2.
紅茶の入った茶碗を二つテーブルの上に置き、私はテーブルを
「ありがたく頂くよ」そう言って彼はカップを右手で持ち上げた。
その時になってようやく私は、
私の
左手首から先、ジャンパーの袖から出ている部分に包帯がぐるぐる巻きに巻かれていた。
「どうしたんですか? それ」驚いて私が
なに、かすり傷だ大した事は無いよ、という感じの言い方だった。
純白であるべき包帯は彼の着ているもの同様、薄汚れていた。
(何日も取り替えていないのか……?)私は、衛生面は大丈夫なのかと不安になった。
「仕事中だったかな?」紅茶を一口飲んでティーカップをテーブルに置き、私の顔を見て、
「作品づくりの邪魔をしてしまったか?」
「いえ……今日はまだ取り掛かっていませんでしたから……」
本当は『さあ、これから』と思ったその
「十五年も音信不通だったくせに、今さら急に何をしに来た……って顔をしているな?」口元に薄っすら笑みを浮かべ、
「いや……別に……」
「それとも、この落ちぶれた姿を見て『もしや、こいつ金でも借りに来たのか』と
「
「信じられないかもしれないが、見た目ほど金に困っている訳じゃないんだ。この服は……」そう言って
「変装、ですか?」
「家族と別れる時、親父が
家族との別れ? 餞別?
「ますます話がわからなくなった、って顔をしてるぞ」
「ええ。まあ」
「心配するな。旧友に迷惑は
「ただ?」
「一晩だけ、ここに泊めてくれ」
彼のその言葉を聞いた瞬間、私は『やれやれ困った』という感情を顔に出していたと思う。
今の私は、山奥のアトリエで
私の性分からして、彼がアトリエに居る間は仕事が手につかないだろうが、芸術家稼業に日々達成すべきノルマがある訳でもない。
彼の来訪によって既に私の心は平静ではなくなっていた。このまま彼が帰ろうが帰るまいが、どのみち丸一日は仕事にならないだろう。
むかし世話になった友人を一晩泊めるくらい、どうという事もない……むしろ良い気分転換になるだろうとさえ思った。
……しかし……
「一泊が二泊、二泊が三泊と、ずるずる連泊されるのは迷惑、か?」
「いや、別にそういう訳じゃ……」
「約束するよ。一晩だけだ。明日には出て行く」
「……」
若き日々、自堕落な生活に溺れていた頃の
例えば……誰かの家(たいていは独身で金持ちの悪友)のパーティーに呼ばれ、そこで一晩じゅう酒を飲んだとしよう。当然、翌日は二日酔いで身動きが取れない。仕方がないので、家の主人である悪友に「もう一晩だけ泊めてくれ」と頼み込む。ところが、泊める方も放蕩者なら泊まる方も放蕩者だ。当然のように次の晩も酒盛りが始まる。また二日酔いになる。次の日も、そのまた次の日も……一週間が過ぎる頃には、さすがに家の主人である悪友も
十五年前、彼の周囲にはこんなエピソードが幾つも転がっていた。
当時の私は、そんな
しかし十五年の歳月を
何より私自身が変わった。
私生活、社会的地位、物事の優先順位……
今は、この静かな生活が一番大事だ。
かつての親友
私は答えに
口を『へ』の字にして渋面を作る私を、
それから小さく一つ
私は一瞬あっけにとられ、次の瞬間(やられた!)と思った。
ここは人里離れた森の中の一軒家だ。
小瓶とはいえ度の強いウイスキーを飲み干してしまっては、もう車を運転して帰ることは出来ない。
無理に車に乗せて追い返し、そのあげくに事故を起こされたり警察に捕まろうものなら、彼だけでなく、飲酒運転を黙認した私まで処罰の対象になってしまう。
罰金はともかく、私の芸術家としての名に傷が付くようなリスクは冒したくない。
タクシーを呼ぶか?
しかし、彼が運転して来たという『オンボロ中古車』とやらは、どうする? 家の前に置きっぱなしにされても迷惑だ。
(まったく……)
自分勝手は昔からだが、いつ、こんな狡猾さを身につけたのか……
私の中から込み上げて来たのは、しかし、彼の自分勝手に付き合わされる
「まったく……あんたって人は……」私は
一本取られたと言いつつ、不思議と爽やかな気分だった。
「良いでしょう。あそこで良かったら……」
私は書斎の隅に置いてあるソファを指差した。
リラックスして読書に
「あそこで良かったら、どうぞ一晩ベッド代わりに使ってください。あとで毛布も持って来ましょう」
「ありがとう。助かるよ」
「しかし、何でそんなに私のアトリエに泊まりたがるんですか?」
「十五年ぶりに旧友に会ったんだ。若き日のように、久しぶりに朝まで飲み明かしたい……って理由じゃ、納得できんか?」
「いや、まあ……」
納得した訳じゃないが、とりあえず、そういう事にしておいた。
* * *
私は席を立ち、再び台所へ行って、こんどはブランデーの瓶とグラスを二つ持って来た。
さらにチェイサー代わりの缶ビールと、つまみのクラッカーの箱。
「もう少し気の利いたものを出せれば良いんですがね」
「なに、上等だよ」
クラッカーを皿にあけ、グラスにブランデーを注ぎ、乾杯する。
「あのころ
そう言って私は自分のグラスに二杯目を注ぎ、ついでに
「そんな事ないだろ。旨い酒じゃないか……社会的成功、経済的成功の味がするよ」
「それ皮肉ですか?」
「第一、酔っぱらってしまえば百万円のシャンパンも百円の合成酒も変わらんよ。それが真理だ……百万円のシャンパンを散々飲み続け、落ちぶれてからは百円の合成酒を散々飲み続けた
私も負けじと急いで二杯目を飲み干し、三杯目を注いでグラスに口をつけた。
こうして、私たちはクラッカーを
三時だったか四時だったか、さすがにクラッカーだけでは腹が減ると言って、私は台所へ行って食パンを焼き、ウィンナーを茹でて、二人で遅い昼食とも早い晩飯とも言えない食事を
そしてまた飲んだ。
飲みながら昔話で大いに盛り上がった。
話の内容はいちいち書き記すほどの事もない。
多少は分別のついた今から振り返れば、愚かで下品で悪趣味な乱痴気騒ぎの
しかし十五年も
久しぶりに会った
私には孤独が似合っていると自分で思っていたが、こんな山奥のアトリエで暮らしながら、やはりどこか人恋しい部分があったのかも知れない。
「
「また楽しからずや、って思ってくれてるなら、光栄だね」
なるほど、こんなに楽しい時間は何年ぶりかと思った。
しかし、友人と酒を
匂いだ。
最初に玄関を開けて挨拶を交わした時から、妙な匂いが彼の周囲に漂っていた。
はじめは気づくか気づかないかという程の
何日も風呂に入っていないとか、服を洗っていないとか、そういう不潔さから来る悪臭ではなかった。
何というか……甘ったるい……とでも言えば良いか……
不快かと聞かれれば、必ずしもそうでもなかった。
ただ……『奇妙な』匂いだった。
酒を飲み続け、テーブルの周囲に転がる空き瓶が増え、酔いがまわって嗅覚が鈍ってくると、それも別にどうでも良くなった。
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