この世界で

富田敬彦


 なんぢ義をもて堅くたち虐待しへたげよりとほざかりてをづることなくまた恐懼おそれよりとほざかるべし そは恐懼なんぢに近づくことなければなり

  ――以賽亜イザヤ書 五十四章 十四節



 保健室のカーテンが、白いひかりの中でゆれて、美しかった。

 開けはなされた窓から吹きこむ風が、しずかにカーテンのひだをゆらめかせていた。かくれていたずらをする子どものように、それは目立たないひそかな動きで、天井から長くのびたそのレースの布のすそは、時折ふわりとやさしく広がるのだった。

 床の上には細長く、窓枠とカーテンとにくぎられた、水たまりのようなひかりがあった。カーテンがゆれるにつれ、それはとどまることなしに、形を変えつづけるのだった。床の木のタイルはあたたかい色にかがやいた。

 わたしは椅子に腰かけてその様子を見ていた。いかなる時にもどこかの地上でおだやかな風は吹き、空には雲がひろがっているのだと思いながら。この地球にくらす人間たちに何がおころうとも、自然はつゆほども意に介さずに、それぞれの営みをつづけてゆくのだ。今わたしがこうして、暖かい陽光に満ちた部屋にすわっている今も、遙かな洋上で、絶海の孤島で、険しい山岳で、誰も知らない物語がくり広げられているのだ、とわたしは遠い思いにふけっていた。しかしふと足元に目を落したわたしは、そこに紺色の制服のスカートをはき、学校指定の上靴をはいた自身の脚を見出して、変らぬ現実へと引きもどされるのだった。わたしは顔をあげて部屋を見わたし、あたかも一つ一つ点検でもしてゆくように、スチール製の事務机、書類棚、身長測定器、体重計、カーテンに隠されたベッド、壁の掲示物――タバコは多くの害を体にもたらします……健康な食生活を送りましょう……牛乳を飲んでじょうぶな骨をつくろう――を見た。

 紙をめくる、かわいた音がした。保健室の先生が、事務机にむかって何かの書類をしらべているのだった。五十過ぎだろうか、六十過ぎだろうか。小柄な、眼鏡をかけたやさしいおばさんだ。先生は時々、ボールペンで書類に何かを書きつけた。けれどもそれがわたしに関係するものでないことはわかっていたから、わたしは安心してその作業を見ていることができた。

 わたしが突然保健室をおとなっても、この先生は事情を根掘り葉掘りたずねたりはせずに、やさしくわたしを招き入れてくれた。うながされるまま、おそるおそる椅子のひとつに腰をおろしたわたしは、そのことに深い感謝の念を感じていたが、いつ何をきかれるかと、不安な思いもふと脳裡をかすめた。わたしの置かれた状況を、どう説明したものだろう。登校はしたものの、どうしても教室へは行く気にならなかった――ただそれだけを言おうか。しかし当然ながら、噓ではないにしても、それのみが理由のすべてではないというのも、また事実なのだった。これ以上を言う気にはなれない。……でも、この小柄なおばさんの先生になら、少しは心をひらいて話せる気がした。

 時計を見ると三時限目の時間だった。本来なら出るべき授業に、わたしは二時限ぶんも出ずにすごしてしまった、とわたしは思った。ほんとうならここは、わたしのいるべき場所ではないのだ。罪悪感が胸をしめつけた。今からでも授業に出るべきではないのか、と心の声がわたしにささやきつづけていた。

 長い逡巡の末に、わたしは立ちあがった。先生が顔をあげてわたしを見た。わたしはためらいつつ、やはり教室にもどることにします、と言った。

「大丈夫なの? 気分はわるくないの?」と先生はたずねた。眼鏡の奥の目は、気づかわしげにわたしを見ていた。それを見ていると意志がくじけそうな気がして、わたしは思わず目をそらせつつ、ええ、大丈夫です、と答えた。

 しかし後ろ髪をひかれるようにして保健室をあとにしたわたしは、だれもいないしずかな廊下に立って、しばしためらわずにはいられなかった。

 廊下はうすぐらく、心なしか肌ざむくさえあった。足を引きずるようにして階段の下までやってきたものの、そこを上がってゆく勇気がどうしても出なかった。今朝もわたしは同じ場所に立ちどまり、同じ逡巡の思いをめぐらせていたのだ。わたしはいつも、この階段を毎朝のぼって教室へと行くのだった。気が進まなくとも、のぼった先にわたしの安息の地がないことを痛いほどに知りつつも、わたしは教室へ行かねばならないと自分に言いきかせ、重い足を引きずって階段をのぼっていったのだ。

 しかしもう、限界がやってこようとしていた。今朝はどうしても、教室へと入っていく気にはなれなかった。もうこれ以上は無理だと、心のどこかがわたしにささやいていた。わたしは廊下の真中に立ちどまり、かたわらを通り過ぎてゆく生徒たちの、不審と好奇の視線にさらされながら、暗い上階へとつづいてゆく階段を見上げつづけていた。

 そうだ、そのときに佳織が姿をあらわしたのだった。ふとふりかえったわたしは、同級生たちとしゃべりあいながら、廊下を歩いてくる彼女の姿をみとめた。はっとしたわたしは、ほとんど反射的に、すばやくその場を離れた。そして横の廊下へと逸れ、ちょうどそこにあった、久しく訪れることなどなかった、保健室の扉をたたいたのだった。佳織とはそれほどに、もう顔をあわせたくなかった。

 今、わたしはふたたび階段を見上げて、廊下に立っていた。しかしもう、答えは半ばわかっていた。すくなくとも今日、わたしがその階段をのぼることはないだろう、とわたしは知っていた。今さらそんな勇気が出るくらいなら、わたしはとうに教室の中にいたであろうから。

 それに、とわたしは思った。わたしがいなくとも、教室にいるだれも困りはしない。わたしはもともと、いないのと同じなのだから。わたしがいなくとも、だれも気にせず、授業はいつもどおりに進んでゆくだろう。わかりきったことだ。教室はわたしの居場所ではない。あの部屋のどこにも、わたしの居場所などない……。

 わたしはきびすをかえし、保健室へともどることにした。できることならばそのまま帰りたかったが、そうするわけにもいかなかった。体調がわるいので今日はもう帰ります、と言おうとわたしは思った。

 廊下の窓から、わたしは外を見た。運動場から遠く、体育の授業を受けている生徒たちの声が聞えた。空は澄みわたり、木々の葉は青く萌えていた。


 わたしはその翌日から、学校へ行くことをやめた。両親には気分がわるいと告げた。母はわたしを病院へと連れていき、わたしもそれに素直にしたがったのだが、数日にわたってわたしがほとんど部屋から出ず、気分がわるいとの言いわけをくりかえしているのを見て、両親もとうとう、なにかを察したらしかった。三日目にわたしの部屋の戸をたたいた母は、きしむ音とともにゆっくりと戸をひらきながら、心配そうな目でわたしを見た。

 わたしはなにをするでもなく机にむかっていたが、ふりかえって、母の痛々しい視線に接し、思わず目をそらせた。母は見知らぬ人の部屋をおとずれたかのように、しずかに、おそるおそるといった足どりで部屋へと入ってきた。恵美、と母はわたしの名を呼んだ。

「気分、まだわるいの?」

 うん、とためらいがちにうなずいたわたしは、かねてから胸にいだいていた罪悪感に、再びしめつけられる自分を感じた。思わず熱でもあるかのように額に手を当ててみせつつ、その実平熱で、健康なからだであることはわかりきっていた。

「学校で……なにかあったの? 行きたくない理由があるの?」

 母は思いきった口調で言った。普段の母とはまるでちがっていた。わたしはぞんざいに扱われているのではなかったのか、とわたしは思った。父も母も、自分の気持など何も考えてはいないとわたしは思っていた。しかし人の気持を考えるということと、それを理解するということとは別だ。

 わたしは黙りこんだ。母にわたしの心の窮迫した事情をわかってほしいという気持と、何も言いたくはないという気持とが、はげしくせめぎあっていた。しかししばらくの葛藤の末に、わたしはただ一言、「別にない」とだけ答えた。

「そう……」母の口調はとまどっていた。わたしはなにもそれ以上言わなかった。母はやがてまた、足音をたてることさえもはばかっているような足取りで、ゆっくりと部屋の外へ出た。しかし彼女はすぐには立ち去らなかった。戸口でしばし立ちどまり、わたしに言うべき言葉を懸命にさがしているのがわかった。

「早く……よくなるといいわね」

 母は苦悶しているような表情でそれだけ言うと、しずかに戸をとざした。わたしは自責の念におそわれながらも、思わず安堵の息をついた。そうして再びおとずれた孤独な時間のなかで、暗い思考へと沈潜していった。

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