放課後5ミニッツ

すいま

 放課後5ミニッツ

 今年も変わらず照りつける太陽は、今日も街を40度まで焼き上げては、知らん顔で沈んでいく。ニュースでは連日、熱中症対策が囁かれ、台風の進路を気にする日々が続いていた。

 夏休みに入り、家でダラダラできるかというと、どうやら人生に何度かある岐路に否が応でも立たされているようで、それは進路希望という明確な言葉で突きつけられていた。これから数十年に渡って歩む道の最初の入口を、いま、この時に決定せよというのだ。

 彩(あや)は定まらない台風の進路を見つめて、気楽なもんだと毒づいた。とはいえ、あまりフラフラして台風のように当たり散らして生きていく人生は気が引ける。

 とりあえず間口は大きく、と夏期講習に出向いたのが今日の朝。そして、後悔しているのが今なのだ。

 あと5分で講習の時間も終わる。中の中で平凡な道を歩んできた彩は、中の中の高校に入ったがために真面目に進学を考えるクラスメイトもたかが知れていた。

 みんな、なぁなぁに自分の身の丈に合った舗装された道を進んでいくのだ。背伸びなんてするんじゃなかった。


 所属クラス関係なく集まる講習室とは別に、通い慣れた2年B組の教室へと向かう。部活組の元気な声が開け放たれた廊下の窓から注ぎ込まれ、熱に当てられるようだった。教室棟には、いつもの騒がしさがない。不気味さと新鮮さを感じながら、彩は教室のドアを開いた。


 存在感というものがなかった。ドアを開ける前はもちろん、いま目の前に座っているその姿を見てもなお、そこに存在しているのか確信が持てないふわふわした存在。

 彼女は窓際の席に座り、カーテンを揺らすそよ風を浴びながらヒラリと本のページを捲った。


 見惚れる、不意を突かれる、恐れる。彩が動けなかった理由はいくつでも挙げられた。


 彼女が一瞥をくれたら、踵を返して逃げ出していただろう。しかし、窓際の彼女は彩を気にもとめず、視線は文字を追っていた。

 我を取り戻した彩はゆっくり教室へと足を踏み入れた。彼女の席から少し離れた、自分の席へと向かう。椅子に腰を下ろして一息ついた。教室の空気の冷ややかさが心地よかった。バスまでの十分。バス停までの移動を考えて五分。五分間だけ、ここで休んで教室を出る。ただそれだけの完璧な計画だったのに、窓際の彼女の存在が妙に心をヒリつかせた。


「檜山さん、今日は講習?」


 初めて名前を呼んだ。

 同じクラスになってまだ数ヶ月だが、曲がりなりにもクラスメイトをやってきたのだ。二人だけのこの教室で、壁を作る必要もない。

 普段は他のクラスメイトに埋もれ、大海の一滴である彼女だったが、流石にここで対峙するとなれば意識せずにはいられない。久しぶりに人に道を聞く以上の勇気を出した気がした。


「違います」


 ちらりと視線を寄越し、返答はそれだけだった。拒否されているのだろうか。しかし、そんなオーラは不思議と感じない。どこか緊張しているような声音だ。彼女がどんな人間だったか、思いを巡らせる。


 始業式の自己紹介は記憶にない。なにか委員をやっていた記憶もない。教室内の掲示物を見回してみても、名前が上がるような子ではなかった。「私は彼女を認識したことがない」。その事実が不思議な衝撃となって、心のざわつきが引いては寄せる。


「わざわざ本、読みに来たの?」


 檜山さんはコクリと頷いた。

 家で読めばいいのに。クーラーがないんだろうか。思いをはせるも、踏み込めるギリギリのラインをじっと見つめると、彩は言葉を飲み込んだ。


「なんの本読んでるの?」


 彩は檜山の前の席に座ると背表紙を覗き込んだ。

 檜山も見えるように本を持ち上げる。


「世界の、中心で、愛を叫んだけもの……?」


 檜山はまたコクリと頷く。


「私知ってるよ!昔ドラマか映画になってたよね!お母さんが好きで一緒に録画したの見てたなぁ。めっちゃ泣けるよね!」


 檜山は困ったような表情を見せたが、すぐに微笑みに変わった。彩はなんだかとても貴重なものを見たように心が踊ったのを感じた。この子は、いったいどれくらいの人にその顔を見せたのだろう。どのくらいの人が、その笑顔を引き出せたのだろう。彩は自分がこの世界で特別な人間になったような錯覚を覚えた。


 ジージーとスマホが震えバスの時間を告げる。


「あ、そろそろ行かなくちゃ。」


 その時、檜山はもう静かに視線を本に戻していた。

 少しがっかりしながら席を離れ、カバンを掴んで教室を出ようとした。

 ふと足を止め、振り返る。

 相変わらず存在感のない檜山は本を読む手を止めない。


「明日も来る?」

「......はい」


 彩は願掛けをした。

 あの子が来る限り、夏期講習を頑張る。

 あの子が来なくなったら、私の夏期講習も終わり。

 私が進路に躓いたら、あの子のせいにすれば良いのだ。


 彩は教室を出ると、軽やかに階段を駆け下りた。



 二日目、今日もくだらない1日が過ぎた。脳みそのシワの1本も増えない1日だ。しかし、最後までこの席にいた自分は褒めてあげてもいいと思う。彩はすっかり重くなった腰を上げて教室へ向かった。


 昨日のことを思い出し、ドアを開けるのを躊躇した。今日もいるだろうか。ドア越しにはわからない。意を決してドアを開いた。

 今日は何月何日だろうか。まるで昨日と同じ日を繰り返しているのかと思うほど、そこの席に座る彼女は静かだった。まさか、昨日からずっと変わらぬ姿勢でそこにいたのではないだろうか。


「もしかして、昨日からずっとそこにいるの?」


 彩は自分の席に座りながら声を掛ける。

 檜山は声を上げることもなく首を傾げ、はてなマークを浮かばせている。どうやらそんなわけではないらしい。

 二日目にして、檜山の雰囲気が馴染んできたらしい。彼女はいたって普通なのだとわかると、気負っていた自分が恥ずかしくなってきた。彼女はただ本が好きな薄幸美少女で、コミュニケーションが上手ではない。ただそれだけ。彩は涼を求めて机に突っ伏すと、横になった世界の彼女を見た。昨日と本の装丁が違う。


「あれ?セカチューは?」

「今日はこれ」


 檜山が手に持つ本には「The Catcher in the Rye」と書かれていた。しかも村上訳だ。


「明日は?」


 ゴソゴソと机の中をあさり、表紙に「いまを生きる」と書かれた本を取り出した。


「明後日は?」


 またゴソゴソ。

 今度は「いまさら翼といわれても」と書かれている。


「毎日変わるわけ?」

「曜日別」

「ゴミ収集かよ」


 檜山は少しだけムッとした表情を見せた。


「土日はどうするの?」

「書いてる」


 少し照れたように答える彼女を観て、面白がって聞き返してみる。


「え?」

「書いてる」

「小説を?自分で?すごいじゃん!」


 しかし、今度はすごく悲しそうな顔をする。踏み込みすぎた感が否めず、彩は一歩引いた。


「完成したら読ませてね」


 それにしても机の中に置き勉のごとく本を収納しているのを見ると、思っていたより砕けた子なのかもしれない。彩は檜山に俄然興味が湧いた。

 五分とはあっという間で、少しでもくだらないことを話すとまたたく間に時間が減らされていき、最後にはタイムオーバーとなる。


「明日も来る?」


 その問いに檜山は黙って頷いた。彩はちょっと込み上げた嬉しさを表に出さないように教室を後にした。


 それからの夏休みは同じ日の繰り返しだった。相変わらず照りつける太陽はぐるぐると回り、台風はフラフラと通り過ぎては、じっとりとカンカン照りを繰り返す。講習の内容は脳みその表面にへばりついて染み込まず、シャワーで洗い流される。しかし、放課後の五分間だけは違っていた。


 講義が終わった教室には、必ず檜山がいた。

 彼女が読む本のタイトルで曜日がわかるようになった。

 栞がどんどんと後ろへ差し込まれていく。

 彼女は私の顔を見るようになった。

 彼女はさよならの挨拶をするようになった。

 彼女は好きな本の話をするようになった。

 彼女は笑うようになった。

 栞がさらに後ろへ差し込まれていく。


 雨でも日照りでも彼女は来た。彩も行った。


 夏休みの終りが見えてきた日、彼女は来なかった。月曜日だった。


「なんで、昨日は来なかったの?」


 怒っていたわけではない。


「読み終わったから、セカチュー」

「じゃあ、他の本読めばいいじゃない」


 詩織は静かに首を振った。


「もう、新しい本は読まないの。いま読んでるので、溜め込んでたのは全部だから。」


 彩はなんだか絶望を感じた。変わらない日常の中で唯一変わってきた彼女が変わることを彩は恐れていたのだ。


 その日の五分は、あっという間だった。


 木曜、火曜、水曜、最後のページをめくると詩織は来なくなっていった。

 そして金曜。


「今日も疲れたー」

「どうせ寝てただけでしょ」


 いつもの調子で話しかけるが、彩は詩織が持つ本を見つめていた。ページをめくる指を追う。残りはもう少し。彩は話を続けた。詩織は時折本を置いて向き合って応えた。

 ジージーと震えるスマホが机を叩く。彩はそれでも口を止めない。


「スマホ、鳴ってるよ?時間じゃないの?」

「いいの。今日はいいの。」

「帰れなくなっちゃうよ」

「大丈夫。歩けば帰れる。」

「遠いんじゃないの?」

「いいの。今日はいつまででも話していたいの。」


 話をしている間だけ、そのページをめくる指が止まる。最後の一冊を読み終えた時、彼女はどうなってしまうのだろう。放課後の5分間だけ私は彼女を知っていた。街で会うこともない。何処かへ一緒に遊びに行くこともない。家庭のことや昔のことなど知る由もない。それだけの関係だけど、放課後の5分間だけは本当の彼女を観ていられたのだ。私だけが、彼女を観ていられたのだ。


 夏休み最後の金曜日、彼女は来なかった。








 夏休みを終えて活気が戻った始業式の日。昨日までの静かな学校が嘘のようで別の世界のように感じる。級友たちは夏休み前より少し大人っぽくなったように見え、自分だけ夏休みに取り残されているみたいだ。校門を抜け、教室へ向かう。

 まるで自信のない合格発表へ向かう生徒のように、足取りが重い。開け放たれた教室のドアをくぐると視線が自然とあの席へと向かった。


 ドアの前に立ちすくんだ。



 『不合格』



 きっと何かを間違えたんだ。

 大きな間違いを犯して、大きな失点をした。



 その机に置かれた花瓶の一輪の花は、存在感なく咲いていた。

 センスのない花。一輪だけだなんて、なにかの嫌味だろうか。明日は私が彼女に似合う花を買ってこよう。きっと、あの子が好きな花を知っているのはこのクラスで私だけだから。






 放課後、夏休みが抜けない生徒たちが波のように引いていった教室で、その一輪の花は窓際の席に座り、カーテンを揺らすそよ風を浴びながらヒラリと本のページを捲るように揺れている。

 彩は一人、最後の五分を待っていた。


 ふと、詩織の机の中を覗く。待ち構えていたように、最後の一冊が残されていた。妙に隙間を開けるその本には、栞の代わりに便箋が挟まれていた。


「五分間だけのほんとうの世界。作、檜山詩織」


 五分で読み切れるほどの短く薄く儚いその小説は、彩の心に染み付いた。大事な何かが零れ落ちないように、顔を必死に上げ続けた。


 今日もまた、ジージーと机を叩くスマホの音が時間を告げた。

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