雲を凌げば
雨降子
第1話 青年は、十二階の展望台へ出た。
薄暗い、石製の螺旋階段をただ黙々と登る。寒々しく、長い長い階段――階数を数えるのもやめてしまった。壁の、所々にある小さな窓は下の景色をどんどんと小さくしてゆく。急ぐ必要などないのに、最上階が近く感じると、自然に足が速くなった。
展望台に出る。風と、いきなりの光が目を突き刺した。空が視界を覆った。視線を落とすと細々とした町並が目に入る。広大な浅草境内があんなに小さい――。さっきは見上げていたイチョウの木々があんな下に見えるなんて。花屋敷、ひょうたん池と、真下に視線を移した。最後、搭のふもとの……米粒のような、人間。
あまりの小ささに笑い出したくなった。このまま身を乗り出して落下すれば。
(確実に死ねる)
「飛び降りるの?」
突然。背後からの声に振り向いた。そういえばいつの間にか勝手について来ていた……少女と目が合う。こちらの胸裏などお見通しだというような、驚くほど真っ直ぐな、大きな瞳。透き通るような白い肌は、今まで日の下に出たことがあるのだろうかと疑うほどだ。栗皮木綿地に縞模様の地味な着物が、はっきりとした顔立ちをより際立たせている。
少女はゆっくり近づいてきた。自分より頭一つ分小さい頭が隣に並んだ。おかっぱの、色素の薄い髪――異人の血が入っているのかもしれない――が、風に煽られる。
「富士山が見える」
少女の指差す方向に顔を向ける振りをしながら、自分は死ぬつもりなのだろうか、と自問した。わからなかった。初めてみるこの光景に圧倒されて、思わず死という発想が湧いただけのような気もする……。隣の少女を盗み見る。おそらく一二、三歳くらい――の割には表情が乏しく、こうして知らない者についてくること自体、なんだか投げやりな、色んな何かを諦めてきたような印象を受ける。
「どうしてついて来たんだい?」
いくら学生服を着ているとはいえ、自分も男だ。乱暴されたり攫われたり、という危険性は感じないのだろうか。そもそもこんなところに一人でいること事体がおかしい。
「だって」少女は遠い目をしたまま言った。「上ってみたかったの、ここ。駄目だって言われているから」
「誰に?」
「私をずっと見張っている人」
反射的に周囲を見渡した。
「――誰もいないよ」
「今は、どこかへ行ってる」
何故監視などされているのだろう。
「町へ出るのは自由なんだけど、ここに上ってはいけないって言われているの。飛び降りるとでも思っているのかしら」
出るのは自由? なら誘拐ではないのか?
「監視されて……逃げようとは思わない?」
問いに少女は、ふとこちらを見た。逃げてどこへ行くの? こんなこどもが、どうやって一人で生きていくの?
そんな言葉が聞こえた気がした。
そうだ、自分だってそうではないか。こんな少女ならなおさら……。
「……逃げようか」ふいに、口をついて出た。「二人で」
少女は返事をしなかった。青年に視線を向けたまま、薄い笑みを浮かべる。穏やかだが、強い光をたたえた瞳に、何故だか胸を突かれた。
(そうだ。自分も覚悟を決めなければ)
微笑み返し、名を聞いた。
あやめ、と小さく聞き取れた。
もう、行かなければ。今来た階段を降りて。
この、一二階から。
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