第2話

 な?


 入ってみて私は驚いたよ、ほんとに! 壁にはデカデカと二m四方の旗がかかってるの、どんな旗かって? ピンクと肌色を混ぜ合わせたような微妙な色のカバがあんぐり口を空けてるの。それでその背景には紫色……ただの紫じゃないよ! プールに長い時間浸かった後の唇のようなそんな色。ここまで言えばもうわかるでしょ? 私の嫌いな野球、それもヒポポタマシーズの旗だったんだよ! 


 あんまり野球は知らない? ニュースとかで見たり、親から聞いたりだけど、ヒポポタマシーズのファンは良く言えば熱心。悪く言えば狂信的なの。


 こんなエピソード、聞いたことない? 


 あれはたぶん二十年くらい前、ヒポポタマシーズが約五十年ぶりに優勝した年だった。地元大坂のファンは歓喜にふるえて、喰いだおれの人形をチェーンソーで84の部分に解体し(優勝した年が84年だった)かまぼこの板にそれを乗せ、大平洋に向けて流したという、嘘のような本当の話があるんだ。信じられる? 


 とにかくヒポポタマシーズファンは北欧のヴァイキングに勝るとも劣らないくらい気性が荒くて、女房を泣かすも喜ばすも生かすも殺すも試合の結果次第。じつは健ちゃんがヒポポタマシーズファンってことは知ってたけど、私は興味がなかったから私の前では野球の話はさせなかったのだ、いままで。それがどういうつもりだろう?


 まだ早い時間だったから客は私たちだけ。健ちゃんと二人っきりだったらさっさと怒って帰ればいいのだけど、先輩の前だからそうも行かない。健ちゃんの顔に泥を塗ることになるし……そう、私がこの店で我慢すればいいだけ……我慢? なぜ私が?


 もうすぐ誕生日だってこともすっかり忘れられてるのに……。


 健ちゃんの面子なんてどうでもいい! ぶち切れて出てってやる!


「孝美ちゃんも生ビールでええよねー?」 

 野田先輩の声、反射的にウン! と言ってしまった。これで怒るキッカケ、帰るキッカケを逃してしまった。


 巨大なテレビの前にテーブルが置いてある。テレビのすぐそば、つまりテレビに背中を向ける場所には椅子が置いていない……ってことは純粋野球観戦仕様の店だ! 


 テーブルの後ろには木製のベンチが一段、二段とあり、健ちゃんは一段目、野田先輩は二段目に座った。


「なんか球場にいる気分やね」

 健ちゃんはメガホンでベンチの隣をポンポンと叩いた。しかたないので私も座ってみると、メガホンを渡された、そんなものを渡されても困る。


「そろそろ始まる時間だな」

 店の主人がテレビをつけると、ヒポポタマシーズはヒバゴンズと試合をしていた。まだ一回裏の0対0の無得点……。


 今年こそは優勝や! 

 そんなことを言っている人は嫌というほど見てきている。今年の風邪はたちが悪い……毎年そんな噂が入るのと変わりはない。彼らにとって今、生きているその年はいつだって特別なんだ。


 ビールが運ばれてきて、乾杯をする……なんのための乾杯かわからない。

 そもそも私は野球が大嫌いなんだ。

 学生時代、野球部の男子たちはみんながさつで威張っていたし、いい思い出がないよ。


 それに、サッカーや他のスポーツに比べてだらだらしている。どんなボールで勝負するかウジウジと迷ったりして……男らしくない! そんなものは男らしく全球ストレートで勝負すればいい。それとランナーがいるときの牽制球……なんなの? あれでセカンドがボールを落として、逆に盗塁されたりしてるのって相当さぶい。観るに耐えない。


 そんな野球をこれから観戦しなきゃダメなのだ、青汁どころの罰ゲームじゃないよ。まあいいや、ビールが来た以上すぐに帰るのもなんだし、とりあえず八時までは我慢しよう。それまでは食べよう。やけ食いで発散するのだ。


「あの、せっかくだからなんか食べない?」

 メニューを見て、私はまた嫌な気分になった。メニューのとこには、一番打者から九番打者までのラインナップがズラッと並んでいて……たとえば『五番西崎』と書いてある横に『海老のケチャップ煮』と料理名が書いてある。いちいちまどろっこしい真似を……メニューのところくらい野球を離れろよ! おい!


「すいませ〜ん、西崎と岡部と羽山お願いしま〜す」

「あ、神崎も追加ね〜」と男たちは叫んだ。

 注文するな。料理を名字で注文するな。


 退屈そうにビールを飲んだり携帯をいじってる私を見て健ちゃんは言った。


「もしかして退屈してる? でもね、試合が面白くなるのはこれからだって! オレもこれからは孝美と一緒にヒポポを応援したくてな……そのほうが有意義な時間過ごせると思わない?」


 いいよ、楽しんでるから! なんて嘘でも言わない。それを聞いて私は苦笑いしてやった……けど彼は鈍感だから苦笑いだなんて思わなかっただろう。

 

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