第99話 おとなの境界

 実家の風呂場から女子のキャッキャした声が聞こえてくる。本来なら京太郎とくだらない下ネタで盛り上がっていたであろう特殊状況シチュなのだが……


「大体なんで早紀ちゃんがうちにいるのさ」


「いやー、たまたま実家に帰って来ててさ。おばさんに挨拶に行ったら、朔ちゃんも来るって聞いたから……来ちゃった」


 その台詞が許されるのは、雨の日の夜に一人暮らしの男の部屋に傘を持たずにアポなしで美少女が訪れる時だけだ。


 それにしても、昔に比べて早紀ちゃんは随分と大人びて見えた。もう24歳なのだから当然と言えば当然なのかもしれないが。長かった髪はバッサリとショートカットに切られており、酔って頬が赤くなっているせいか、表情のひとつひとつが妙に色っぽい。


 いかん。なんだか変な気分になってきた。


「君は朔ちゃんの同級生?」


「あ、はい! 椎名 京太郎っていいまふ」


 噛んだ。こいつ緊張してるのか? まぁみはるんという恋人ができたおかげで大分改善したとはいえ、元々女の人と話すのは苦手なんだから仕方ないかもしれないが。


「いくら私が魅力的だからって、彼女の前で下心をみせちゃうのは感心しないかな~」


「ぶほっ!」


 京太郎は飲んでいたお茶を吹き出した。


「おい、汚えぞ」


「ゲロ吐き野郎にだけは言われたくねー」


「あははは! まぁ朔ちゃんと仲が良いならいっか。若いうちはそのくらいの方が健全だろうしね」


「うす。自分、健全な男子ですから」


「で、朔ちゃんの彼女はどっち? やっぱりあのちっちゃい子? 玲ちゃんだっけ」


「どっちも違うっての。ってかその質問デジャヴ感すごいんだけど」


 どこぞの妹が兄に投げかけた質問が、こんなところで俺に向けられるとは。見た目は大人になっても精神年齢は変わってないんじゃなかろうか。


「え、違うの? 嘘でしょ?」


「本当だよ」


「お姉さん。残念ながら本当なんですよ」


「えー、ヘタレじゃん!」


「ヘタレ言うなし」


「だって二人ともめっちゃ可愛いじゃん! なんで何にも無いのよ~。つまんない~」


「あのさぁ……俺たち一緒にバンドをやってるんだよ。バンド内でそういうの、良くないだろ」


「何で? 職場恋愛みたいなもんじゃん。何がダメなの?」


「あ~、もう面倒くさいな~」


 早紀ちゃんは昔からこういう恋話コイバナみたいなのが大好きだった。同じクラスの誰がかっこいいとか、近所の誰と誰が付き合い始めたらしいとか、散々そんな話を聞かされたことを思い出す。

 最後に必ず、俺の好きな相手は誰なんだと聞かれて、答えをはぐらかし続けていたことも。


「お風呂いただきました~」


 女性陣が風呂をから上がってきた。何故か見慣れない女性も一人混ざっていたが、そこに突っ込むほど俺だって命知らずではない。


「さっくん何か言った?」


「いいえ何も」


 さっさと自分も風呂に入り、早紀ちゃんの追求から逃れるために眠ってしまうのが上策だろう。そもそもライブがあるのだから、夜更かしはよくない。


「それじゃあ次は俺が入らせてもらおうかな」


「いってらっしゃーい。ねぇねぇ、女性陣の皆もバンド内恋愛って反対派なの?」


「ちょっと早紀ちゃん!」


 ダメだ。ここで席を外したら、俺のいない間にどんな話をされるかわかったもんじゃない。


「ん~、そもそも反対派とかいるの? 私は京くんと付き合ってるけど、バンドのみんなは受け入れてくれてるし。まぁメンバーってのとは違うかもしれないけど」


「みはるんは頑張り屋さんだからなぁ」


「えへへ、京くんのためなら何だってできるんだからね」


「……京太郎、お前先に風呂入って来てくれ」


「ん? いいの? そんじゃお言葉に甘えて」


 空気を呼んだのか何も考えていないのか、京太郎は素直に風呂場へと向かって行った。


「みはるんも長時間の運転で疲れてるだろうし、今日は早く寝なよ。琴さんも玲も、もうライブは今日なんだから」


「朔ちゃん、ちょっとあからさますぎない? お姉ちゃん悲しいんだけど」


「誰がお姉ちゃんだ」


 そう呼んでいたのはもう15年も前の話だ。


「えー、何か楽しそうな話の展開になってたじゃん」


「私も、早紀さんのお話聞きたいです」


「ほんなら女子の寝室行って続きしましょか。何や朔は話に入りたないみたいやし」


「あ、それいいね!」


「それはダメです。家主として許可できません」


「ここの家主は朔ちゃんじゃないじゃん」


「ぐっ……」


 この場を離れても留まっても、盛り上がってしまった女子たちから逃れることはできないらしい。こんなの、RPGの強制負けイベントじゃないか。クソゲーだクソゲー。


「ささ、飲んで飲んで」


「私は未成年なので……」


「私も明日も運転しなきゃだから遠慮しとこっかな」


「何だーつまんないの」


「ほんならウチがお付き合いさせてもらいます」


「お! いいねぇ、京都美人がお相手してくれるなんて」


「琴さん、ほどほどで頼みますよ」


 ふたりはグラスに氷をたっぷり入れて、そこに一升瓶の焼酎を注いで乾杯をした。その酒も早紀ちゃんが持って来たんだろうか。


「さっきも聞いたんだけど、本当に二人とも朔ちゃんとは付き合ってないの?」


「ウチはちゃいますねぇ。なぁ、朔」


 何でこの人こんなに楽しそうなんだろう。俺はもう頭を抱えることしかできなかった。


「私は……」


「早紀ちゃん、そういえば仕事はどうしたのさ。平日の深夜にそんな酔っぱらってて大丈夫なの?」


「朔ちゃん、話を逸らさないで」


「私は、2ヶ月くらい前に朔さんに告白して断られました」


 玲よ、なぜそんな普通に話してしまうんだ。多分みんな察していたと思うけど、皆まで言う必要はないじゃないか。


「うそうそ! それ本当? なーんだ、朔ちゃんも隅に置けないな~。って言うか、何で断ってんのよ馬鹿!」


「痛え!」


 なぜ後頭部を叩かれなければいけないんだ。どちらかというと、この場で辱めを受けているのは俺の方じゃないか。


「あ、あの! 私、断られたことは別に何とも思ってないので……いえ、何とも思ってなくはないですけど……とにかく、今は気にしていないので、朔さんを責めないであげてください」


「そんな……玲ちゃん健気すぎない? なんて良い子なの!」


「ふごご!?」


 早紀ちゃんはそう言って玲を豊満な胸元に押し込んで頭を撫で始めた。玲は苦しそうにしていたが、何とも目のやり場に困る光景だった。


「ねぇ、私その話初耳なんだけど」


「え、みはるん気付いてなかったん? ホンマに?」


 琴さんが本気で驚いた顔をしていた。けっこう貴重な表情だ。みはるんが気づいていなかったということは、もしかして京太郎も……? 風呂場から聞こえてくる鼻歌が、やたらと能天気に聞こえるのは気のせいだろうか。


「ふむふむ。でもまぁ、状況は把握できたかな。やっぱり、同じバンド内だから付き合ったらいけないわけじゃないんだよね。朔ちゃんはなんで玲ちゃんの告白を断ったの? こんなに可愛くていい子なのに。他に好きな子がいるとか? まさか私のことが忘れられないとか言わないよね? それはちょっと困るって言うか……」


「誰かこの酔っ払い何とかしてくれませんか」


「ぷはっ! あの、早紀さんが朔さんの初恋の相手っていうのは本当なんですか?」


「ん? 本当だよ。玲ちゃんはその話聞きたいの?」


「はい、ぜひ!」


「勘弁して……」


 そこからは地獄だった。両親同士が友人同士だったため、生まれたころから付き合いのある俺と早紀ちゃんの思い出を、余すことなく暴露されたのだ。俺が8歳までおねしょをしていたこととか、運動会のリレーで転んで泣いたこととか、恥ずかしい過去まで洗いざらい全部。こんなことになるなら、京太郎に先に風呂を譲ったりしないでさっさと布団に潜ってしまえばよかった。


「それで私の上京が決まった高3の冬にね、朔ちゃんに呼び出されたの!」


「その頃朔さんはいくつだったんですか?」


「えっと、私と朔ちゃんは4つ違いだから、14歳の中学2年生だね。あの頃は今より全然背も小さくてっさ、ちょうど今の玲ちゃんくらいかな? 可愛かったなー」


「ちっちゃい朔さん……可愛いんだろうなぁ」


「あ、その頃の写メあるよ。見る?」


「見たいです!」


「何でそんなもん保存してんだよ!」


「私も見たーい!」


「ええやん、減るもんやないし」


「やめてえええ」


「ほら、これ」


 早紀ちゃんはあっさりと当時のツーショット写真を探し出し、何の抵抗もなく公開してしまった。


「か、かわいい……」


「これ、何で朔は半泣きなん?」


「それは……」


「あぁ、これは朔ちゃんが私に告白して、そんでフラれた直後の写真だからだね」


 何だか色々どうでも良くなってきた。これ以上の羞恥プレイが他にあるだろうか。もう煮るなり焼くなり好きにしてくれ。


「うわー、告白断った直後にツーショ撮るとか鬼畜ですねー」


「あははは、朔ちゃんの初告白記念だったからねー。でもあの可愛かった朔ちゃんがこんなに格好良くなるなんてねぇ。しかも若手の注目バンドと一緒にツアーを回ってるんでしょ? あの時ちゃんとキープしとけば良かったかなー、なんて」


「心にもないことを言わないでくれよ」


「えー、そんなことないよ?」


 早紀ちゃんはケラケラと笑いながら、グラスに入った氷をカラカラ鳴らしていた。あれだけ酔っていたのにまだ飲むのか。酒の強さは琴さんと良い勝負かもしれない。


「お風呂あがりましたよーっと」


 たっぷりと時間をかけて、京太郎が風呂場から戻ってきた。俺が貸した中学の頃のジャージを着ていたのだが、当然つんつるてんである。だがその姿が、俺には救世主メシアに見えた。


「それじゃあ、俺は風呂入ってくるから。早紀ちゃん、あんま変なこと話さないでくれよ」


「久しぶりに一緒に入る?」


「アホ!」


「あははは、行ってらっしゃーい。それでねそれでね……」


 また早紀ちゃんが何かを暴露しようとしている。その場にいたらいつまで経っても風呂に入れなさそうなので、俺はもう諸々諦めることにした。それでも、背後から聞こえる笑い声はやっぱり気になる。


 正月ぶりの実家の風呂場。建物自体が古いため見栄えは良くないが、無駄に広いことが取り柄の風呂だ。昔はこの家に爺ちゃんと婆ちゃんも一緒に住んでおり、爺ちゃんが風呂の広さに拘りを持っていた結果である。昔はよく家族みんなで風呂に入ったものだ。いつのまにか設備をリフォームしたらしく、生意気にも追い炊き機能までついている。

 頭を洗い、体を洗い、顔を洗って湯船に飛び込む。そういえば、湯に浸かるのは久しぶりだ。一人暮らしの部屋ではお湯を溜めたりしないし、金沢のホテルには温泉があったらしいが、結局部屋のシャワーで済ませてしまっていた。今まであまり気にしていなかったが、脚を伸ばせる湯船とはこんなにも良いものだったんだな。


 そのままお湯の中で微睡まどろんでいると、唐突に風呂場の扉がガチャリと開いた。


「お背中流しましょうか?」


「な……!」


 咄嗟に股間と胸を隠す。その様子を見て、早紀ちゃんはまたケラケラと笑っていた。


「あははは! なんでおっぱいも隠すの? 女子なの?」


「いやいやいやいや、そんなんどうでもいいから! ドア閉めて!」


「えーいいじゃん。朔ちゃんの成長っぷりを見せてよ」


「何の成長を見ようとしてんだよ!」


「しょうがないなぁ」


 早紀ちゃんは渋々と言った感じで扉を閉めた。男女逆ならセクハラで一発アウトな案件だろう。いくら幼馴染だからと言って、越えてはいけない一線と言うものがある。


「ねぇ朔ちゃん」


 扉の向こうから、早紀ちゃんが語り掛けてきた。


「今度は何」


「せっかくの再会なのに、ちょっと冷たくない?」


 冷たい、だろうか。6年ぶりの再会で、距離感を測りかねているというのはあるかもしれない。18歳から24歳と14歳から20歳では、同じ6年でも感じ方は多分全然違うんだろう。

 早紀ちゃんは見た目は大人っぽくなったけれど、中身は全然変わっていなかった。昔と同じように、俺のことを子ども扱いして、意地悪で、楽しそうに笑っていた。


 俺は、そんな早紀ちゃんのことが好きだったんだ。


 俺はどうなんだろうか。自分ではあまりわからない。


「……みんなはどうしたの?」


「さすがに疲れてたみたいでさ、今日はもう寝るって。玲ちゃんだけは粘ろうとしてたけどね。琴ちゃんに引っ張られていったよ」


「そっか」


 天井から水滴がポチャンと落ちた。


「ねぇ早紀ちゃん、俺は変わったと思う?」


「んー? そうだねぇ。もうあの頃の泣き虫で可愛い朔ちゃんじゃないんだなって、一目見て思ったもん」


「それは良い意味で?」


「多分朔ちゃんは大人になったんだと思う。それに良いも悪いも無いでしょ」


「そういうもんかな」


「そういうもんなの」


 アルコールのせいか、早紀ちゃんは少しだけ呂律が怪しくなっていた。でも、それを抜きにしても俺の知っている早紀ちゃんの声ではない気がした。何だか、少しだけ寂しげなような。


「早紀ちゃんは全然変わんないね」


「えー? そんなことないでしょ。大人の魅力溢れる良い女になったと思わないの?」


「それは……否定しないけど」


「ふふ、朔ちゃんのエッチ」


「男湯を覗く痴女に言われたくないんですけど」


「お、言うようになったね~。今からでも一緒にお風呂入る?」


「それは遠慮しておきます」


「つまんないのー」


 今そんなことをしたなら、間違いなく明日のライブに支障をきたす事故が起こる。そもそも一緒に風呂に入ってたのだって、俺が小学3年生になるまでの間だ。それ以降はさすがに恥じらいと言うものを覚えて、一緒になんて入っていない。


「覚えてる? 朔ちゃんが小学校に上がるくらいの頃かなぁ。早紀ちゃんと結婚するんだーって言ってたの」


「……それは、まぁ。何となく」


「朔と早紀だから、子供が産まれたら名前はサケだね! って言ってたのは?」


 何だそのアホ丸出しのネーミングは。自分の子供に魚の名前を付けようとするなんて、我ながらぶっ飛んでいる。


「あの頃の朔ちゃんは可愛かったなぁ」


「可愛くなくなって悪かったね」


 早紀ちゃんはひとしきりケラケラと笑った後、大きくため息をついた。扉越しのこちらにも聞こえるくらい、大きなため息だった。


「朔ちゃんはさ、私に聞きたいことないの?」


「え?」


「私は朔ちゃんに聞きたいことがたくさんあるよ」


 急に低めのトーンで話し始める早紀ちゃんに、不覚にもドキッとしてしまった。


「聞きたいこと、ねぇ。じゃあ、何で今日ここにいるの?」


「ちょっとその質問ひどくない!? だからたまたま実家に帰ってきて……」


「こんな時期の平日に実家に帰ってきてるなんて不自然じゃん。何かあったんでしょ?」


「……なんだ。ちゃんと考えてくれてたんだ」


 気づいたのはついさっきだ。とは言えなかった。


「私さ、仕事辞めたんだよね」


 早紀ちゃんは昔から絵を描くことが得意で、専門学校を卒業した後デザイン関係の会社に就職したと聞いていた。自分の好きなことを仕事にできるなんて羨ましいと思ったものだ。


 だけど、現実はそんなに単純ではなかったらしい。


「何で辞めちゃったの?」


「んー、色々あってね」


「好きな仕事だったんじゃないの?」


「……好きじゃ、なくなっちゃったみたい」


 早紀ちゃんは明るい感じで言ったつもりなんだろうが、扉越しでもその寂しさが十分すぎるくらいに伝わってきた。


 こういう時、大人の男だったらスマートに気の利いた言葉をかけられるんだろうか。好きだったものを好きじゃなくなるというのは、どんな気持ちなんだろう。わからないけれど、きっととても辛いに違いない。


「大変だったんだね」


「そうだよ。大変だったんだから」


 早紀ちゃんはそう言うと、すっと立ち上がった。


「話、聞いてくれてありがとう。疲れてるのにごめんね。朔ちゃんは明日のライブ、頑張ってね」


「もう今日だけどね」


 そう言い返すと、またしても風呂場の扉が開けられた。


「そういうの可愛くない!」


「だから開けんなし!」


 早紀ちゃんはまたケラケラと笑って、扉を閉めた。


「今度は朔ちゃんの話もゆっくり聞かせてね」


 摺りガラスの扉の向こうに、その場を去ろうとする影が見えた。俺は風呂から上がり、扉を開けて声を掛けた。


「それなら、今日のライブ見に来て」


 早紀ちゃんは振り返って微笑んだ。その瞳には、うっすらと涙が浮かんでいた。


「前くらい隠しなよ」


 そう言われて、慌てて股間を隠す。


「でも、ありがとね」


 締まらないのは、やっぱり俺が大人になりきれてないからだろうか。

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