隙間から覗く家具、それから人の気配。そういうのが夜ではこの樹林のなかまで届いてくれた。それでも、まだ一度として、すぐ目の前の通りにさえ、夜でだって、出たことはなかったのだった。

 マンションの窓をぼくはいつも見ている。眺めている。そこには、人の気配があり、女の人の気配がある。暖かそうな、女の人の気配が。暖かい色を放つリビングの明かりに、女の人のすらっとした腕が、手のひらが、カーテンの隙間から見えるときがある。ぼくはただ、それを眺めているだけで、本当に幸せだった。あの室内で、女の人が、誰かに手を差し伸べている。それが料理であったり、もしくは食べ終わったお皿を取るためだったり、そんなことでもべつによかった。ただその事実だけ、すぐそこで手を差し伸べているというその事実が垣間見れたのならぼくは、それで本当に満足していた。

 その夜は冷たい夜だった。気温は変わらず温かかったが、夜の空の色が、今日はとくに冷たい色をしていた。それは白い街灯と溶け合い、絶対零度の予感をさせた。それは満潮と同じ作用であり、外界と異なるぼくが外に出てもよいような気がした。

 ぼくは樹木をくぐり、身を狭めて太い蔦の間を通り、そして、抜け出した。てくてくと歩いて草がぼうぼうだった駐車場を突っ切り、端が崩れた駐車場のコンクリートの壁をひょういと通り越し、ぼくはいつも見ていたマンションの目の前の通りに立った。

 人の気配は一切、なかった。車が遠くからやってくる音もない。ただ目の前の、この本当にそびえ立つこのマンションには、確かに人がいた。生活がいた。より近くで見ることができて、ぼくはつま先までじんとした。

 がさりと音がしたと思って、ぼくが身を隠そうかと考える前にもう、マンション脇の住人専用の通路から、大きな白いゴミ袋を二つ、手に持った女の人が表に出てきた。

 彼女はすぐにこちらに気づいて、一瞬目を見開いたような気がするが、すぐに近くにあったゴミ置き場へ向かい、扉を開け、それから重たいゴミを二つとも放り込んだ。ぼくは煌々と青白く照らす街灯の真下に固まって立っていた。通報されれば、ぼくの生活、本当には生活とは呼べないだろうが、少なくとも暮らしは奪われてしまう。ぼくは固まっていた、

 その女の人は三十代くらいで、背が高かった。長袖をそのまま肘まで引っ張って、二の腕はあらわになっていた。彼女はゴミを捨てたあとぼくに向き合い、それから真後ろのマンションをずらっと上まで眺めた。

「ここに入りたいの?」

 マンションは入り口から固く、高い、黒い門で閉ざされていた。開けるためには、キーか番号が必要だった。でもぼくは、そういうことなのだろうか?ずっと見つめていた、このマンションに入りたかったということなのだろうか?でもぼくはその場ですぐに、はい、と言うしかなかった。

 ぼくの服装は、どう考えたって、ここに住んでいる、というよりもきちんとした家のある子どもの身なりではなかった。シャツやズボンは拾ってきたにせよ、とにかく汚れがひどかった。靴はサンダルもなにもはいていなかった。

 彼女が名乗ることはなかった。ただ、ぼくを後ろにつかせて、それで黒い門の番号を押し、ぼくと一緒になかへ入ったのだった。

「何階?」と聞かれ、ぼくは適当な数字を誤魔化した。

「ほんとにそれで合ってる?」と言われても、どうしようもなかった。

 門を入ってから、エレベーターのあるエントランスまでは庭が広がっていた。小さな池と、それから細い人工的な川が作られ、ぼくはそこのベンチで座っていると告げた。彼女は不思議そうな顔をすることもなく、エレベーターに乗り込んでいった。五十三階でエレベーターは停まったようだった。

 ぼくはこの、この時間に、ここにいる自分というのが信じられなかった。とても信じられない切符を、ふいに渡されたようだった。このなかにはたくさんの生活が詰まっていて、その一つ一つにぼくはいまやアクセスできるようになっていた。といっても、ただ、それだけだったけれど。

 それからしばらく、適当な階でうろついたりしたものの、人と出会うのが次第に怖くなってきて、最後に適当な高層階を選んで、それから帰ろうと思った。

 六十三階をぼくは選択した。ランダムに選んだ数字だった。高層階になると、そのフロアの扉の数がずいぶん少なくなった。そのぶん、一部屋が大きくなったんだろう。エレベーターの扉が開くとぼくは廊下を歩いていき、その扉の一つに近づいた。耳を澄ませても、なにも、笑い声も、聞こえない。風が強く、ぼくを追い出そうとしているみたいだった。ここにいるべきじゃない、という思いが強くなっていった。

 ぼくは最後に、このすぐ目の前の扉、その奥の光景を想像してみた。きっと暖色の明かりで、柔らかなウェーブのかかったカーテンを引いて、いまごろ夕食か、そのあとでなにかゆったりしているのだろう。部屋にはいつの日にかどこかの街で気に入って買ったものが、窓辺やテーブル、キッチンのそばにいくつか、いくつでもいいし、キャラクターみたいなのだっていい。そういうのがきちんと置かれてあって、この部屋には大人の女の人がいる。腕を出して。もしかしてと思い、扉に触れてみたけれど、扉の外側にはその部屋の暖かさは伝わっていなあった。背中から強く冷たい風が何度も吹き付け、ぼくは震えて、扉もその冷たさにしんとしていた。

 ぼくはその扉の前で泣き崩れた。こんなところに、こなけりゃよかった。ずっと、あの太い樹木に囲われながら、遠くから眺めていればよかった。

 身体がどっと重く、疲れて、それから昏睡しそうな眠気がもういまかいまかと待っていた。ぼくは立ち上がり、脚をひきずり、廊下の非常口に出て、そのベランダに身体を横たえ、意識を失った。

 次の朝、目が覚めたら、朝の太陽の光はピンク色に輝いていて、それから、眠っているぼくに手を差し出して微笑んでいる女の人が目の前にいた。その人も柔らかなピンクの服をゆったりと来ていた。ぼくはつられるまま、その人の差し出す手のひらに自分の腕と、それから手を差し出した。彼女がその手を包んだ瞬間、朝日がベランダの壁を超え、ぼくらに差し込んできた。空は間違いなくピンク色に染まっていた。彼女は微笑んでいた。手を引いてぼくを起こしてくれた。ぼくはなにがどうなったのかわからず、なにがどうなっているのと聞いた。もういいのよ、と彼女は言う。もう、なにもかも終わったのよ、と。彼女の奥では、非常口の隣にあたる部屋のベランダから、開け放たれたカーテンが、ベランダを越えてはためいていた。立ち上がって景色を見てみると、街や、鉄道、線路や公園、そして熱帯樹の原生林が広がっていた。カーテンははためき、その部屋のなかで、熱い紅茶をいれてあるのよ、と、彼女は言った。彼女はこの高層マンションの、高層階の広い部屋に一人で住んでいた。そこにぼくが加わるのだ。それからぼくは毎朝、とても健康になったあとでも毎朝、ベランダから朝日と、ピンクがかった空と、それから地上の光景を眺め、風を浴びる。でも、あの日、あの朝のときほどのピンクの朝は、あれ以来もう見えなかった。

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