さよならを初恋

葉惟

第1話


 波が引いて、寄せて。くらやみの世界で呼吸する音の海。

 佇む街灯だけが点々と明かりの影を作って、穏やかに眠る私たちの町。私たちの町だった町。

 「元気そうだったね、みんな」

 見上げた渚の顔は影に半分隠れている。三日月みたいに吊り上がった紅色の唇が、鈍く輝く。

 「危ないよ」

 「大丈夫だよ。砂浜だから」

 ほら、伸びてきた手を取って、堤防によじ登った。いつもより冷たい手は酔っているせいだろうか。

 視界はやっぱり真っ暗で、空気と地面の境目も分からない。でも、天蓋には銀色に跳ねる星がたくさん散っていて、見えない地と空の果てをぼんやりと肌で感じる。

 潮風が、火照った頬に心地よい。空気に流されて随分とお酒を飲んでしまった。ふらつきはしないが、思考が浮ついている。ここまで飲んだのはいつぶりかな。成人した途端、お酒への憧れは幻想みたいに消え去ってしまった。

 「落ちちゃうよ」

 袖を軽く引いて、渚に引きずり、座らされる。さっきは大丈夫って言ったくせに。頬の筋肉が緩むのを必死に抑える。でも、しゃがんで私の服を引っ張る姿が子供みたいで、大人しく座った。かわいい。

 渚はだらしなく胡坐をかいて、清潔とは言えない堤防のコンクリートに惜しげもなくジーパンのお尻を押し付けている。

 どうせ、こうしてたむろするんだから、私も座れる服にすれば良かった。いつもより洒落っ気のあるフリルのスカートを手で梳くってお尻が着かないようにしゃがむ。 

 「結構飲んでたね」

 「うん。でもしんどくはないよ」

 「ぼーっとしてたよ」

 「酔ってるって分かってるから大丈夫」

  ふふ、と渚が笑いこぼした。呼気が真っ暗な空気を暖かに揺らす。

 「なによ」

 「酔っぱらいの言う事だよ」

 暗闇から不意に伸びてきた手のひらが私の背に触れて、輪郭をそっとさする。接しているのに、あまりにも遠い。私の身体はバカみたいに火照ってる。

 身体に熱を吸われたように頬はいつの間にか冷え切っていて、潮の匂いが鼻孔にこびりついた。そういえば、いつもここは海だった。

 「また拠り戻したんだね」

 ついて出て言葉はいつも聞いている声より幾分も低くく、混じった棘が自分を絡めとって、胸を締め付ける。

 「――分かったんだ、流石だね」

 背を包んでいた手のひらが逃げるように少し浮いて、離れない指先の温度だけが暖かい。

 この娘は、この娘達はいつもこうだ。波が打つように繋がって、離れて。森に身を隠すようにこっそりと。

 「今日言おうと思ってたんだ」

 知ってるよ。

 「澄子には言わなきゃって、思ってたから」

 「――うん」

 それも、分かってる。乾いた唇を舌で舐めて手にかいた汗をスカートで拭う。

 私達は卒業してそのまま離れ離れになるような、そんな仲じゃない。多分、一生の縁ってやつなんだ。

 一生の縁を繋げるために、私は今痛いくらいに奥歯を噛みしめている。早く。いつのまにか朝になって欲しい。

 相変わらず宇宙の星々は悠然とちかちか煌めいていて、晩夏の涼しい風が肌をそよぐ。

 「けどやっぱりあっちは適当でさー」

 頬にかさんだ細い黒髪を慣れた様子で耳にかける仕草が妙に色っぽい。黒い水面が張った双眸に、私の夜に慣れた瞳は宙に泳いでしまった。

 今更だろうに。ほんと、バカみたい。

 「じゃあなんで別れないの」

 私の言葉は毒を持っていないだろうか。単純な疑問なんだ。二人は何度も出会うけれど、文句ばっかり。

 今の自分からしたら心底理解できない。

 そこまでして、一緒にいたいの?

 「――やっぱり好きなんだな、わたし」

 びゅう、と地平線からの強い潮風が私達をあおいだ。鼓膜が風に圧し潰されて、私の耳は甲高く、何も受け付けない。

 瞼の裏にじわりと滾る熱をこぼさないように。こぼさないようにそっと、蓋をした。

 この心臓も同じように蓋が出来れば良いのにな。

 全てが奪われても鼓動は激しく脈打って、止まない。

 「澄子?」

 「――なら大丈夫だよ」

 渚の言葉は半ば遮って、言葉はついて出た。

 「きっと、アイツもそれは同じだから。渚なら、大丈夫」

 遥か彼方の水平線は曖昧な橙色を帯び、この町は新しい朝を迎えようとしていた。

 今日が私の誕生日。今日の早朝に、私は生まれたらしい。

 さようなら、十代の私。あなたの想いがいつか遂げますように。

 おはよう、大人の私。強く生きて。

 左頬を伝った熱い雫は、朝日だけが見ていた。 

 





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さよならを初恋 葉惟 @hayu_bloom

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