はしご

三条 かおり

第1話

「あった……」

 ー保護責任者遺棄致死の罪で起訴されたのは、東京・H区に住む高橋剛被告(32) と妻の亜美被告(26)。起訴状などによると、2人は昨年9月下旬ごろから、 長女の睦美ちゃん(7)に十分な食事を与えずに栄養失調状態にしていた。剛被告は睦美ちゃんのお腹を蹴るなど暴行を加え、2月14日……ー

「この母親、今の私のみっつ下か」

 矢内聡子は、20年近く前の新聞記事を読んで思わず呟いた。図書館の書庫に入ったことはほとんど無いはずなのに、古い紙とインクの匂い、静まり返って動かない空気に不思議と懐かしい心地がした。

「睦美って、いうんだ」

 おぼろげにも思い描くことのできない彼女は、それでも聡子の記憶の片隅にずっと横たわっていた。

 妊娠が分かって、喜びと、不安と、同時に"むっちゃん"という名前が呼び起こされたことに聡子自身動揺した。しかし動揺したのは、あまりに遠い記憶が呼び覚まされたからではなく、今の今まで 自分がすっかり忘れていたことに気づいたからだった。

 当時は理解できないにしても、むっちゃんが虐待死したことは、大きな出来事であるのに、自分が子どもを授かるまで思い出すことも、こうして調べようとすることも無かった。

「バレンタインデーの日に、死んじゃったんだね」

 声に出したときのすんなりとした感触とは裏腹に、息を吸おうとすると喉が震えた。

 あの日、チョコレートの甘い香りがする部屋で焦れて待っていたとき、結局むっちゃんは現れなかった。その意味がはっきりと目の前に並んだ今、あのはしごを見上げた日に戻りたいと、聡子は思った。



「こんこん、あーそーぼ!」

 ベランダに知らない子が立っていた。サトは呆気にとられて、持っていたじょうろを取り落とした。するとその子はすかさず拾い上げて言う。

「なになに?お花ー?」

「あ、えっと、チューリップ……」

「むっちゃんも手伝うー!」

 なにやらはしゃいだ様子で水を振り撒くのを、呆然と眺めていると、ねえ!と顔を覗き込まれる。

「遊べない?」

 遊ぼう!でも、遊べる?でもなく、遊べない?と言う声は、途端に怯えているように聞こえてはっと顔を上げた。

 目鼻立ちのくっきりとした、輪郭の鋭い子。半袖と長ズボンにマフラーという、とんちんかんな格好をした子だった。

「寒くないの?」

「うん」

 サトは少し考えて、ベランダの戸を開けると部屋の中に入った。むっちゃんと言った女の子は、マフラーをぎゅっと掴んで、足元の砂利を蹴った。

「じょうろは置いててね。なにして遊ぶ?」

 声をかけると、ぱっと目を見開いて、入っていいの?と言った。

「待ってね、タオル取ってくる」

 洗面所へ駆けて行きながら、サトはわくわくしていた。小学校に上がったものの、サトにはあまり友だち付き合いが面白くなかった。みんなでわいわいという雰囲気に付いていけずに、何だかいつも、黙って眺めていることになってしまう。

 けれど、むっちゃんは自分だけの友だちになると思った。学校の、引っ張ったり大きな声を出したりするような友だちじゃなくて、本当のお友だちになってくれると思った。

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