遺産相続
青葉台旭
1.
その年最後の台風が過ぎ去り、北から冷たく澄んだ空気が関東平野に降りてきた十月中旬のある日、
遅い朝食を
玄関の扉を開けると、十五年前まで良く
「よう。藤本」扉の外に立つ
「誰かと思えば
目の前に立つ男は確かに旧友の
記憶の中にある友は、若く、美しく、自信に満ちながらも退廃的で、着るもの身に付けるもの乗るクルマ行く場所すべてが超一流で、何にでも湯水のごとく金を使う、富豪の放蕩お坊ちゃまを絵に
……だったはず、なのだが……これは一体どうした事だ?
十五年の時を経て再会したかつての親友は……憔悴し、目は落ちくぼみ、頰は
持って生まれた元々の顔が美しいだけに、その落ちぶれた姿は何とも言えず凄まじく、そして
私は、変わり果ててしまった彼をしばらく呆然と見つめていたが、ハッと我にかえって「まあ、とにかく」と
書斎に使っている十畳ほどの洋間に彼を通し、来客用の椅子に座らせ、紅茶でも
ティーカップを二つ盆の上に載せて戻ってきた私に
そしてニヤリと口元を
「さすがは画伯……ってところか」
その言い方の嫌らしさに
若き日の
どうして、ここまで落ちぶれてしまったのか。
* * *
私が
年上の知人に連れられて初めて訪れたナイトクラブで、私が酒を注文しているところへVIP室から女を二人連れて降りて来たのが
そのとき彼と何を話したのかは、もう憶えていない。
とにかく私は
このとき私が彼に何を話したのかも全く憶えていないが、たぶん当時注目していたポップ・アーティストの話か、誰も見向きもしない低俗・低脳・低予算のマイナー映画の話のどちらかだったと思う。その頃の私には、他人に話せるものが他に無かった。
その夜、
それで終われば、美術大学の学生がクラブで金持ちのお坊ちゃんと出会い、互いに名も知らぬまま別れた……というだけの話だったはずだ。
しかし、それから一ヶ月ほど
あるマイナーなポップ・アーティストの展覧会に行くと、そこに
「やあ、また会ったね」と気さくに声をかけてきた
小さな展覧会場を見てまわるのに大して時間は掛からない。
会場を出た私に、
話してみると、彼と私は驚くほど文化的な趣味嗜好が似ていた。
彼は私より五歳年上で、都内の有名私立大学の文学部を卒業したあと定職にも
父親は、何とか言う投資コンサルタント会社を経営していて、彼いわく金は
「僕は僕で気ままに暮らすさ。まあ高等遊民ってやつだな」と彼は言った。
それから私と
……いや、
中流階級出身の美大生、というだけの私が、庶民が行けないような場所に行き、庶民には出来ないような遊びを楽しめたのも、
行く先々で、上流階級と呼ばれる人々を紹介された。後に私が世に出るとき、そのことが少なからず有利に作用した。まったく芸術家の人生など運とコネでしかないなと思ったものだが、それはまた別の話だ。
とにかく
彼と私が
ただ一つだけ、あるエピソードを書いておく。私が彼と
ある日、とつぜん彼が私のアパートへ来て「今から遊びに行こう」と言った。
これも金持ちの坊ちゃん気質ということなのだろうか、
その時ちょうどアルバイトに出かけるところだった私は、せっかく来てくれて悪いが他に用事があるから今日は帰ってくれと
彼は、アルバイトなんて下らないから辞めてしまえば良い、卒業までそのアルバイトを続けたと仮定した給料合計額を三倍にして、今ここで僕が払ってやろう……と言った。
さすがの私も、その
私は「金で何でも解決できると思うな」とか何とか言って、
別にそのアルバイトに特別の思い入れがあったわけじゃない。大した時給でもない、ありふれた学生向けのアルバイトだった。
しかしその時は、あまりにも自分勝手な
すると……意外なことに
そして、親に怒られた幼児が泣きそうなのを我慢して必死で言い訳するような声で「いつまで……君と友だちでいられるか……分からないんだ」と言った。「だから、一緒に遊べるうちに、できる限り長い時間、君と遊んでおきたいんだ」と。
つねに自信に満ち
こいつも、こんな顔をする事があるんだ……と、私は思った。
その表情は強く印象に残った。
* * *
一時期は毎晩のように
ちょうどそのころ卒業制作が始まり、就職活動もあり、だらけ切った学生生活のつけを支払う時期が来ていたからかも知れない。
このまま
彼が「いつまで君と友だちでいられるか分からないんだ」と言ったときの思い詰めた表情を見て、急に怖くなったからかも知れない。自信家で、傲慢で、皮肉屋で、
彼から電話がかかって来ても、あるいは彼が
私は東京郊外の美術大学をどうにか卒業し、都内の広告代理店に就職した。
その頃には、
入社した代理店の仕事は激しかった。内向的で口下手な私の性分とは絶望的なほど相性が悪かった。
神経をすり減らし、肉体を酷使し、入社して五年後には心身ともに疲れ果てていた。
このまま仕事を続けていては取り返しのつかない事になってしまうと私の中の本能的な何かが叫び声を上げ、私はその叫びに従って上司に辞表を提出した。
再就職の当てなど、これっぽっちも無かった。
しかし人生、何が
失業期間中、次の職を探しながら前職で消耗した心身をリハビリするつもりで製作しネット上に公開したデジタル・アートが、ある現代美術の蒐集家の目に
デジタルではない一品ものの作品を作ってくれたら、それなりの金額で買い取ろうと提案して来たその蒐集家は、会ってみれば何のことはない、
ネットに作品を上げるとき、私は自分の名前をカタカナ表記にして画号としていた。
その富豪は私の名を覚えていて「もしや」と思い連絡した、と言うのが本当の所らしかった。
なんだ純粋に私の作品を評価してくれたんじゃないのかと一瞬だけ落胆したが、コネだろうと
彼の話によると、ちょうど私が大学を卒業した同じ頃、
「薬に溺れて廃人同然になり、親の別荘に軟禁され何年もリハビリを続けている」だの、「外国で、異常性癖者専門かつ人権侵害的な高級売春宿に
それからさらに十年の月日が流れた。
世に出る最初の
あるていど生活に余裕が出来た段階で、私は東京の高層住宅を引き払い、山奥に小さな
都市のエネルギーが霊感を与えてくれるなどと
学生時代に
しかし時間の経過とともに、月日の経過とともに、人間の性格は変わっていく。
会社を辞めたあたりから急に都会の騒々しさが嫌になった。
夜遊びも、女遊びも、今は疲れるだけだ。
森の中の
朝起きて、作品に向かい、腹が減ったら冷蔵庫にある物で適当に料理を作って食べ、また仕事をして、疲れたら寝る……それだけの日々だが、それで充分に満たされている。
経済的にも困っていない。
作品の売れ行きは良く、銀行預金の残高は増える一方だ。
……その満ち足りた生活領域に……突然、十五年前の友人が現れた。
驚くほど変わり果てた姿で。
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