第3話

 二回、三回にもなるとすっかり席は埋まってきた。

気の弱そうな大学生風の男、パンチパーマの肉体労働者、傘でゴルフの素振りをしてそうなサラリーマン、町内会長って感じの初老の男性……女は私だけだ。やっぱり男のスポーツなんだ。


 そして客たちはみんなテレビを見てる眼力が違う。堅気の目ではない! ナイフのようでもあるし、ガラスのようでもあるし、狂った太陽のようでもある。

 もし私が冗談で『負けろーヒポポタマスー!』なんて言ったら八つ裂きまではいかないけど、タコ殴りにされかねない。だから携帯電話にメールを打ったりするのはやめて、そっとバッグにしまった。


 ……ざわざわざわ。


 ばれたら……ファンじゃないことがばれたらヤバいよ、非国民として連行されちゃうよ! 

 私は日和った。

 とりあえずメガホンを手に取り、無愛想な顔をやめてヒポポを応援しているポーズをとったのだ。


 ヒポポが打った! 打球はのびる! グングンのびる! きれた! ファール。アァ〜ッ……。

 ヒポポが打たれた! 打球はのびる! のびる! なんとか捕った! アウト! ウオーッ!


 テレビに集中し、まわりの空気を読み、見るのではなく感じとり……川の流れに身をまかせる笹の葉の小舟のように私は流され、激流に飲み込まれ、もう、もみくちゃもみくちゃ……。


 ハッキリ言って監禁だ……。


 なんなの? このデートは? もうすぐ八時だ……私はもうこのラビリンスを抜けることができない、それはお経の最中にトイレに立つよりも辛いこと……。


 せめて短いCMのあいだだけでも自我を取り戻さないと……私は健ちゃんに話しかけた。


「前にねぇ、健ちゃんにも会わせた直美って子、覚えてる? ほら、一緒に代々木のフリマに行った」

「ん、と。たしかファミレスでバイトしてる子だっけ?」

「そうそう、あの子ね、結局、店長とまだ続いてるんだってさ」

「うそ? あれだけ別れるって言ってたやん!」

 よし! 健ちゃんはこの話題に食いついてるみたいだ。


 …………………CMがあけてもこの話題は続く、私はすっかり油断していたのだ。


「だ・か・らぁ〜、好きだったらそんなのは関係ないとか言ってんの! 相談にのってるこっちがバカみたいだよ」

「もう、本人の好きにさせるしかないんじゃん? そういうのってさ……」


 そのとき、店の主人がこっちに向かって歩いてきた。

 西崎? 岡部? 羽山? 神崎? 違う! 注文したメニューは全部届いてるし、なんなんだろう?


 店の主人は私と健ちゃんの前に立ち、こう言った。ダメな息子を叱る感じで。

「みんなさぁ、野球を観にきてんだからさぁ、野球を」

 そう言い終わると、主人の背中は遠ざかり小さくなっていった。


 野球観にきてんだからさ……それ言われると終わりじゃん!

 もう野球に夢中になるしかないんだ。

 私は覚悟を決めるしかない。

 見た目はグロテスクなウニの軍艦巻も、いざ食べてみればうまかったなんてこともあるし。その気になってみれば面白いかも……ただ、ミイラ取りがミイラにならないように気をつけないとだめだ。


 あ、そうか! 

 別にヒポポを応援しなくても、バレなきゃいいんだ。

 私にとってはどっちが勝ってもどうでもいい。試合が早く終わるように祈り続けながら観てみよう。絶対的中立者、これぞまさに神の視点って感じ。


 五回……六回……七回……。


 依然として無得点の膠着状態が続いている。

 もう! これだからスポーツってやつは! 

 これが映画なら今までのシーンはほとんど必要ない! カットしてやりたい! っていうか点が入るまで早送りでいいよ、こんなもの!

 このままじゃあこの試合は永遠に続くんじゃないの?


 もういいよ、抵抗しないよ……三時間だろうが四時間だろうが、好きなだけボールで遊んでいてよ。

 周囲の熱気が腹立たしいなぁ、ベトベトと肌にまとわりついてくる感じ。もうなにも考えたくない。このまま溶けてスライムになりたい。


 カキン!


 なに?

 入った! ホームラン!

 どっち?

 あのユニフォームはどっちだ? 

 ヒバゴンズだ! やった! やっと野球らしくなってきた!


 変化が起きたことに私は喜んでいたけど、居酒屋内のフーリガンどもは大ブーイングだ。


「殺すぞ守山ぁ!」「ダボがぁ!」「へボのくせにいきがりやがって!」「さらったろかアイツ、むかつくのぉ!」


 はいはい。あなたたちの声はホームランを打った選手にゃ届いてないよ。痛くも痒くもないよ。どうせ年収も全然かなわないんでしょ?


 どうせアンタたちはこのホームランに一本にさえ、見合う行動はできないよ。

 映画や漫画とかだと、悪役が活躍してこそ主人公がカッコよく見えるのに、この人たちは試合の内容そのものよりも、ただ勝つことこそに意味があるのだろうか?


 貧しい心だよ……。


 そんなことを思いつつ、私も「あぁ〜、打たれちゃった〜」と悔しがるフリだけはしている。油断してはいけない。


 それにしても、点が入るってことは楽しいことだ。

 こんなせまい空間の中で私だけがヒバゴンズを応援している。

 つまり……私だけが唯一無二の至上の存在なんだ! 


 ヒバゴンズ優勢! 孝美優勢! ヒポポタマシーズ劣勢! アンタら劣勢!

 もちろん健ちゃんや野田さんも含めてだ。身内だから特別だとかそんな都合のいい理論はふりかざさない。ここにいる野球ファンみたいにバカじゃない! ヤツらはみんな敵だ、ハッキリ言って。


 ということは私だけがこの場の勝利者なのだ! 魔女と呼んでもらってもいいわよぉ〜! 魔女ってバレなきゃ狩られることもないんだもんね! ゆかいゆかい! じつに愉快だ!


 そして七回裏、今度はヒポポの攻撃。

 ヒバゴンズはヒポポをきっちりとおさえる。

「あぁ〜、打てなかったね〜」と悔しがるポーズをとってみる。なんだか二面性を持つのも楽しくなってきた。スパイの気分ってこんな感じだろうか?


 八回。

 またしても点数は動かない。

 うん、このまま動きがなければ九時半にはここを出れるはず、もうドラマはいいよ。さっきよりは見ていて楽しくなってきたけど、やはり早く帰りたい。


 九回表。

 うわぁ〜い! 駄目押しの追加点を入れたヒバゴンズ!

 よし、うん。うんうんうん! これで確実にここを出れる! 汚い言葉だけど、娑婆の空気をやっと吸える!


 そしてクライマックス、九回裏に突入。

 もうゲームも終わるでしょうよ。

 健ちゃんも野田さんも他のファンたちも絶望に打ちひしがれてるのか? と思ったけど甘かった! 私は野球ってものを全然知らなかったんだ。やつらの目は輝きを増し、凛としている。なんで? なんで? 


 あ、そうか! ヒポポは二番打者からの攻撃だからだ。おまけにヒバゴンズのピッチャー北森は一回からずっと投げ続けたからヘトヘトにバテている! 

 ついにはコントロールを乱してフォアボールを出してしまった。 

    

 やむなく完投は無理、ピッチャー交代。ま、しかたない。


「ついにくたばりよった、北森」

「根性ないのぉ、アホやアホや」


 うるさいうるさい。北森は一生懸命頑張ってたじゃないか!


 押さえのピッチャー阿部が出てきた、大丈夫か? ガチガチだし、顔色も悪いし、無理もないか……全ての責任を彼が背負ってるんだ……。


「アイツしょんべんちびっとんちゃうけ?」

「ピッチャー屁タレやぞ! 打ってけよ〜!」


 だからお前らの声なんか届かないって! 汚い声を出しやがって! って私まで言葉使いが悪くなってしまう。


 それにしても敵にたいして、どうしてここまで憎しみを持てるんだろう? この人たちは時代劇の悪代官相手に本気で殺意を抱くんだろうか? レベル的にはそれとあまり変わらない。


 健ちゃんはそんなことはないよね?

「いったれぇ、戸田ぁ、ピッチャーライナーで阿部の顔面へこましたれぇ! 男前にしたれやぁ!」


 あぁ……健ちゃん。あんたもですか。


 たぶん、こういう人たちが戦争を喜ぶのだ。ただ、いてこますことに爽快感があるのだ。敵の兵士にも愛する家族や恋人がいるだなんて考えたこともないし、想像すらできないのがこういう人たちなんだ、絶対にそうだ、違いない。

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