第7話 苦行
完璧だ。完全無欠だ。これが、そうか、初めての体験だ。あぁ、駄目だ。耐えられない。立っていることすら辛い。
「気持ち悪りぃ……」
二日酔い。自身の代謝能力以上に摂取することにより引き起こされる、不快な身体的状態。エタノールがアセトアルデヒドに代謝され、体内にまだ残ったそれが二日酔いの症状を引き起こす。基本的には、夜間に酒を飲み、翌朝の起床後、顕著に現れる現象を指す。また、
(Wikipediaより引用)
土曜日の夜、家の近所の中華料理屋でアルバイト中に、俺は地獄を見ていた。
玲との邂逅の後、調子に乗って(と言うか琴さんに煽られて)酒を飲みすぎたのだ。あの時点ですでに、危険水域まで達していたはずなのに。急性アルコール中毒にならなかったのは幸運だったと言えるだろう。比較的、酒に耐性のある体に産んでくれた、両親に感謝。
それでも、吐いて、胃の中が空っぽになるまで吐いて、それでもなお胃酸的な何かを吐いて、吐き気のフェーズはとうの昔に通り過ぎていた。それなのに、とにかく気持ちが悪い。気分が悪い。吐き気が無いのに、だ。楽な姿勢が見当たらない。寝ていても、座っていても、立っていても駄目だ。完全に二日酔いというものを舐めていた。死んだ方がマシだと言っていた、京太郎の言葉を思い出す。あぁ、あれは大袈裟ではなかったんだな。
だが、そんな状態でも、金を稼がなくてはならない。
もしあなたの周りにバンドマンがいるなら、不思議に思ったことはないだろうか。何故彼らはあんなにもバイトに明け暮れているのか、と。答えは簡単。バンドをやるには金がいるのだ。
楽器の購入費用。弦やピック等の消耗品の購入費用。スタジオの使用料。デモCDの製作費用。フライヤーの製作費用。バンド同士の横のつながりを作るために、仲の良いバンドのライブを観に行く費用。そして、ライブハウスへの出演ノルマetc。
月に1回程度ライブを行うバンドであれば、それほど負担は大きくないだろう。ただ、週に1~2回以上のペースでライブをしようと思えばそうはいかない。
だから彼らはバイトに明け暮れる。来る日も来る日も、ライブハウスにノルマを払うために。意外と勤勉に働くので、中にはバイトリーダーなんかになったりして、バンドよりバイトを優先し始める本末転倒な奴もいるが。
今組んでいるBELLBOY'sは、月1回のライブに週1~2回の練習といったペースで活動しているため、これまでなら今日のバイトは休みを取っただろう。しかし、今日のバイトを休む気にはならなかった。
サークルの練習場でスタジオ代をある程度浮かせることができるので、そういった後ろ盾の無いバンドに比べれば、俺の環境は恵まれていると言える。だが、サークルメンバーの順番待ちをしながら1回1時間程度の練習をしているだけでは、練習量がまったく足りない。いや、これからは足りなくなる。そう思ったのだ。そうすれば必然的に、練習のためスタジオに入る回数が増えてくる。
これからもっと練習が必要だ。あの夜、そう決意した。そのためには先立つものが必要だ。辛くとも、立ち向かわなければならない。
「お兄さん、ビール追加お願い」
「よろこんでぇえええぇえ」
へろへろの声で客の要望に応え、重たい体を引きずりながら、ビールジョッキに黄金色の液体を注ぐ。
「おえぇええええ」
ジョッキにビールを注いだときの臭いが、無くしたはずの吐き気をリフレインする。危うくビールに酸味のスパイスが施されるところだった。あぁ、こんな苦行がかつてあっただろうか。一体自分が何をしたと言うのか。諸悪の根源は……あの魔王だ。
「……勝てる、わけが無い……」
ささやかな復讐を一考してみたものの、その先にさらなる地獄が待つことは明白だ。勝てぬと分かっている戦に挑むのは勇敢ではない。無謀というものだ。自分をもっと大切にしよう。
俺は心を無にして、オーダーアンド配膳マシーンと化した。その姿は、社畜の素養を十分に感じさせた。どこかの誰かが、「家畜に神はいない」とのたまっていたが、社畜にはどうなんだろうか。多分いない。いや、そんなことはどうでもいい。
暗闇の中でもがいていたところに、一筋の光が差して見えた。他でもない、自分自身の夢のために。
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