夢見る瞳


 「あなたが読めと言ったから、読みましたよ」

スパイは、椅子に敷かれたクッションの上に、ぽんと、本を投げ出した。

「『ドン・カルロス』。いやあ、大変でした。この本、手ずれで、ボロボロだし、40年も前の本だから、印刷もかすれて、読みにくいし。……目は霞むし、肩は凝るしで、読むのが一苦労でした」


「お前は、僕の思想信条を探っているんだろう? の読んだ本を探るのは、スパイなら、当然のことだ」

長椅子に腰を下ろしたプリンスは、長い両足を組んだ。

「それで、僕の何がわかった?」

「殿下。やっぱり貴方はマザコン……」


「おい! 僕のどこが、マザコンだって!?」

すごい剣幕だった。だが、スパイはてんとして、ひるまない。


「この、殿下の愛読書、」

スパイは、自分が投げ出した本を拾い上げた。ぺらぺらとページを繰ってみせる。


「主人公のカルロスは、お母さんが好きで好きで、大好きで、とどのつまり、王妃であるお母さんと、駆け落ちしようとするんですよね? それが、父王にバレて……と、まあ、これは、そういう話でしょ? 後書きに書いてありました」

「後書き? まあ、ざっくり言えば、そういう面もないわけではないが……」


「殿下と同じじゃないですか」

「は? どこが同じだ? 僕は、母上と駆け落ちなんてしないぞ?」


 プリンスは、きっぱりと否定した。だがスパイは、ここぞとばかりに、まくしたて始めた。


「だって、お母さんが訪ねてくると、それはもう、朝から晩までべったりで、引き離すことは不可能だと、聞きましたよ? それに、お母さんがお帰りになる時は、あなた、毎回毎回大泣きで、息が詰まって死にそうになったこともあるんですって? あんまり泣くから、家庭教師の先生もお手上げで、泣き続けるあなたを連れて、マリア様の教会へ、お祈りに行ったとか」


「……お前、」


「まあね。お母様も、2~3年に一度しか、あなたのところへ帰ってこられないから、無理もないのかもしれませんけど。でも、ご自分の領地へ帰っていかれるお母様の、馬車の休憩所に、くまなく早馬を送って、先回りして自分の書いた手紙を届けさせるって、それ、怖いんですけど。ストーカーと違います?」


「……あのな、」


「白いドレスを着たお母様の姿を、夢に見るんでしょ? まずいですよ、それ。一度ちゃんと、夢判断をしてもらったほうがいいです」

「だから、いつの話をしている! 子供の頃の話だろうが!」

真っ赤な顔をして、プリンスが叫んだ。


「いや、白いドレスのお母さんの夢は、つい、最近でしょ?」

「それは、体調が悪くて、心が弱っていたからだ。今は、そんなことはない!」


「はあ」

スパイは首を傾げた。

「私はてっきり、殿下は、ドン・カルロスの、マザコンなとこに共感されたのだとばかり……」


「お前、まさかそんなことを、政府宰相に報告したんじゃあるまいな」

「それはまだです……」

「よかった。変なことを報告するなよ? 第一、この本の、カルロス王子のどこがマザコンなんだ? そんなことを言ってると、スペイン王室から、刺客が送られてくるぞ」

「止めて下さい。冗談に聞こえません」

「冗談なんかじゃない」

脅すように、プリンスは言い切った。


 彼は、スパイから本を奪い取った。大切そうに、その背を撫でた。

「そもそも、エリザベトは、初め、カルロスの婚約者だったんだ。それを、父のフェリーペ2世が横取りして、自分の妻にしてしまった」

「え、そうだったんですか?」

「そうだよ。やっぱりお前、読んでないな?」

「よよよ、読みましたとも」


 ため息を付き、プリンスは、設定を話して聞かせる。

「王が彼女を娶る前、自分たちは、当然結婚するものと思っていたカルロスとエリザベトは、送られてきた婚約者の肖像画似姿を見て、二人とも、恋に落ちていたんだ。それなのに、エリザベトは、急遽、父親の方と結婚させられてしまった……」


本を膝の上に置き、うっとりと、胸の前で手を組んだ。

「絵姿を見ただけで、恋に落ちるなんて。手も握り合っていないし、もちろん、口づけなんて、考えたこともない! それどころか、二人だけで会ったことさえないんだ。素晴らしい。まさに、純潔の鏡だ」


「殿下、それ、本気で言ってます?」

疑い深そうな目が、プリンスを見ていた。

「ありえませんって。女の子はね。いつもそばにいて、全力で、可愛い可愛いって、言ってあげなければ落ちないものですよ? 言うだけじゃだめです。撫でてさすって、キスをして……」


「なんて罪深い! 不埒が過ぎる! お前は、邪悪だ!」

「いやいやいや」

「褒めてない!」


「私より、殿下です。……男の私から見ても、殿下は、ステキだと思いますよ?」

スパイは、称賛の色を、その浅黒い顔に浮かべていた。

「背は高いし、ハンサムだし。血筋は良いし、声は甘くて優しいし。知ってます? あなたは、すごく、女性に人気があるんです。貴族から平民まで。子どもから、おばあちゃんまで、ね。だからもっと、積極的に、いかなくちゃ」

「積極的に? 行く? どこへ」

「もちろん、女性を落としに、です」


プリンスの顔が、みるみる赤く染まった。

「不謹慎なことを! そんなことが、許されるわけがない!」

「なんで? 若い男性にとって、ごく自然の、当たり前の行動ですよ?」


「当たり前なんかじゃない!」

プリンスは激高した。

「高貴な身分にある者は、結婚するまで、純潔を保たなければいけないんだ! お祖父様が、そうおっしゃった!」

 お祖父様というのは、この国の皇帝のことである。


 スパイは、鼻白んだ顔になった。

「あなた、女の子ですか……」


「何か言ったか?」


「いえ、何も」

ぷい、と、そっぽを向いた。


 床に落ちた本を、プリンスは拾い上げた。

 膝の上で広げる。

「恋する女性が、今は人妻になってしまった。それも、自分の母となってしまったんだ。こんな悲劇が、あるだろうか……」


「わりとよくある話なんじゃないですか?」

「……え?」

「父と息子は、女性の好みだって似ているだろうし」

「そうなの?」

「もしかしてあなたは、年増が好みじゃないですか? あなたのお父上の、最初の奥さんは、6つも年上だったし。……あっ!」


スパイは、体に電流が走ったように、飛び上がった。


「もしかして、あなた、」

「?」

「もしかして、叔父上の奥様と……」

「大公妃が、どうかしたか?」

「……不倫」

「は?」

「あなた、大公妃と、不倫してるんじゃ……」


 スパイは、最後まで言うことができなかった。

 羽交い締めにされ、その喉元に、匕首が当てがわれたからだ。

「大公妃に不敬なことを言ったら、命はないと思え」

 赤く瑞々しい唇が、恐ろしい言葉を吐いた。


 スパイも、負けてはいなかった。背中から両腕を釣り上げられたまま、言い返す。

「そういう噂が立ってるんですよ。劇場、音楽会、舞踏会……あなたと大公妃が連れ立って歩いている姿を、大勢の人間が目撃しています」


「僕はただ、彼女をエスコートしているだけだ。叔父上は、お忙しいからな」


「ふん」

スパイは鼻で笑った。

「いずれ、この国の皇帝をお生みになる方を、愛人にもっておく。賢いやり方です」

「まだ言うか」


 首筋に当てられた銀色の刃が、ぎらりと光った。

 じっとりと、スパイのこめかみから、汗が流れ落ちた。それでも、彼は、続けた。


「なかなかお世継ぎを産めない大公妃は、この国の宮廷で、肩身の狭い思いをしておられるようですし」


「黙れ」

低い声が、殺気を帯びた。

「大公妃は、僕に、とてもよくして下さる。優しく、慈愛深い方だ。彼女を悪く言うことは、許さない」

「あなたの恋人だと言うことが、悪口なんですか?」


 スパイはひるまなかった。喉元に刃物を押し当てられたまま、傲然と顎を上げ、背後から締め上げてくるプリンスを睨み返した。


 わずかに、プリンスが、怯んだ。かすれた声で、彼は繰り返した。

「大公妃のことは、悪く言うな」

「悪くなど、言っておりません」

「根も葉もない噂を、信じるな」


「……いいでしょう」

スパイは言った。

「大公妃とのことは、宰相には、報告しません。ドン・カルロスだって、王妃と……父の妻と、寝たわけじゃないんだ」

「その通りだ」


 スパイの首から匕首が外された。低く口笛を吹き、スパイは自分の首筋を撫でた。


「馬鹿ですね」

「なんだと?」

「あなたは、馬鹿です」

「……」


 しばらく二人は、無言で睨み合った。


 ふっと、プリンスが笑った。

「お前は、『ドン・カルロス』を読み違えている。あれは、そんな話じゃない。僕が感動したのは、ボーサ公とのくだりだ」

「ボーサ公?」


「せめて、登場人物一覧くらい、見ておけ。まったくもって、怠慢なやつだ」

呆れ果てたように、プリンスは言った。


 すぐに、夢見るような瞳になった。

「ボーサ公というのは、カルロス王子の腹心だ。二人は、親友同士だったんだ……」



 静かに、プリンスは、語りだした。

 ……。

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