第26話 初めての×××××

 頭が痛い。どうやら、懲りずにまた飲み過ぎてしまったらしい。花見の時の教訓が活かされていないじゃないか。まだ少し肌寒い5月の朝は、体が布団からの脱出を拒絶する。目を開くことさえ億劫だ。今日はバイトも無いし、もう少し惰眠を貪るとしよう。あぁ、何だか花の香りのような、心地良い匂いがする。


「……」


 何だろう、この違和感は。そう言えば、昨晩どうやって帰ってきた? 打ち上げの後半からの記憶が曖昧だ。


「…………ッ!!」


 俺は飛び起きた。坊主がリズミカルに鐘を鳴らすように、グワングワンとした痛みが頭の中一杯に響いたが、それを気にしている余裕は無かった。


 見慣れない部屋。上半身裸の自分。そして、隣に感じる確かな温もり。飛び込んでくるありとあらゆる情報が、俺の脳を混乱させた。


「ん。もう起きたんか。おはよう、朔」


 温もりの主も目を覚ました。言うまでもない。この言葉のイントネーションは、琴さんだ。しかも、タンクトップにショートパンツという、あまりにも無防備な格好だった。露わになった細く白い脚に一瞬目が奪われる。


「こ、ここここ、ここ」


「何や、鶏にでもなってもうたんか」


「こここここれは一体」


「覚えてへんの?」


 かろうじて頷くと、琴さんは呆れたように溜め息をついた。


「昨夜はあんなに激しくして、全然寝かせてくれへんかったのに……忘れてまうなんてあんまりやわ」


「そ、それって、つまり、あの、その」


「ひどい」


 今にも泣きだしそうな琴さんを見て、俺はベッドから飛び出し、そのまま土下座した。


「どうもすみませんでしたーーーッ!!!!」


「責任、取ってくれへんの?」


「そ、そ、それは、その」


 こんな形で、なんの記憶も無いまましてしまうなんて。せめて少しくらいは、その思い出を噛み締めたりできないものなのか。

 どこからともなく「ありがとう、さようなら」の幻聴が聞こえてくる。切ないメロディに涙が溢れそうになる。あぁ、今までありがとう。そしてさようなら、我が純潔。


「って、お前ら!」


 どこからともなく、ではない。幻聴でもない。その歌はキッチンから聞こえてきていた。「ドッキリ大成功」と書かれた段ボールのプレートを持って、京太郎と玲がにやけた顔で歌っていたのだ。


「はぁああああああ、良かったぁああああ」


 俺はその場に崩れ落ちた。騙されたことに対する怒りよりも、何事もなかったことへの安堵が勝った。


「朔、そのリアクションはウチに対して失礼なんとちゃう?」


「この件に関しては、絶対謝りませんからね」


 青少年の純粋な心を弄んだ罪は重い。例え相手が琴さんであろうと、引く気はなかった。


「いやー、朝からいいもん見させてもらいましたよ。ナイスリアクションでした、朔パイセン。琴さんも、実に素晴らしい名女優っぷりでした」


 京太郎がおでこにしわを寄せてニヤニヤしながら近づいてきた。ただでさえムカつくその表情に加え、無駄に敬語なのが余計に癇に障る。


「朔さん朔さん」


「何だよ、玲まで」


 彼女もこの企画に参加しているというのが、少し悲しい。先輩としての威厳は、もう失われてしまったんだろうか。


「実際のところ、どこまで覚えてます?」


「え?」


「昨日の打ち上げの時の話です。どこまで覚えてますか?」


 少なくとも、この状況に至った経緯は当然覚えていない。そもそもここはどこなんだ。状況から言って、おそらく琴さんの家なんだろうけれど。

 どこまで覚えているかと問われ、記憶を探ってみる。確か昨日の夜は……


「かんぱーい! いやー今日のライブは最高だったよ!」


 もう何度目かわからない乾杯を交わし、俺は席に着いた。そのテーブルには、玲、琴さん、京太郎も座っていた。


「玲ちゃん、本当によく頑張ったよね。あの短期間であそこまで上達するなんて、正直思ってなかったよ」


「えへへ、ありがとうございます」


「初めてステージに立ってみて、どないやった?」


「もうめちゃくちゃ楽しかったです! 正直、よくわからないまま終わっちゃったんですけど、楽しかったってことだけは確実です」


 玲は唐揚げを口いっぱいに頬張りながら、興奮気味に話していた。どの練習が大変だったとか、ここのフレーズを弾くのが楽しかったとか、そんな他愛のない話に花が咲く、心地よい時間だった。


 しばらく経った後、お酒も進み、すっかりと良い気分になっていた。


「玲が楽しかったなら何よりだよ」


「朔さんが最後まで特訓してくれたおかげです」


「いや、俺が今回頑張ろうって思えたのは、玲が本気でやってる姿を見たからだよ。おかげですごく良いライブができた。こちらこそ、ありがとね」


「いえいえ、私なんてそんな」


 謙遜しているというよりは、本心から自分にはまだ至らない部分が多い、という思いが伝わってくる。


「技術的なことはともかく、俺は玲と一緒にバンドができて救われたんだよ。何て言うか、最近の俺は目標を見失っていたんだと思う。楽しければそれでいいのか、その先を目指すのか、宙ぶらりんのまま、ダラダラと続けていた気がするんだ」


 酔いが回っている所為もあるだろうか、素直な言葉が流れるように溢れてきた。卑怯にも思えたが、そのままアルコールの力を借りることにした。


「今回一緒にバンドをやって、俺も今までで一番練習したと思う。そんで、一生懸命やることの楽しさがわかった気がするんだ」


 琴さんも京太郎も、珍しく茶々を入れてこない。俺の話を真剣に聞いていた。


「だから、その、もし玲が良ければ、なんだけど…」


 玲は今、どんな表情をしている? 顔を直視できない。後ろめたいことなんて無い。だけど、もしもこの先の話をして、断られてしまったら……正直、立ち直れないかもしれない。


「朔さん」


 名前を呼ばれて、ようやく玲の顔を見ることができた。玲は笑っていた。


「私きっと、朔さんと同じこと考えてると思います」


 今まで肝心なことを有耶無耶にしたまま、ここまで来てしまった。そのうえ、玲にその台詞を言わせてしまったことが、とてつもなく恥ずかしかった。


「ごめん、玲。ちゃんと言うよ」


 玲は何も言わずに頷いた。


「俺と一緒に、バンドをやって欲しい。コピーじゃない、俺たちだけの、オリジナルのバンドを。そして一緒に、プロを目指してほしい」


 言えた。今まで、誰に対してだって話したことなんてなかった「プロになりたい」という思いまで含めて。漠然と願ってはいても、その言葉を口にすることは、とても怖いことだと思っていた。

 夢を語る以上、それに見合う努力をしなければならない。楽しければそれでいい、そう思っていた頃には、足らない覚悟が言葉の通行を決して許さなかった。


 でも、言えた。


「いきなりプロだなんて言われたら引くかもしれないけど、玲とだったらやれるって思うんだ」


 玲は笑顔のままで話を聞いていた。


「朔さん。さっきは同じこと考えてる、なんて生意気なこと言ってすいませんでした」


 玲の言葉に、心臓が一気に鼓動を早める。あれ? この流れ、やばくない?


「私も、朔さんと一緒にもっとバンドをやりたいって思ってました。でも、プロになりたいなんて、考えてなかったです」


 焦りすぎたか。打ち寄せた波が沖へ帰るように、サーっと顔から血の気が引いていくのを感じた。プロを目指そうなんて、言わなきゃよかった。そう後悔しかけたその時、


「でも朔さんは、私ならやれるって、そう信じてくれるんですよね?」


 玲の言葉と笑顔に、俺はまた、希望を見出した。


「もちろん!」


 クソダササムズアップを決めると、玲は立ち上がり、深々と頭を下げた。


「これからも、よろしくお願いします」


 玲は頭を上げて、改めて言う。


「今度は、何となくじゃありません。私が信じられると思う人が、私を信じてくれるんですから」


 俺は歓喜した。言葉にならないほどに。まるで、恋焦がれ続けた最愛の女性と、遂に両想いになったかのように。


 そこで記憶は途切れていた。


「あの後の朔は、そりゃあもう酷いもんやったねぇ。誰彼構わずひたすら乾杯して、一気飲みを繰り返して。正直、あの場にいた全員がドン引きしとったし。あんたが酔いつぶれてもうたから、仕方なく店から近いうちで介抱することになったんよ。せやから、あんたが寝かせてくれんかったってのは、事実やで」


「多分一番引いてたの奈々子さんっすよね。なんか清々しくライブ終えたと思ってたところ、朔が大暴れしてるの見て、ガチで呆れた感出してましたもん」


「ほんまになぁ。あの時の奈々子の顔は見ものやったわ」


「でも、肝心なところは覚えていてくれて良かったです。もしあの事を覚えてないって言われたら、私も今からドン引きするところでした」


 頭が痛い。二日酔いとは違う意味で。でも、


「昨日のことは、夢じゃないんだよな?」


「朔さん、それ酷いですよ。私、泣いちゃいますよ?」


 俺は大きく深呼吸をした。


「色々ご迷惑をおかけしました。そして、改めてよろしくね、玲」


「こちらこそ、よろしくお願いします」


 玲と笑顔で握手を交わした。その手の温もりが、ただひたすらに嬉しかった。


「なぁ、二人で話を進めてるけど」


「当然ウチらも含まれてるんよな?」


 京太郎と琴さんが割り込んできた。異論など、あるはずがない。


「もちろん、この4人で!」

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る