無くしたモノ

尹刃 蒼

無くしたモノ

 私は幼い頃から目が悪い。

 幼稚園の年長の頃にはもう、メガネをかけていたし、それは今も同じ。

 12.13年も身につけていると、それが無くなることなんて想像できないし、生活もままならないだろう。

 メガネは便利だと思う。

 こうして自転車に乗っていても、目に風が入って乾くこともないし、目に砂やゴミが入ることもない。

 自転車で前にある景色を切り開いて進んでいく。この感覚は自転車にしかないもので、とても好きだ。

 自転車はメガネと違って一緒に育ってきたわけでもないから、思い入れはあまりないけれど…。

 そうして自転車に乗っていると、約束のファミレスに着いた。

「涼香~遅いよー」

 テーブルにつくと、既に待っていた友達から文句が投げ掛けられた。

「ごめんごめん。ちょっと寄り道してて。」

「まぁ、いいけどー。じゃあ、さっそくやろっか」

 週に1回の私たちの勉強会が始まったー。


『ポリスチレン6.0gを含むベンゼン溶液500mLがある。この溶液の27℃における浸透圧を測定したら50Paであった。このポリスチレンの平均分子量を求めよ。』

「ねぇねぇ涼香この問題わからないんだけど…」

「あー、それはね?まず、平均分子量をMと置いて…」

 小さい頃に貰った、色褪せたシャーペンを握り、私は友達に解説をしようとした。

 しかし。

 私のスカートのポケットでスマホが震えた。

 画面を見ると、お母さんからのLINEで、『早く帰って来ないと晩ごはん抜きにするけどいいの~?』と来ていた。

 ファミレスで軽食を食べたとは言え、晩ごはん抜きは嫌だ。

「…ごめん、楓。お母さんが早く帰ってこいだって」

 解説するのを切り上げ、楓に謝る。

 楓は悪い顔一つせずに言った。

「ん~ん。いいよ大丈夫。私いつも教えて貰ってばっかだし、これくらい大したことないよ!」

「…そうかな、ありがと」

「でも、ちゃんと続きは次の勉強会で教えてね!」

「もちろん。大丈夫だって!…それじゃ、そろそろ帰るね」

「うん、ありがと涼香。また来週ー!」

 この声を背に、私は伝票を持ってお会計をしに行った。


 外に出ると、薄暗くなっていた。

 それは、時間帯のせいもあったが、一番の理由は空だ。

 上を見上げると、黒々とした澱んだ色をした雲が立ちこめている。

(…雨降りそうだな)

 今日は、雨具を持っていないので、早く帰った方が良さそうだ。

 私は自転車に乗り、帰路に着いた。


 いつもより、幾分か早いぺーすで自転車をこぐ。

 頬にポツリと水滴が落ちてきた。

 雨だ。

 カバンに入れてある教科書や参考書が濡れるのは嫌なので更にペースを上げようとした。

 その時。

 一瞬、世界が閃光に包まれた。

 かと思えば、大きな衝撃が私を襲った。

 成すすべなく私は、自転車から放り出され、カバンと共に地に転がった。

 体の痛みはそれほど無かったけど、何が起こったのか理解できず、私は呆然としていた。

 泥の混じった水溜まりの上に横たわった私のぼやけた視界に、バンパーの凹んだ車が走り去って行くのが入った時、私はようやく理解した。

(轢き逃げか…)

 何で、こんな目に合わないといけないんだろう。

 何で私が…。

 自転車の後輪にぶつかったので骨折はしていなかったが、アスファルトに落ちたときに付いた擦り傷がジクジクと痛む。

 さっきからなぜか世界がぼやけて見える、と思っていたらメガネが外れて何処かに行ってしまっていた。

 すっかり夜になって暗くなってしまった上に、雨も降っていて更に見え辛くなっている。

 ぼんやりとした、暗い世界の中、更に私は絶望することになる。

 カバンの中身が水溜まりの上に散らばっていたのだ。

「あれっ…」

 手探りでカバンの中身を確認していたら、『あれ』が無いことに気がついた。

 あの、幼稚園を卒園したときに彼から貰ったシャーペンなのに…。

 彼は卒園の時に、何処か遠いところへ行ってしまった。

 それっきり、連絡もとれていないので、シャーペンが唯一の形見だったのに…

 どこに行ってしまったのだろう。

 彼も居なくなって、シャーペンまで失ってしまった…。

 冷たい雨に打たれながら、私は人目も憚らず、涙を流した。

「…ぃ、…ず」

 どうして。何で居なくなったの?

「…ぉぃ…ず」

 どうして、私が…。

「おい!すず!」

 肩を捕まれて現実に引き戻された。

「…へっ…?」

 涙と鼻水でぐちゃぐちゃになった顔のまま、私は肩を捕んできた人物を見つめた。

 えっ…?この声、…この顔。

「…、ひ、ひろ兄…?」

「今頃気付いたのかよ。すず、悪かったな、急に居なくなって。」

 あの頃のような、日だまりのような笑顔でひろ兄は言った。

「ううん。私も、シャーペン、無くしちゃって…ごめんね?」

「シャーペンくらい、また買ってやるから。早く帰るぞ。お前風邪引きやすいんだから」

「うん…。」


 私の体は冷えきっていたはずなのに、もう少しも寒いとは思わない。

 メガネをしていなくても、シャーペンより大事な『無くしたモノ』を見つけられたから…。

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