麺匠仁7号店月間売上報告書
明日葉叶
第1話再オープン
薄暗い寝室。小汚い部屋。数週間ほったらかしの食器に滴る水道水。
俺は、静かに怒りを覚えていた。
「元人気作家H シャブ中で借金 返済できずに殺害か」
「あの人は今?! 元作家茶道人二 海外逃亡の末自殺か」
くそ。
飲むかけのコーヒーをテーブルにたたきつける。散らかった文房具やあふれんばかりの灰や短くなったたばこでいっぱいの灰皿が、一瞬中に浮いた。
俺は狭山仁。2年ほど前までは作家として暮らしてきた。ドラマ化だってされた人気作家ってやつだ。ところが、ネタ切れと古い使いまわしが原因ですっかり干されてしまった。まぁ、俺の作家としてのプライドみたいなもんも多分あってか、ずいぶんとわがままも言ってしまったのも一因か。
そんなわけで、もう1年近く無職。貯金を切り崩してはコンビニ弁当に食らいつき、当たるはずもない万馬券にその金をつっこんだ。おかげでこのざまだ。ネットにはあらぬ噂が広がり、俺はいつの間にか故人になっている。
本当なら、今日は大人の動物園(馬限定)に行って夢を追う予定だった。
だがどうだ。セットしたはずのアラームは俺の耳には届かず、外の小雨の心地いい音が眠りを誘い気づけばすでに正午を回っていた。完全に寝坊をしてしまった。あっせった俺は、飛び起きた瞬間にこむら返りを引き起こし悶絶。結局外出はそれからさらに30分ほど遅れた。
俺が住んでいるのは築30年の木造二階のおんぼろアパート。駅から徒歩20分。格安ってところしかプラスの面がない。外の雨は弱まることはなく、このままずっと永遠に降り続く気さえ起こさせた。梅雨はもう終わったはずなんだけど。
俺はひとまず、現金を引き出しにコンビニへ向かうことにした。もちろん車なんてないし、安いビニール傘を指して歩いていく。
何かしないと。何か始めないと。とにかく何か。
数週間ぶりに外出を決めたのは、自分の中にようやく何か人としての焦りが出始めたからで決してお馬さんを見に行きたかったわけではない。無職、貯金残高、引き落とし。そんな言葉が余計に拍車をかけて、昨日の晩に「とにかくどこかへ出かけよう。寝腐ってちゃ何も始まらない」と勢い込んだのである。
3Fと書かれたピンクの看板が曇天の下にむなしく目立っている。フレッシュ、フリー、ファインの3Fらしい。俺はこのマイナーなコンビニしか普段利用しない。なぜなら理由は三つ。一つは。
「……らっしゃいませぇ……」
ここの店なら堂々と入店できる。なぜならこの挨拶のように店員にやる気がないからだ。その証拠に俺の顔など一度も見られていない。だから、俺が売れっ子作家だったという事実も、近所に住んでいるという個人情報も知られる心配はない。入店するたびに見かける店員の姿は、カウンターに雑誌を置いてぺらぺらとページをめくりこちらには一切の関心を見せない。完全なる怠慢だが、顔を知られたない俺にとっては逆に好都合だった。以後、ここのオーナーには申し訳ないがこの店員は首にしないでいただきたいと切に願う。
どうやら今日は今日発売の週刊誌を見ているようだった。見ているページにはくだらないゴシップ記事が並んでいる。芸能人の大麻所持や、そのせいで海外逃亡したかのような記事。いったいどこからそんなデマが流れているんだか。
海苔弁当380円がしばらく俺の飯になっていた。でも、魔法の一言でこの格安弁当はさらに奇跡を見せる。それが俺がこの店に通う二つ目の理由。
「店員さん、これ期限がもう」俺は期限が昨日の弁当を持ってカウンターで涼しい顔してさぼる彼女に言う。
「……。じゃ、いつもみたいにするんでいいですよ」フリーターであろう彼女はまだ週刊誌から目を離すことはない。380円が彼女の独断で300円まで値下がりをみせる。こんな状況なのにこの店は一年以上つぶれる様子はない。
三つ目の理由はこの理不尽に続く店の営業状態だ。こんな店員がいるのに、閑散としているのになぜかつぶれない。
食料は手に入れた、あとはATMでまだ残っているはずの貯金を下ろして動物園(馬限定)に向かうだけ。悠々と期限切れの海苔弁をレジの彼女の近くに置く。もちろん、彼女の読書の邪魔をしないようなるべくそっと。
「あの、すいません。これを」
「300円になります」彼女はこのタイミングでさえ片時も雑誌から目を離さない。俺もこれくらい仕事に食らいついていれば、のり弁なんてむさぼらなくてもよかったのかもしれない。そう思うと、なぜだか彼女に対して賛辞を贈りたい気分にさえなっていた。それが心の緊張というものを解いていたのかもしれない。手元がくるって、財布を落として、カウンターにカード類が散乱した。
やばい。俺は完全に焦っていた。
その焦りがようやく彼女にも伝わったのか、彼女はおもむろに視界に入った俺の免許証を一瞥して固まった。
「佐藤仁……」昔、なんかの雑誌で載せた俺の写真。それは免許証と全く同じ服装で、撮影日もあまり変わっていない。ネットや雑誌で出回っているものがあるとすればこの写真だ。そしてペンネームも。自分の名前を少し変えたくらいでそこまでこだわったものでもない。
俺の背中に嫌な汗が流れるのが分かった。ばれた、か。
「返してもらえますか。これからちょっと用事が」と言おうとしたところ彼女の叫び声にかき消された。
「ゆ、幽霊……?!」
ふざけんな。
再び大きくテーブルを揺らした。そのたびに灰皿の中のあふれそうなたばこの灰が宙を舞う。俺は、コンビニから動物園(馬限定)には向かわなかった。俺の記事が載った週刊誌を彼女からもぎ取り、ポケットからありったけの小銭をかき集め、カウンターのおびえる彼女にたたきつけて帰ってきたのだ。
見出しはこうだった。
「今年の死亡説はこれだ。元人気作家H,S氏。薬物依存で借金。組員に追われて自殺か」
有頂天だった俺はその写真でベストセラーになった小説「今夜、月明かりの下で」をもって満面の笑みを浮かべている。さすがにこの雑誌に載っている俺の顔には目に黒い帯で目隠しがされているが、持った小説の右端に明らかに茶道人二と書かれていた。本名を少し変えただけの単純な名前だ。これのほうが有名になったとき、俺の存在を、価値を周りの連中に知らしめることができると思ってのネーミングだった。それが今になってあだとなり、俺の心を突き刺してくる。完全に流れている死亡説の該当者は俺だ。
それよりもショックだったのが、(元)作家だ。確かに売れていないし、しばらく本も出版していない。でも、作りかけの作品はいくつもある。俺はまだ、作家だった。
畜生。
胃がキリキリと悲鳴を上げだした。締め付ける痛みに耐えかねて、数週間ほったらかしの食器がたまっている台所の流しに足を踏み入れた。胃薬とグラスを取り出し、蛇口をひねる。
一滴、二滴。滴る水滴に俺は驚愕した。と同時に、あたりの家電から電気が消える気配が消えた。
俺は、社会からも、現実からも見放されたというのか。
そのまま膝を抱えて、闇に意識を溶け込ませた。絶望と、後悔と、失望と。希望と。
希望という言葉は、しばしば光と同じような意味合いで使われることがある。それをその瞬間俺は深く思い知った。ライフラインが死んだこの部屋で、唯一光る家電が暗闇にともった。スマホだけは何とか生きていたようだった。
ぼんやり光るそれは、俺を誘うように先ほどまで俺が座っていたテーブルの上で持ち主の帰りを待っていた。
かけてきたのは、東北の地方都市で暮らす母からだった。実家とは疎遠だったが、迷わずとった。とにかく誰かと何かを話さないと心が壊れそうだった。
「はい、何の用?」
「何の用? じゃないわよ。しばらく連絡もないから。あんた、仕事はうまくいってるの?」
正直、今そこに触れてほしくはなかった。相変わらず悪い意味で空気が読める母親だった。
「順調に決まってるだろ。映画みた? 俺の会心の出来の作品……」
「父さんがね、死んじゃったの」
淡々とした口調だったと思う。毅然を装っているのか、淡々と事実だけを述べていく母さんに俺は少し驚いた。昔なら多分、泣いていたんだろう。
「だから、あんた。もし仕事がつらいならこっちに帰ってきていいんだよ? ご飯だって、うちにいるなら何とかなるんだし」
途中で俺は泣いていた。声にならなかった。ありがとう。母さん。
「もしもし? 仁? どうしたの? いるんでしょう?」
受話器では相変わらず俺を心配してくれる母さんのこれが漏れていた。
半月後にはおんぼろアパートを引き払い、二度と来ないと決心していた地に足を踏み入れていた。
すっかりほこりや油まみれの厨房を磨き上げるのには、かなりの体力を奪われた。ただ、時間をかけて磨き上げている間はこれからの不安は一切感じなかった。この作業が終わっても、まだ仕事はある。それがなんだか安心感になっていた。
その日はガス台に上がり、油が垂れてきそうな天井をぞうきんとマジックリンで掃除していた。外はすでに日暮が鳴いていて、一日の終わりを告げていた。それでも多分外は30度近くあったはずだ。もう、熱くていったん休憩をとろうとガス台から降りて外の自販機で缶コーヒーを買おうと指をボタンの前で右往左往していた時だった。背後から消え入りそうな声が聞こえてきた。
「あの、ここ再オープンするんですか?」蚊の鳴くような声で、一瞬何かの物音に聞こえて反応するのに遅れが出た。
振り返るとそこには誰もいない。店の向かいにある薬局が閉店の準備をしていた。
「あの」という小さな声に視線を落とす。発せられる本人の身長が俺の身長よりも小さいせいだ。ようやく俺は黒髪の少女の存在を認識した。黒髪で、黒いパーカーを着て、真夏に冬用の黒い手袋までしている。
「あの、お店は」
「あ、あぁ。近々再オープンの予定です。よかったらぜひお越しください。絶品を提供しますんで」となれない作り笑い。作家時代はこんなことなかったのに。
「そう、よかった。近くになくて困ってたの。」サングラスをかけた彼女の表情は読めない。笑っているようにも見えるが、その笑いは不気味に映る。
「じゃあ、また今度。再オープン楽しみにしてますんで」と彼女は張り付けた薄気味悪い笑顔で去っていく。右へ左へふらふらと、たまに通りかかる下校途中の小学生や、買い物帰りのおばさんとぶつかりそうになりながら。そのたびに腫物に触るように避けられる。どうしてそんな対応をされているのかその時までさっぱりわからなかった。呆然と見つめる後ろ姿に、彼女が落としたであろう小さな山形の板のようなもんを拾った。そのキーホルダーにも見える山形の物体の真ん中にはどくろが描かれていて下にはROCKとかかれていた。山形といっても、いびつに削れている。何かに使いものなのか?
落とし物だと、呼び止めようと正面を向いたときは、彼女は見る影もなかった。
8月15日。お盆も最終日。一か月ぶりとなるオープン初日。俺は早朝から店に来ていた。仕込みの最終チェックともうそろそろ来るであろう野菜や麺の確認のためだ。従業員は今のところ俺一人だ。なんせ、父親が倒れるころにはみんな仕事に嫌気がさして辞めてしまったらしい。バイトもそうだ。こんな急に再オープンするからと言って都合よく集まるものではない。学生も夏休みを満喫したいのだ。
裏手のバックヤードにおいてある業務用の大きいサイズの冷凍庫から、何かの動物の骨とこれまた何かの動物の背骨らしき骨を取り出す。それをもって厨房へ。
大方の仕込みの内容は父親が生前残したメモ帳に書いてあった。使い古しというか、しょうゆのシミみたいなのがついて、紙の端がぼろぼろになっていた。遺品整理の時に出てきたんだろう。俺はとりあえずそれを参考に今日営業を開始しようとしている。
持ってきた骨の類をそのまま大きな鍋へ。鍋といっていいのか、これはどちらかというと五右衛門ぶろに近い形状をしているが鍋らしい。ガスの元栓を開けて、昨日掃除にとりかかる前に買っておいた備品のチャッカマンでガス台に点火する。瞬間、焼けるにおいが鼻に着いた。俺はそれにはっとした。水を入れ忘れていて、骨の肉の部分が焼け始めていたのだ。あわてて水を足すとじゅうっという音とともに、あたりに湯気が立ち込める。
「どうも、お世話になります丸中商店の丸中です。ご注文のお野菜はこちらでよろしかったでしょうか?」このタイミングで野菜屋が裏手からこっちにやってくるのか。その声にさらに動揺した俺は、ガスを送り込むためのゴムの管に足を取られ厨房内で豪快にこけてしまった。
「だ、大丈夫ですか?」
なんの慰めにもなりはしない。もうすこしタイミングを考えてくれよ。
「……。大丈夫です。野菜はその辺で構いません。代金は週末にでもまとめてお支払いしますんで」厨房の床は丸出しのコンクリート、それに膝から落ちてしまった。膝の皿がひりひりと痛む。立ち上がる時に掌を見てみたが、どうやら血だけは出でいないようだった。
「足りないものが出てきたらいつでも連絡くださいね。あ、でもうちは遅くとも5時には店閉めちゃうからそれまでに」
「ありがとうございます。あ、じゃもう明日の発注を……」
「あ、やばい。もう行かないと。すみませんが発注の件はメールでお願いします」と営業スマイルで会釈をすると、店主は煙のように帰ってしまった。
完全なる営業スマイル。俺には到底まねできないだろう……。
振り返ると、水がすでに教わった基準の水位をはるかに超えてあふれそうになっていた。なんなんだ今日は。
「あの、」
聞きなれない蚊の鳴いたような小さな声だった。
また裏手のバックヤードの分厚い扉から声がしている。野菜屋の店主はさっき帰ったから営業スマイルのできる店主ではない。まったく……誰だこんな時に。
「おはようございます。今日、再オープンなんですね」
数日前、この暑い中冬用の手袋をしていた黒ずくめの少女がおどおどしながら立っている。
「はい、でもしばらくは従業員もいないんで3時には閉めちゃいますけどね。あ、そうだ」俺は裏のバックヤードにある事務所の棚に、彼女が落としたであろう例の山形の何かをしまっていた。
「これ、この間落としましたよね?」
その落とし物に彼女は俺の手にしがみついてきた。
「これ、私のピックです。こんなところにあったなんて。これ、思い出の品で……。昨日からずっと探してたんです」
俺はとっさに手を引っ込めてしまった。そんな俺をよそに彼女はその小物に夢中だ。よほど大事なものらしい。ただ、彼女の体質はどうかしている。
彼女の手は異様に冷たい。真夏なのに、冷凍庫に3時間ほどいたような凍える冷たさだった。
麺匠仁。七号店にして天下を取る店。仕事一筋だった父親が残した言葉だ。俺は、その店の名前を……。
「兄ちゃん、ぼさっとしてないで。注文だよ」
人手がない、母さんはもうそんな年じゃないし別に仕事も持っていた。だから、ひとまず俺一人で営業を再開することになった。
「すいません、少々お持ちください」灼熱の厨房から望む、涼やかな外界の空の色につい昔を思い出していた。
お盆真っただ中。厨房の気温は優に40度越え。母さんから聞いてはいたものの、慣れない作業と真夏にセーターを着て出歩くような熱気。意識的に気を付けていないと、頭がくらくらしてくる。まだ助かるのは、開店してからこのお客さんでまだ一人目だということだ。開店してから二時間。それはそれで店的にはおそらくやばいんだろうが……。
「すいません、ご注文をお伺いします」歩かぬよう、走らぬよう、中間のスピードでカウンター席に座るサラリーマン風の頭の禿げた客のところに行く。走ると埃が舞う、歩くとさぼっているように思われる。これも母さんからの忠告だ。
「ったく。そんなんじゃ兄ちゃん黒い女に狙われたらまず助からねぇぞ」
「黒い女、ですか?」
「なんだ兄ちゃん、知らねぇのか。今時の小学生だって知ってるんだぞ。なんでも、真夏なのに黒づくめの女が店先に現れてな、口元一つ緩めることなく必死の形相でラーメン……ってうめくらしい。戦後にラーメンを食えずに死んだ孤児の霊じゃないかって話だ。」
黒ずくめの女……。
何か背中に嫌な汗が流れるのを覚えた。まさか、な。
「まぁ、死人っていうくらいだから体温もねぇだろ。多分つめてぇだろうから、怪しいやつ見つけたら試しに腕かなんかつかんでみるんだな。それでだめなら、念仏でも唱えな」とがははと客は笑う。……この辺りも営業スマイルみたいなのが必要なのだろうか?
「ご注文は?」乾いた笑いをぬぐい捨て、俺は目の前の仕事に集中することにした。黒ずくめの女があの少女だっていう証拠なんてどこにもない。気のせいだ。
「お、そうだったな」と客はメニュー表を開き、一番人気(一人目だから最初に頼んだのが一番人気であってるだろう)の豚骨ラーメンを注文した。
どんぶりを湯で温め、その間にスープを手鍋で沸かす。さらに中太麺を2分間茹でる。タイミングを見て、どんぶりの湯を捨てて自家製の醤油たれとスープから抽出した油をレードルと呼ばれる道具で入れる。スプーンの先端を球状にしたような道具だ。それにはそれぞれ入る分量だけの数値が彫り込まれていて、このラーメンに使うのは40ccのレードルをたれに、油は20ccだ。新品に買い替える予算などはないので、使い古しのもので、輝きは鈍い。本来なら買い替えたんだろうが仕方ない。
さっきの客にもっていくと、汗をかきながら食べ始めた。はふはふと。おいしいでもなく、まずいでもない。黙って食う。俺が早朝から動いた結果がこの「黙って食う」で消化される。まぁ、仕事なんてこんなもんか。
それから、10人くらいの客がパラパラと来た。さすがに焦ったが、従業員が俺一人しかいないことを察してくれたのか客の大半は焦る俺を笑って許してくれた。
それにしても……厨房とホールはこんなにも気温が違うのか。
小さな嵐が過ぎ去って数分、特にやることもなくなった俺は誰もいないのをいいことにカウンターに座り、外を眺めていた。時刻は13時55分。今日の営業はもういいのかもしれない。
8月15日(日)
世の中ではお盆の最終日。東北の地方都市のこの町でも、関東からの家族連れの帰省ラッシュがあったはずで、それも終息に向かっている。みんなもう多分、帰ってしまったのだ。だからこんな店が暇なんだ。と、店の前をすれ違う家族連れを見ながら言い訳をする。すくなくとも、俺が悪いわけではない。
「なんなの、この暑さ」
ガラッと急に店の引き戸が開いた。同時に俺の体がびくっと反応して立ち上がる。
「いらっしゃいませ、」
2回目にしてはうまく言えた。たまに噛むから恥ずかしい。昔、バイトの高校生も噛んで恥ずかしがっていた。そして、さぼっていたことなどを悟られぬように何食わぬ顔で厨房へ。
「お兄さん、水。早く持ってきて」
入って来たのは、ド派手な髪の色をしたおばちゃん3人組だった。見ているとつい信号機を連想してしまう。
「申し訳ありません。従業員不足で当分はセルフサービスでして」こういうところもきっちりしておかないと、忙しくなったら厄介だ。自分が行ったときはちゃんと持ってきてくれた。私の時はそうじゃなかった。などと勝手なことを言われるに違いない。店の混みようによって、水どころではない。
「なんなのよ。お水くらい持ってこれないの?」真っ赤な髪のマダムは顔も真っ赤にして怒る。
「信じられない。なんなのこのお店」青の髪のマダムもよほど驚いたのか顔が真っ青だ。
「でも、私はお兄さん好きよ。だってイケメンだもん。あれ? 顔どっかで見た気がするんだけど」黄色い髪のマダムは比較的に俺の味方なのかもしれない。昔の俺をどこかで見たことがあるのか、騒ぎは起こしたくないので話をはぐらかすことにする。俺が厨房から出て近づいていくと黄色い髪のマダムがキャーキャー騒いで、隣に座る赤い髪のマダムの胸に恥ずかしそうに顔をうずめる。
「ご注文のほうはお決まりでしょうか?」
「あら、よく見ればそうでもないじゃない」と赤。
「何がイケメンよ。よくごらんなさいって」さらに青。
「え? うそ?! さっきはイケメンに見えたのに」と黄色。さんざんな言い方だな。仕事に関係ないし、別にいいことではあるが。
先ほど習得した笑いでそれらを華麗にさばくと、再び尋ねる。
「ご注文は?」
なぜか冷めた目で見られてしまう。たしかに笑ったはずなのに。
「あたし、この塩一番ってラーメン」睨むように青が言う。
「じゃ、私もそれ」同調するように黄色が言った。
「わーたーしは」赤は悩んでいるようだった。メニュー表をぐるりと見渡し、ついに決めたように。
「この豚骨ラーメンってやつを細麺で」と写真を指差しながら言う。
「かしこまりました」と今度こそ笑顔で言う俺。これでいいはずなんだが。
カウンター席に陣取った3人組は俺が作る姿を物珍しく覗いている。あんまり見られると作りづらいから勘弁してほしい。
当店のラーメンの麺は2種類。醤油、塩系に使う細麺とみそとその他系に使う太麺。いうほど細くもないし、言うほど太くもない。それを使うようにメモ帳には記載されていたし、俺にははっきり言って差がわからない。だから正直言って、細麺を使うラーメンに太麺を要求するあたりが理解できない。店員が進めているんだからそれでいいだろ。
さすがに少しは動きが慣れて来たのか、わりとリズミカルに作ることができた。
細麺は1分20秒。互いにどんぶりを温め、それぞれのスープを沸かす。その間に塩一番ラーメン用の細麺と2つ、さらに本来ならば太麺を使う豚骨ラーメン用にご要望にあわせて細麺を準備。
同時に投入して、タイマーを入れる。その間にどんぶりのお湯を捨てて、それぞれの油とたれを入れる。
タイマーがなる少し前にスープをどんぶりに入れると、それぞれのたれと油がまざりあい、半透明なスープができる。そこに茹で上がった麺を入れいていく。
トッピングに多少手間取ったが、こんなもんだろう。
「お持ちどうさまです。先にこちらが塩一番ですね」
半透明の乳白色のスープが特徴で、油はエビを素揚げして作るエビ油をしようするのでエビの香りがする。まぁ、作ってるのは俺じゃなくて麺会社だけど。
ラーメンが届くや否や、二人は食べだした。早く持って来いと言わんばかりの赤い髪のマダムの視線に追いやられるように、注文のラーメンを持ってくる。
「すいません。お待たせいたしました豚骨ラーメンです」
「ずいぶん遅いじゃない、まぁいいわ。私たち、忙しいの。これからはもっと早く作って頂戴」
なんでこう上からじゃないと物が言えないのか。怒れる心を押し殺して、営業スマイルでその場を逃れる。もう閉店の時間だ。暖簾をしまって、縦長の簡易的な看板を張り付ける。「本日閉店」
もうくたくただった。ただでさえ暑い厨房で一切の休息をとらず、なれない作業に四苦八苦して何とか初営業日をこなしたのだ。裏のバックヤードで小休憩をはさむくらい許されるはずだ。俺はそう考えて、冷水をいっぱいコップに注いで隠れるように裏手へ消えた。
ただの水がこんなにうまいなんて初めて知った。山頂で食べるおにぎりはうまいと聞くが、多分それまでの登頂での疲労感やのどの渇きなんかが程よい調味料の代わりを果たしているのだろう。それはきっとこの場合も同じはず。業務用冷凍庫にグラスを置いて、その前にぐったりとパイプ椅子に身を預けた。もう、一歩も動ける気がしない。
「ちょっと、お兄さん。早く来て」
また例の赤い髪のマダムが叫んでいる。なんなんだよ全く……。
「はい、何か」実際動きたくはなかったが仕方ない。俺は声を発すると同時に厨房に現れた。
「入口の、どうにかならない? 気になって食べられないわ」
と、入口の引き戸を見ると例の黒づくめの女が店内を覗いていた。というか、「本日閉店」を正面にしてなお店内に強引に入るつもりなのか、開かないはずの引き戸を両手で死ぬ物狂いで動かそうとしている。白昼、全身黒づくめの女がサングラスをかけて表情一つ変えず引き戸をけたたましく震わせる姿はホラーでしかなかった。
動くはずないだろ……。鍵かけたんだから……。
ん? 鍵?
俺は今日の煩雑した仕事の疲れからか、客がいる店内にうっかり鍵をかけてしまっていた。閉店して、そとから客は入ってこれないが、これではなかにいる客も帰れない。
「お兄さん、早く。立ってないで。あんな怖い人に見られながらだと気味が悪くておいおい食べられないって話をしてるでしょ? この店は客の些細な要望も聞けないの?」赤い髪のマダムの発言に、残る二人も賛同するようにうなずいた。
俺は、すいませんと軽く会釈をするとそのまま入口の引き戸に小走りで向かう。
がん、がんがん。開くはずのない引き戸を彼女は何度も何度も揺り動かしていた。ホラー映画だと、殺人鬼か怨霊が主人公を殺しに来るラストのシーンだろう。タイトルは、そうだな……。黒い餓鬼といったところか。
「あの、すいませんが。今日はもう店じまいで」
鍵を開けて対応する俺のわきを強引に通過した彼女はさっさとカウンター席に座ってしまった。まったく、この町の人間はルールを守らないのか。
「豚骨ラーメンを一つ、背油マシマシマシマシで」彼女はメニュー表の一番初めのメニューを注文した。夏風邪をひいているのか、声がなんだかいがらっぽくて長州力と話をしているみたいだった。
「申し訳ありません。お客様、本日はもう店の時間が」
間の抜けた音がサングラスをかけた表情の読めない彼女の腹から響いてきた。よっぽど腹をすかしているのか、すでに端を割って待機している。
「お兄さん、作ってあげなよ。こういう時にお客さんのハートをつかむのも大事なのよこのご時世」と黄色い髪のマダムは今現在自分が使っている端をものさし代わりに指してきた。
「はぁ」
今日はなんなんだ。客に振り回されっぱなしで疲れた。もうどうにでもなれ。俺は再びイラついた心にふたをして厨房に入り、弱火にしてあった茹で麺機の炎を強火に切り替えた。
出来上がったラーメンを持っていくころには彼女はサングラスを外して背筋を伸ばして待っていた。背油の件は腹を下すと何度も制したが彼女に聞く気はないらしい。通常の四倍ははいったこってこての油ラーメンだ。本当にこんなもん食べるのだろうか。
初めて見た時からサングラスをかけていて顔の表情なんかはまるで見えなかったが、皮肉にもそのおかげで色白で人離れした美しさがある。なんというか、吸い込まれそうになる。
彼女は、蓮華を使うことはないようだ。上品な肌のきめ細かさと食べ方は別のようで、一気に麺をすすり上げた。その間は全くしゃべる様子はない。たとえスープがはねて衣服につこうが気にはしない。がっつくという言葉がよく似合う言い食いっぷりだった。トッピングの具材と麺が彼女の胃袋に消えた後、彼女はシメと言わんばかりにほほを緩めて両手でどんぶりを持ち、そのまま胃袋へ流し込んでしまった。
「ぷはぁ」彼女は深海から必死に泳ぎ、海面でようやく新鮮な空気にありつけた救難者みたいに心地いい溜息を吐いた。聞き違えか、さっきのいがらっぽさは消えてしまって透き通るような美声になっている。見た目とは裏腹の声に例の三人もぎょっとしてこちらを見ている。俺は、その見事な食いっぷりと彼女と彼女に見入ってしまっていた。
「ごちそうさまでした。とてもおいしかったです」夢中で麺に食らいついた彼女は、口の周りにスープの飛沫をたくさんつけている。よほどおいしく感じたのか、よほど腹がすいていたのか、彼女は女の子ということを忘れるほどその麺に心を奪われたようだった。
「ただ、若干灰汁とりが甘い気がします。灰汁も味だなんておっしゃる方がいますが、灰汁は灰汁です。営業、おひとりで大変でしょうがスープは店の命です。もっと大切に扱ってください。これじゃスープのために出汁になってくれた鶏がかわいそうです」
「え、あ、はい。気を付けます」どういうわけか、彼女には今日の俺のバタバタ具合いが手に取るように分かったらしく少しむくれてはいるが俺の無知を指摘してくれた。というか、今日、誰にもそんなことは言われたことはない。この子はいったい何者なんだ?
さて、と彼女はカウンターから席を立ち、まっすぐレジへと向かう。片手にはサングラスが。別に店内で強い日差しがあるわけでもなし、と俺が考えている間に彼女はサングラスをかけてしまった。せっかくアイドルと見間違えるほどの美貌がこれでは台無しだ。また例の黒ずくめの怪しい女に戻ってしまった。
しかし、サングラスをかけるまでスムーズに動いていた彼女は、黒いジャケットから黄色い財布を取り出して中をのぞくや否や固まってしまった。かすかに、あ。と彼女の青ざめた声が聞こえたのは気のせいではないはずだ。
「うわっ。しょっぱーい」
レジから遠く離れたカウンターの一番端からわざとらしい感嘆が聞こえた。まただ。俺は半分あきれ顔で聞き耳を立てた。
「ちょっと、これしょっぱくない?」
「うそ、どれどれ? うわ、これ最悪。こんなん食えたもんじゃないわ」
「私のは別に大丈夫だったけど? どれどれ。あー、これはダメだわ。店員さんに言いましょ」
俺は正直、あの原色マダム三人みたいなタイプの人間は苦手なタイプだ。他人の意見は聞こうともしないような、自分があたかもこの店のオーナーや極論でいえば神様にでもなったかのようないわゆるクレーマー。今日はもういろいろ大変で、もう閉店時間で、とにかくもう一人にしてほしかった。けど。
「ちょっとお兄さん」
足の裏がじんわりと汗で湿っていく感触があった。
「このラーメンどういうことなの?」
「と、おっしゃいますと?」勘弁してほしさで白を切る。
「おっしゃいますと? じゃないでしょ? これ、とても人が食べられる味じゃないんだけど」赤い髪のマダムは箸でどんぶりを何度も指し示す。そのたびに醤油たれが、あたりに飛沫を散らしている。
「ですが、たれはちゃんと分量どおりですし。お客様の要望通り、通常太麺を使用するところを今回は細麺で提供いたしました」
「そんなことはどうでもいいの。私たち、今日初孫を見るためだけにはるばるこんなところまで来たのよ。私たちの思い出をどうしてくれるの?」
「それは、申し訳ありません」
「で、どうするの?」
「誠意は?」青い髪のマダムが急に口をはさんできた。
「店としての誠意がないと、この先この店も経営が怪しいもんねぇ」と黄色い髪のマダムが吹き出した。
「払うの、払わないの? どっちなの」赤い髪のマダムはカウンター席を手でたたきつけて大きな音を立てた。
……ようやく解放された。
厨房からはブラシが床を磨く軽快な音が響いていた。例の黒づくめの彼女。油屋舞は財布に十分な金が入っていると思い込んでここに食べに来たらしい。彼女の財布の中にはクーポン券が数枚と硬貨が少々。ぎりぎり缶コーヒーぐらいは買えるだろうかというぐらいの金しか入っていなかった。
彼女はすまなさそうに平謝りを繰り替えした。その姿に俺は警察に突き出すのもどうだろうかと考えあぐね、一時間閉店作業を手伝ってもらうことでおとがめなしという条件を彼女に提案した。彼女はわたりに船と言わんばかりにその提案を承諾して、今厨房の床磨きをしている。俺はその間に明日の発注や仕込みの段取りに頭を悩ませていた。
「床磨き、そんなもんでいいからあとは食器洗っといてくれる?」発注書片手じゃ、指示もぼんやりとした声になる。頼みすぎても余るし、足りないという事態は避けないと。分量がわからない。
「しかし、なんなんでしょうね。さっきの人たち」彼女は気合を入れるつもりか、腕まくりをした。厨房の作りの関係で、食洗器がある流しにはよく日が当たる。白い肌を露出させた分彼女がまばゆい光を発しているように見える。
「まったくだ。こっちは初心者なんだぞ。勘弁してほしいよ」
「研修なんかはいかれなかったんですか?」
「まぁ、親父が残したメモ帳あるし。噂じゃ何人もそこへ足を踏み入れては挫折して帰ってくるような場所だ。そんなところ、俺が務まるとはとても」
半分は的を得ている。ただ、俺のプライドが俺の口をまげて、事実を闇へと葬った。親父が俺や、母さんを犠牲にしてまで携わった職に俺はどうしても必死になることができなかった。
「メモはメモです。ちゃんと研修に行かないと」
「食器、進んでる?」理由はどうあれ、俺はここの店主で彼女は無銭飲食をしかねなかった人間だ。力関係だけはしっかりしておこう。
彼女は思い出したように、手を動かしている。
「君はしょっぱくなかった? あのラーメン」
「いえ、特に」
「なんで、しょっぱっかったんだろうなぁ。同じラーメンだろ? 確かに嫌な客だったけど、別に塩なんて混ぜてないし」
「そういえば、あのお客さんのお会計はどうしたんですか?」
「取れるわけないだろ。だいたいあんな三人でまくしたてなくたって……」
「もしかしたら、今日一回だけじゃないかもしれません」
「え?」
「ほかのお店でもこういうことをしているのかもしれませんよ? あくまで可能性の話ではありますが」彼女は、あふれる泡で手を濡らして一つの黒いどんぶりを手に取っていた。
「ほとんど麺がありません。まして、スープでさえ7割くらいなくなっています」
「だって、しょっぱいって」
「店長さん、このスープ飲みましたか?」
「まさか。だっていくら何でも他人が飲んだスープ飲むわけには」
「そこです」彼女はスープを残飯かごに捨てた。
「あの人たちはそこを狙ったんです。いくら何でもお客さんの目の前で問題があるスープを飲むわけにはいかない。お客さんだってきっと不快のはずです。確かめようのない問題を指摘してただでラーメンを食べようとしていたんです」
「うち以外でやっていたって証拠はあるのか?」
「そうですね、思い当たる点としては……。あの二人、青い髪と黄色い髪の。あの二人は基本的に店長さんと話すときは、必ず赤い髪の方の後になって話していました。きっと役割分担があるんだと思います。赤い髪の方がきっとリーダー各で様々なタイミングや話を切り込むいわば突撃兵。青い髪の方は、その突撃兵がつけた傷を深くする後方支援担当。黄色い方はその他のフォローの衛生兵といったところでしょうか」
確かに、少なくともいちゃもんをつけて生きたのは常に赤い髪のマダム。大体そのあとに青い髪のマダムが相槌を打ってそちらの正当性を主張していた。
でも、疑問が一つ残る。
「どうして同じ商品で味に差が出るんだ? それもいちゃもんなのか?」
「私もそれは疑問に思ってました。まぁ、何となくわかりましたけど」と彼女は残飯かごをひょいと持ち上げ、新聞紙を引いたゴミ箱へとそのまま捨てる。
「おそらくまたなんだかんだ言ってやってくると思います。その時は私に連絡ください。今回の謝礼としてこの件は私が解決させて見せますから」
「そんな、君が首を突っ込む必要はないだろ」と俺はポケットから今時珍しいガラケーを取り出す彼女を止める。閉店作業を手伝ってもらった。ラーメン一杯分は十分稼いだろう。
「いえ、もとはといえば私が家を出るときちゃんと財布の中身を確認してないのが悪いんで」
その時、遮るように着信音(キューピー三分クッキング)が彼女のオレンジ色の折り畳み携帯からなりだした。どうやらどこからか何かしらの連絡が入ったらしい。
「ちょっと、すいません……」
彼女は俺から隠れるように携帯を引っ込めて背を向けた。そして、崩れるようにかがみこんだ。
「どうした? 何か具合でも悪いのか?」
「……。うちのベースが交通事故で入院したそうで、2週間は入院するみたいです。どうすんのよ、これじゃ練習ができない……。唯一の収入源がぁ」
彼女が落としたあの薄い山形の板を思い出した。あれはギターのピックだ。すると彼女は音楽関係の仕事をしようとしているのかもしれない。
「まぁ、気を落とさないで。うちでよかったらたまにただでごちそうするからさ」音楽関係の仕事にもあこがれた時期はあった。ただ、俺は才能も仲間も恵まれなかった
。縁がなかったのだ。だから作家の道を選んだのかと言われればそれもまた違う。俺は空想の中に逃げることで実家の現状から目を背け、東京に出ることでそれをさらに強固なものにした。だから、彼女にももしかしたら何か理由があってこんな特殊な職種についているのかもしれない。どうしても応援したくなったのだ。
「連絡は必ず注文を作り終えてから、何を注文したかわかるようになにかに書いておくこと。もしかしたら、混雑時を狙ってくる可能性もあるのでその時は焦らず冷静に対処すること」彼女に渡されたメモ用紙には連絡先のほかに箇条書きでそう書かれていた。
人生の目標の前にちょっとした壁が出現した彼女はその壁の前で嘆いていた。わずかにあふれた涙を俺は見逃さなかった。
帰り際、さみし気な彼女の背中に俺は何か声をかけなくてはと躊躇していた。
「俺が言うのもなんだけどさ、目標にできる壁ってさ見方によってはその……」
「だからルール守らないやつは嫌いなのよ! どいつもこいつも!」
店の引き戸を開けるや否や、彼女のうっ憤は爆発したようだ。道行く人がわめく彼女を異様な目で見ていく。まぁ、おそらく理由はそれだけではないだろうけど。
お疲れさんにはなんとやら。昔そんなCMがテレビで放送されていたことを思い出した。早朝、俺はだるい体を床から引きずり起こして今日も一仕事のために二階の住居スペースから一階の店舗へと足を運んでいた。小学生は長い夢から覚めて、現実に立ち返り学校へ向かう。その光景を入口の冊子から一瞥して、店の入り口に設置された自販機から栄養剤を一本買う。俺も小学生の頃は栄養剤を飲めば疲れなんて一発でとれるなんて妄想を抱いていた。数週間の疲れがたった一本の栄養ドリンクでどうにかなるなんて詐欺だ。朝はさほど暑くはないのだが、出てきた商品はお構いなしにキンキンに冷えている。
はっきり言ってだるい。体が鉛のように重いだなんて言葉久しぶりに使う。メモ帳に載っていないことが起きたり、なんの連絡もなしに忙しい時間帯に現れた当店のオーナーが現れてなんの要件もなしに帰ってみたり、精神的にだいぶ疲れている。そんな疲労までもこの栄養剤は緩和してくれるのだろうか。
オープンしてから今日で2週間ちょっと。俺からあの奇抜な髪のマダムたちは姿を見せない。Uターンラッシュで関東方面へ帰ったのではないだろうか。だとしたら朗報で、実にありがたいのだが。
昨日は日曜日。平日よりは確かに忙しいが、一時閉店が決まるまでの経緯が原因で着いたイメージが客足を重くしているらしい。とはいえ、物は使えば減る。今日も俺一人しか従業員はいない。スープからたれから、サイドメニューに至るまで一人で作らねばならない。俺はいづれここに墓標を立てるのではないだろうか。
「おはようございます」
厨房にエアコンがつけられないので、裏のバックヤードの勝手口を開けている。その分厚い鉄の扉の向こうから彼女がひょこっと顔を出している。店内の照明と外の力を増している太陽の光の光量のさで彼女の体の印影がくっきりとしていた。
「おはよう」俺はその格好にはもう驚かない。疲れのほうが勝っている。
「お疲れのようですね。でも、そんな態度じゃまたあの三人に突っ込まれますよ」
「さすがにもう来ないだろう。あれから何日たったと思ってんだ」
「いいえ。おそらく今日来ますよ。店長さん油断してそうだったんで直接教えに来ました」
「そうなの。ありがとう。でも、何も携帯あるんだから連絡してくれれば出たのに」
「と、ともかく。私は裏で待機させてもらいますんで」言うなり彼女は光を吸収しやすい真夏には不向きな色の服装で躊躇なくバックヤードに侵入してきた。はたから見たら不審者か小さめの熊が物色に入ってきたように見えたに違いない。
「さ、店長さん私に構わず仕事を続けてください」
人に見られながら仕事をするのはどうも気が引けるんだが。
なぜ今日またあの例の三人組が来ると彼女は分かったのだろうか。今日はただの平日。曜日でいうなら月曜日。それなら休みであろう日曜である昨日来るという考えが通りというものではないだろうか。彼女は何かを隠している。そんな考えが頭をぐるぐると迷走していた。そんな俺を彼女は現場監督のごとくバックヤードから監視している。いや、俺じゃなくて今日に来るというその三人組を待っているのか、臨戦態勢というやつか。時刻は午後2時50分を過ぎていた。閉店まであと十分。今日の営業は相変わらず閑散としていた。ざっと覚えている限りでは11時開店で今までの間来客は20人くらいといったところか。それまであの原色ヘアーのマダムらしき人物は見ない。忙しい時間帯を狙って騒ぎを起こして、話し合いによる解決をしにくくするつもりはないようだ。
「やっぱり来ないんじゃないの? だってもう今日もう月曜日だし。来るなら普通昨日でしょう」
「いえ、必ず来ます」彼女は鼻息荒く仁王立ちしていた。
「全く、この店はいつ来ても空調が効いてないのね。気の利かないお店だこと」という声が入口から聞こえた。来た。直感的にそれを感じた瞬間、よくわからない謎の腕のしびれに見舞われ、顔から血の気が引くの確かに感じた。それをみた彼女は「頑張って」と小さくささやきガッツポーズをして俺を厨房へ追いやってしまった。
「ご注文のほうお決まりになりましたか?」顔は引きつってないか、声はちゃんと出てるだろうか、身だしなみは、息は、汗は。例の三人組が店内に入って数分。心の準備もできない間に、呼び出しボタンのなる音に呼ばれてしまった。今日はなぜか座敷に座ってしまったようだ。あそこは、日差しが強くて位置的にクーラーの風も届きにくい。
「暑い。どうにかならないの? あなたはこの日差しの中でもお店の中にいて涼しかったでしょうけど、私たちは違うのよ。もっとクーラー効かせなさいよ」
今日は機嫌が悪いらしく、俺と視線を合わせようとしない赤い髪のマダム。ずっとセンスでぱたぱたと顔を仰いでいる。
「すいません、この席クーラーが届きにくいんです。ほかの席に移動していただいてもよろしいですか?」
「は?」赤い髪のマダムの動きが止まった。
「あなた、今日は京子さん怒らせないほうがいいわよ。機嫌がいつもより悪いんだから」青い髪のマダムがちゃちゃを入れる。俺にいったいどうしろというんだか。
「いや、しかし」と弁明を図る俺にさらに青い髪のマダムは話の腰を折るように割って入ってくる。
「ドリンクサービス。私たち、もうここの常連客でしょ? それくらいしてくれないとお客さんだってつかないわよ。それに、本当は京子さんだってここの店好きなんだから。ね」と赤い髪のマダムに尋ねるが、ふんっと鼻を鳴らすだけで返事もしない。よほど機嫌が悪いに違いない。
「私ね、いつものと、そうねぇ。オレンジジュースでいいわ」段取り通りというわけか。黄色い髪のマダムがフォローする必要がないと判断したらしく図々しくも注文してくる。おそらくカルピスはサービスしろということなんだろう。
「いつものとおっしゃいますと……?」今日で来店2回目。いつものと言われても困る。仮に、先日のメニューを覚えていたとしても逆にこの三人組がそれを覚えているとも限らない。
「はぁ、ホント気が利かない店員さん。この間も頼んだでしょ。塩一番ってラーメンが二つと、京子さんは?」青い髪のマダムが口を開いた。息をするように嫌味を言う姿はあまり赤い髪のマダム、京子さんと呼ばれる彼女とそう変わらない。
「豚骨ラーメン。ほーそーめーんで」
「だってさ。あと私たちウーロン茶で。ほら、早く動かないとまた京子さん機嫌が悪くなるわよ」
まったく、下手に出れば好き放題やってくれる。などとは言えず、俺は仕方なく厨房へ戻ってソフトドリンク用の小さい冷蔵庫からウーロン茶の小瓶とオレンジジュースの小瓶を抱えて立ち上がる。ちらっとバックヤードのほうを見やる。あれほど息巻いていた彼女の姿がなかった。どこへ消えた? まさか金庫?
「早く飲み物。京子さんがのど乾いたって」遠くの座敷から大声が聞こえた。
体が二つほしい。
切実にそう思ったのは今日が初めてだ。早くラーメンを持ってこい。ラーメンくらい早く作れるだろ。と三人組は言い。油屋舞。彼女はバックヤードから消えて、もしかしたら事務所の金庫を荒らしているかもしれない。もちろん、ちゃんとロックはかけてあるし、7桁の暗証番号がそうそう解けるとは思えない。ともかく、ラーメンを早く作って持っていき、事務所を確認する必要がある。
「お待たせいたしました。塩一番が二つですね」俺は、手が震えるのを抑えつつ、そっとどんぶりをテーブルに置いた。手が震えるのは、キーボードしか叩いてこなかった手がスープと麺が入った器に耐えきれないからではない。三人組の顔色を窺っているのだ。俺は元ではあるが、売れっ子作家だぞ。なんでこんな連中に。
「首を長くして待ってました。早く次持ってこないと大変なことになるかもね」黄色い髪がケラケラ笑って箸を割った。いわれなくてもそうする。振り返った瞬間だった。
「お待たせいたしました。豚骨ラーメンの細麺ですね」
俺の後ろに油屋舞が店のユニフォームを勝手に着て、勝手にラーメンをもってきていた。
「おい、君。いったい何を」
「完成したラーメンはほっとくと伸びるだけなんで。店長、閉店の時間じゃないんですか?」どうやら店員のつもりらしい。
「あ、あぁ。そうだな。俺は暖簾しまうから、君は食器を洗っといてくれ」
「わかりました」彼女は屈託のない笑顔で笑って見せた。一瞬、心臓がドキリと高鳴ってしまったが、冷静に考えろ。目の前にはクレーマーがいるんだぞ。ゆるんだほほに筋力を加えて、入口の冊子にむかい閉店作業を始める。しかし、店のユニフォームまで勝手に持ち出して、どうするつもりなんだ。
「聞こえてますよ」
そんなことを考えながら、厨房に戻ったせいで独り言が口を勝手に出てしまったらしい。彼女、油屋舞は厨房から座敷に座ったクレーマーを眺めていた。その余裕たるやさサファリパークの管理員のようだ。
「どうするんだよいったい。このままじゃまたこの間みたいにいちゃもんつけられて逃げられるぞ」しかも今回はドリンクまで要求されていて前回よりたちが悪い。
「もう少しです。彼女たちに墓穴を掘らせるんです」
「墓穴って……」
「ちょっと、お兄さん」座敷のほうからだった。
「ほら、呼んでますよ」と俺は背中を押された。振り向くと舞はなぜか流しに向かってしまう。
「君が解決してくれるんじゃなかったのか?」
「仕込むのを忘れていたんです。すぐ向かうんで先に行って話を伸ばしておいてください」彼女の背中は非情に見えた。
本当に解決をしてくれるのだろうか。ユニフォームを着ているということは勝手に事務所にまで上がり込んで物色したということ。金庫の件だってまた疑いが晴れたわけではない。なんだかんだ言って結局ラーメンを運んできた以外は特に何の作業もしていない、それどころか呼ばれると俺だけを先にクレーマーのところに行かせる始末。もしかしたら、俺の様子をうかがってまた事務所に行って今度こそ金庫破りをするつもりなのかもしれない。でも、とりあえず今は目の前の敵の対処をしないことには。金庫の方は7桁の暗証番号がわからないと開かない。クレーム対処しているうちに開くことはないはずだ。
「しょっぱい」赤い髪のマダムは勢いよくテーブルを叩く。きっと威圧のためなんだろう。わかってはいるけど、足がすくんでしまう。こっちが悪いわけでもないはずなんだ。こっちは向こうの言うようにしただけで、特にたれの分量もスープの分量も間違っていない。胸を張って意見をすればいい。それだけのはずなのだ。
「しかし、お客様。こちらはお客様の要望に応えただけで何も塩分になるようなものは入れておりません」
「でも、しょっぱいの。あなた、この店何年目? まさか店長じゃないでしょう? 店長呼びなさいよ」
店長は俺だ。俺しかいない。俺でいいんだ。
「店長は、俺ですが」
「あなたじゃない。いいから店長を呼べって言ってんの」
「京子さん、いいでしょう誰だって。私たちは誠意を見せてもらいたいだけなの」
誠意。また無銭飲食をするつもりなのか。言い返してやりたいけど、どうしてそのラーメンだけがしょっぱく感じるのか見当もつかない。また無償にしてやろうか、それとも……。頭の中で現れては消える思考の数々はどれも無価値で無意味に消えていく。
「聞いてるの? 誠意よ誠意。顧客相手の仕事なんだから当たり前でしょ。しかも迷惑かけてんだから」
「わかりました」俺は意を決した。
「代金は結構です」もう、この人たちとはかかわりたくない。それが今思える事のすべて。
「そう来なくっちゃ、お兄さん太っ腹」黄色い髪のマダムが色めき立つ。
「まったく、こんなまずいだけの手抜き料理。金を払わす気がないなら商品化しないべきなのよ。今度店長さんに言っといて頂戴」
三人組は立ち上がって帰るそぶりを見せる。舞はいまだに姿を現す気配はない。やはりただのコソ泥だったのだ。この間も財布に小銭程度しか入ってなかった。バンドの仲間が事故で入院したというのも結局は金銭的に苦しい自分を正当化するための作り話。今頃は7桁の暗証番号にてこずっている。
俺なんかがやるべき仕事ではなかったのだ。毎朝早くから仕込んでもまずいと言われ、こんなものに金は払えないと店長を呼べと。俺は店長としても見てもらえなかった。しかも、泥棒にまでまんまと利用されて。
赤い髪のクレーマーが冊子に手をかけた。三人組が帰っていく。
今日母さんに話そう。俺は、この店を継ぐことは……。
「店長、そのお客さんまだお会計すんでませんよ」
その言葉に、クレーマーたちは立ちどまった。
声は確かに舞だった。この期に及んで現れて、せっかく消した火を起こすような真似を。俺はもうあきらめたんだからそっとしといてくれ。
「いや、いいんだ。このお客さんはもう、話は済んだ」
「いえ、お金を払ってもうべきです」であって数日しかたっていないが、彼女はとても自分の感情にまっすぐだ。そのまっすぐな意見に俺は素直に目を合わすことが出来ない。俺は振り返ることなく、背中で舞に話をしている。
「店長さんがいいって言ってるんだから、別に構わないでしょ」俺とは違い、堂々とした視線を俺の後方にいる舞に向ける赤い髪のクレーマー、京子。舞はこの京子が言った言葉を聞き逃すことはなかった。
「店長ってようやく認めましたね。それはここの店の責任者って意味でいいんですよね?」
「あなた、さっきからなんなの? 私たちにいったい何か用でもあるっていうの?」
「えぇ、たった今ここであなた方の悪事のすべてを暴いて見せます」
「面白いじゃない。ねぇ、店長さん。このバイトの子、私たちに話があるみたい。もし、これで何も私たちから出てこなかったらどうしてくれるのかしら? 店の責任者として、もちろん謝礼くらいは出すわよね?」
「いや、それはちょ……」と言いかけたとたん。
「出します」と俺の声を完全に無視した舞の言葉がはじけた。
話し合いは店の中央、レジの前付近で行われた。さながら探偵ドラマのような展開。作家だったものとしては興味をそそる展開ではあるが、舞の検討が外れると、いくら賠償を吹っ掛けられるか全く見当がつかない。外では学校から自宅へ帰っていく小学生が運動着の入った布袋でふざけあっている。
「まず初めに、なぜ料金をお支払いにならないのか確認をしたいのですが」舞が口火を切った。その表情からはあの黒づくめの女の時の陰湿はない。攻めの態度がにじみでている。
「それは、この店長さんが作ったラーメンがしょっぱかったからよ」と当たり前のように淡々と赤い髪のマダムは言い、それに賛同して後ろに続いた二人は頷いている。
その件についてはすでに舞には話してあった。今更それがなんだというのか。
「なのに、全部食べたんですか? こんなにお怒られになるくらいですからよほどしょっぱかたんでしょう。なのに」舞は座敷から持ってきていた黒いどんぶりを目の前に出した。赤いマダムが頼んだと豚骨ラーメンに使うどんぶりだ。中身はもうスープない。俺はこの三人にまくしたてられる居心地の悪さとその場から逃れたい気持ちで、それを見逃していたのだ。
「どうして今日はスープすらないのでしょう? 本当はしょっぱいと思いながらも実はおいしく感じていたのではないのですか?」
「何を言っているの? それはたまたま今日はおなかがすいていただけで」
その言葉に舞は反応して、どんぶりを俺に渡すとポケットから何やら小さな紙きれのようなものを取り出す。
「現場にこんなものが落ちていました」アルミのような銀の光沢に青のライン。ノルバスクと書かれてその紙、おそらく何かの錠剤の包みは2錠分のところでちょうど切られていて、すでに中身はなかった。
「これは高血圧の人が飲む薬です。おそらく、食後騒ぎを起こす前に服用してゴミにでも捨てるつもりだったんでしょう。けど、詰めが甘かったみたいですね。あなたは捨てるつもりでそのままどんぶりの受け皿の上においてしまった。きっとあなたは普段は塩分を控える生活を強いられている。塩分控えめの味噌汁をのんで、極力濃い味付けのものは避けている。家族の前では。でも、飲食店に来るとタガが外れたようについつい飲んでしまう。しょっぱいと言いながら飲んでしまったのはそのため。違いますか?」
「確かに、その薬は私の。朝すっかり飲み忘れたからここで飲もうと思ったの。でも、そのスープがしょっぱかったのは確か。私がいくら飲もうが、私はそれを指摘しただけ。ほかのお客さんが飲んでそれこそ私たちより騒ぎを大きくする可能性だってあったのよ。私たちはその対価をもらっただけ。だから別に私たちがやってることはインチキじゃないわ」
「いえ、あなたは確実にしょっぱくなることを知ってて注文をしたんです」
舞のまっすぐな表情に赤い髪のマダムは次第に顔が引きつりだす。おそらく初めてなのだ。こんなにも抵抗されるのが。たいていの場合は誠意などといかにも正当性のある重い言葉を使われるとたじろいでしまう。だが、なぜか彼女は違う。誠意を見せるのはそちらだろうとあくまで強気なのだ。
「先日、あなたの座っていた席から私が見つけたものです」彼女は例の薬の包みを制服のポケットにしまうと、逆のポケットから今度はポケットティッシュを取り出した。新台入れ替えの広告が挟まっている。どこかのパチンコ屋で配られていたのだろう。
「これは、ここから100メートルほど先にある、パーラーインディゴのものです。日付は今日、新台入れ替えのために朝早くからあなた方は並び、惨敗を期してここにきた。もちろん、店長さんに当たり散らして、ただ飯を食べるために。パーラーインディゴの中にもラーメン屋さんがあります。そこの店主も被害にあってます。なんでも最初は太麺を食べていて、突然細麺を食べるようになったとか。おそらく、行きつけになってから何度も試しているうちに、太麺の商品を細麺で食べるとしょっぱく感じることに感づいたんです」
「さっきから聞いていればあなた、多分とか、きっととか。何も確証を得た会話をしてないじゃない。ちゃんとした証拠を見せなさいよ」
「麺屋巧。麺匠仁2号店。ラーメン本舗春香。来々軒。そして、この店。この豚骨ラーメンていうのはそもそもそのお店独自のものではありません。麺会社の開発部が考案して提供してる商品なんです。もちろん、パーラーインディゴの中のラーメンショップさんにもこの商品はありました。あなたは、常連客だと怪しまれないような口実を作りどの店でもこの豚骨ラーメンを注文した。あたかもいつも食べなれているものだと見せかけて、でも実際はこのラーメンしか食べないのではなく、このラーメン以外どれが太麺を使っているのかわからなかったのです」
なるほど、来店二日目にして常連客を名乗っていたのはそのためか。こちらからはそう言ってくださる客には、2回目の来店で常連客面するななどととても言えない。
「店側が出す商品はすべてベストを尽くされたものばかりです。個人の感覚でトッピングや麺の種類を変えることは勝手だと思います。ですが、それに対して責任を取らず、店側に責任を押し付け脅迫をするなどという行為はラーメン通として恥ずべき行為です」
「ラーメン、好きなんですよね。私もそうです。ラーメンはやはり熱々のうちにいただかないと。だから蓮華なんてものでスープをすする手間がうっとうしい。ですよね?」
確かに、先日来店した時もそう。蓮華だけはきれいな白を保っていた。舞は食器を洗いながらそれをチェックしていたのか。彼女の推理もそうだが、観測力には驚かされる。いつの間にか、三人はうなだれてしまってぐうの音も出ないという感じだ。
「でも、そんなに変わるものなのか? たかだか麺の太さで」数日の疲労と、忙殺で生じたストレスですっかりこの職に憎しみを抱いていた俺だが、なぜか純粋な疑問が口を突いて出た。今なら、彼女ならラーメンの疑問に答えてくれる気がしたのだ。
「という疑問が来るんじゃないかと」と彼女は流しから使い古したポリバケツを持ってきた。さっき仕込んでいたのはこれか。
「これが、太麺のモデルです」と出されたのはお手製の毛糸でできた食器用のスポンジ。
「そしてこれが、細麺のモデルです。あくまでモデルなので、完全再現は難しいですが理屈は同じです」バケツから通常の食器洗いのスポンジが出てきた。どこから出してきたのか、泥のような油まみれだ。それを客の前に持ってくるとは、近いうちに隅々まで掃除をしないと。
「見ててください」
同時にバケツの中の水に浸し、取り出す。目の前で絞られる水分量は一目瞭然だった。
「麺が細かい分、箸でつかんだ時スープも余計に絡んでしまうんです。保水力の差です」
「どんぶりはちゃんと大きさ別にしまってくださいね。使うときに探すんで」
舞の言う通り、三人組は早朝からパーラーインディゴに並び、散財。昼食を食べるか金もすってしまい、いつもの手段でこの店でただ飯を食べようとしたらしい。そんな連中を警察に突き出そうと受話器を取った瞬間、舞に「ラーメン好きにそう悪い人はいません」と手をつかまれてしまった。その手は先日同様、異様に冷たかった。
その瞬間、彼女はぐらつき、カウンター席に手をついた。
「あの、すいませんが。豚骨ラーメンをもらえませんか? お金なら」
「いいよ。今日は俺が出すから」店長。彼女は最初から俺をそう呼んでくれた唯一の人物だ。ラーメンの一杯くらいおごってやるさ。
カウンターからは透ける湯気が昇りは消える。そんなのんきな風景とは別に、瞬く間に麺が彼女の胃の中に納まっていく。相変わらず食欲旺盛な子だ。
「そういえば、なんか手が異様に冷たいけど」
「体質なんです」彼女はカウンターについた俺の手の上に自分の手を重ねる。なるほど、ラーメンを食べると体が人並みに暖かくなるのか。
「ついでに、路上ライブをやった後だとか、練習跡だとどうしてものどがかれちゃって」
「え、バンドマンなの?」
「はい。あ、あとで練習見に来てください。まぁ、メンバーが入院しちゃったんで練習どころか、唯一の収入源すらありませんけど……」基本的に彼女は食べるときは、人と顔を合わせない。
「うちでバイトすればいい。君なら歓迎だ。今俺一人しかいないから大変だったんだ」
彼女が最後の一口を飲み込んで顔を上げた瞬間だった。
「ちはー、子熊さんでーす。集金に参りました」
そうだった。今日は再オープンしてから初めての麺会社の集金。どうやらこの麺会社の担当はずいぶんと大胆な性格のようで、バックヤードの分厚い扉から入ってきて、厨房のほうに姿を現した。よれたシャツに、首周りを緩めたネクタイ。暑いのは分かるが、それでは顧客に対してしてしつれいではないのか。
「あ、集金に来ました」彼はカウンターで舞と話す俺を見つけると、身を乗り出して話しかけてきた。
「あ、ちょっと待っててください。今金庫からお金を」そう言って俺はバックヤード脇にある事務所に帆を進めた。
「え?! もしかして給食番長、油屋舞?」と集金に訪れた子熊の彼が叫びをあげた、ほどなくして「その名前で呼ぶな!!」と今までにない声を張り上げたのは舞だった。
「え、油屋ってあの開店一時間でスープがなくなるって伝説の?」と今度は例の三人が声を上げた。
やれやれ、なんだか騒がしいな。
金庫からこの数日の売り上げを取り出すと、ふと机の上のノートが目に留まった。
そういえばもう一つ大事な仕事を忘れていた。
その日の出来事、天気から気温、行事をこのノートに書いてデータとして保存しておかなくてはならない。このデータが次の年、さらに次の年のシフトの制作や発注の役に立つ。
少々面倒だが、集金が終わったら書いておこう。異様に体の冷たい黒づくめのラーメン少女と今日この店に起こった事件についての概要を。
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