夏の砂塵

富田敬彦

 私達は砂の上に裸足で立ち、互いの息遣いを感じながら待機していた。日は強く照ってはいたが、足の裏で直に踏みしめる地面は妙に冷たく、その細かい砂が私達の足を白く染めるのだった。小声で話す者が数人いるほかは皆無言で、私もまた黙り込み、ややうつむいて立っていた。

 毛の生えたすね、或るものは浅黒く或るものは白い男達の脛が、林のように並んでいた。地面に引かれた石灰の粉の線が、私の足元を横切っており、多くの足に踏まれて所々それは消えかかり、或る所では途切れていた。私は足の爪先でその純白の色をした粉を軽く搔き廻した。石灰の粉は砂と混ざり合い、私の爪先は白く染まった。

 私達の前には巨大な壁のように、五階建ての校舎がそそり立っている。それを背にして、運動場を隔てた朝礼台の上に、体育教師が立っていた。三十代後半の、頭を丸刈りにしたたくましい男である。彼が自身のくびに紐で掛けた呼子笛ホイッスルを手に持ち、合図の準備に入ると、小声で話していた者も次々に前へ向き直り、緊迫した静寂の空気がみなぎった。

 私は自身の学級担任でもあるこの体育教師をおそれていた。二年になった今こそ、この教師はやや穏やかになったが、入学したばかりの頃の私達に対し、彼は凄まじい厳しさを見せつけたのである。私達は集合の際の足取りが遅かったと言われては怒鳴られ、返事の声が小さいと言っては怒鳴られ、説教の最中に思わず笑いを漏らした者などは、胸倉を摑まれて蹴られたりした。殴らなかったのは、あくまでも昨今の体罰禁止の風潮からであって、そうでなければ殴打も躊躇しなかったろう。

 一部の者が私語を洩らした罰として、運動場の端まで走って戻ってくるよう指示されることも一再ならずあった。このように繰り返し連帯責任を負わされることによって、高校という未知の環境にへ足を踏み入れたばかりの私達は、従順な子羊のように飼い馴らされていったのだった。しかし同じ市内の某工業高校では、この高校とは比にならぬほどの軍隊的教育が行われており、耐えられず退学する者が続出しているという、高い確率で真実であろう噂も、私達の間では交されていた。

 瘦せた、およそ逞しさからは程遠い身体を持っていた私にとっては、この教師の頑強な肉体、それに包まれた精神自体が、既に大きな一つの脅威であった。決してこの男を、自分は理解することは出来ないという確信が私にはあった。このように強靭な肉体で以て思考し、行動するこの種の人間を、私が理解することが出来る筈はないではないか。しかし体育の授業というこの長い一時間、私達は完全にこの男の掌中に握られているのだ。……

 笛が鳴った。

 私達は一斉に駆け出した、尖った石の粒を足の裏に感じながら。私達は運動場を横切り、体育教師の正面に整列し直した。前倣えの姿勢を取り、整列が完了すると、再び鳴った笛と共に、一斉に互いの間に間隔を取って広がった。

 運動場一杯に、一定の距離を保った生徒達が、規則正しく並んだ。列からはみ出していると何を言われるか分らないので、私達は慎重に自分の前や横の者を見て自らの位置を決定した。教師は油断なく、朝礼台の上から私達全体を見下ろしていた。

 笛が鳴り、私達は自分の横に立つ『二人組ペア』の相手に向き直った。私の相手は小柄な白い少年である。彼の一心にどこかを見つめるような表情を、私は見た。合図と共に、彼は手を地面につけ、地を蹴って倒立した。

 飛んできた二つの足首を、私は摑まえて彼の体を安定させた。倒立はほぼ全ての生徒が出来ていたし、その後の肩車、続く『仙人掌サボテン』も同様であった。

『帆掛舟』は何度練習しても成功した試しのない技の一つだった。相手は仰向けになった私の、立てた膝に手を掛けて倒立しようとするのだが、私のその膝と、肩を支える腕だけを頼りにするのは大層不安であるらしく、彼は地を蹴る足にそれほどの力を込めなかった。私は彼を責めなかったし、またその資格もないと思っていた。私が彼であったとしても、そんな技はとても出来なかったであろうから。

 だが、二人での技だけならまだいい、と私は思っていた。当然ながら、技を構成する人数が増えていくほどに難易度は高くなる。私は背の高い方であったから、危険な上部に立つ役を任されることはなく、それがせめてもの救いであった。

 二人技が終ると、私達は素早く決められた位置へと駆けていき、今度は四人ずつになって並んだ。『風車』である。

 私達は輪になって、向い合う者と肩を組み合わせ、笛の合図と共に回転を始めた。夏の日光が私の周りにひらめいた。段々と速度が強まってくると、小柄な二人の少年は足を地から離し、私と、向い合うもう一人の回転に支えられて、その勢いのままに宙に浮いた。……笛の合図と共に私達は組んでいた肩を離し、地面に倒れた。

 次の合図で立ち上るまでの間、私は熱された砂の温度を腹に感じていた。大地は熱におおわれていた。私の顎は細かな運動場の砂を直に感じ、その感触は私に、いつものことながら、一瞬の砂漠の幻想を抱かせた。そしてその空想はこの時、私がずっと以前に見た一葉の写真、涸れた砂漠の中の泉のほとりに散乱する、駱駝らくだの白骨の姿を脳裡に浮び上らせた。砂漠の駱駝達は、水を求めて泉のある筈の場所へとようよう辿り着いたものの、泉が涸れてしまっていたために、その場で力尽き、死んでいったのだった。そのなれの果ての姿を、その写真は写していたのだ。

 私もまた、駱駝の末期の苦しみとは余りに逕庭けいていがあったにせよ、喉を乾かせ地に伏していた。そして私は自らのその体勢から、まるで朽ちて砂上に散らばった骨のように、自らを思いすのだった。

 しかしそんな空想も束の間のことで、笛の合図と共に、砂の上に横たわっていた私達は、弾かれるように一斉に立ち上らねばならなかった。

 その次は五人での演技だった。自分の位置まで駆けて二人が背中合せになって上半身を前に倒し、それぞれ倒立を受け止め、その背中を土台として一人が立つ技がある。この技は『小帆船ヨット』と呼ばれていた。私は別の少年と、背中合わせに腰を密着させて屈み込んだ。上に乗るのは二人組の時に私の相手であった少年で、彼は慎重に私達の背に足を掛け、その上に乗った。

 私達はゆっくりと立ち上ったが、私は上に立つ少年の足が、小刻みに震えるのを感じていた。笛の合図と共に、私の目の前で再び倒立が行われた。私はなるべく体を動かさぬようにしたままその足首を捉えたが、その時に上の少年の足が激しく震え出した。

 危ない、と私は思ったが、次の瞬間には彼はもう飛び降りていた。俄かに背中の重圧から解放された私は、顔を上げて彼の顔を見た。彼ははにかんだ表情を見せて俯き、帆のないヨットの前に立った。

 続く『扇』、六人組での『山肩車』、『モザイク』は無事に成功した。

 最後に残されたのは『金字塔ピラミッド』と『タワー』であったが、『金字塔』は肉体的な苦痛でいえば、私にとって最も辛い演技であった。背の高い私は必然的に一番下の土台の役割を宛がわれるのだが、作られるのは四段のピラミッドであるので、三段分の重量が私に圧し掛かってくることになる。その状態で笛の合図に合せ、左右、上下へと一斉に顔を向けさせられた後、ようやく重圧から解放されるのが、毎度、恐ろしく長い時間であった。

 しかも、ピラミッドは一段ずつ上から降りていって解体されるのではなく、笛の合図と共に、一斉に「崩れる」ことになっている。上から雪崩れ落ちるように落下してきた生徒達の身体に押し潰されて痛みに耐えながら、ようやくこの演技は終るのだった。

 一段目に割り当てられた人数は四人で、私の位置は向って左から二番目である。笛が鳴ると、整列していた私達は一斉に四つん這いになった。私達はそうしなければ膝に血が滲むことになるとよく知っていたから、その姿勢をとるとすぐに、各々の膝を置く場所の砂を掌で払い、細かい砂利を取り除けた。私は四つん這いになりながらもまだ何も背に重圧の掛かっていない、この僅かな空白の時間を感じていたが、すぐに再度笛は鳴り、二段目の少年達が上に載ってきた。私の上の少年は私の肩を軽く摑み、その片方の膝を私の背に置いて載ったが、まだ苦痛というほどではなかった。私の隣の生徒が大きく息をついた。

 三段目が載る段になると途端に重圧が増し、辛くなった。辺りも騒がしくなり、「もうちょっと膝、横に置いて!」「背骨の上に膝載せるな!」といった声が、周辺のピラミッドを含めて響き始めた。私の厚みのない身体は、重みに軋むようだった。全身を硬直させて私は耐えた。

 四段目の生徒が「いい? 載るよ? いい?」と言いながら隣の生徒に足を掛け、登り始めた。ううっ、と一段目の一人が呻き声を漏らした。私は砂を摑むように、手に力を込めて耐えていた。背を水平に保つことは難しく、ともすれば下へとたわんでいきそうになった。

 遂に全てのピラミッドが完成した様子だった。私達は笛の合図に合せて一斉に首を動かし、上下左右へと顔を向けたが、どうしてこんな動きをしなければならないのか皆目分らず、この体育教師が私達を苦しめるためだけにさせているのではないだろうかとさえ思った。私は一刻も早くこの苦痛から逃れたかった。そして笛の合図と共に上の三段分の生徒達が崩れ落ちてきた時、私の後頭部には上の生徒の顎が弾みで激しく打ちつけられ、私の掌や肘や膝は砂利の散らばる地面に否応なしに強く押し付けられて擦り剝けられた。地面に腹這いになった私はその幾つもの擦り傷と後頭部との痛みとを感じながら、次の合図で皆が一斉に立ち上るまでそのままの姿勢でいた。巻き上った砂塵が私の顔を包み、すぐ横にいる者がその時漏らした吐息が、私の耳を打った。……

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