桜の彼

三条 かおり

第1話

 ここ数日でぐっと柔らかくなった空気は、膨らんだつぼみを優しくほどいた。その瞬間、彼はそこにいるのだ。古い空き家に挟まれた空き地。その一角に忘れ去られた、一本の桜の樹。それが彼。現れた彼はいつも、洗いざらしの白シャツと黒のスーツパンツを履いていた。夏の葬式に来る親戚のおじさんスタイルだ。ただ彼の場合はかなり着崩しているから、親戚中から眉をひそめられるに違いない。

 樹に寄りかかってぼんやりと煙草をふかしている彼の姿をしばらく眺めた。待ちわびた春だった。癖のない柔らかい黒髪、鋭い輪郭、煙草を持つ手。初めて会った20年前と何も変わらない姿で、そこに立っている。


 あの日、夜中に叩き起こされ、訳が分からぬまま車に乗ったとき、窓越しに見えた男は幼い私が見た夢では無かった。再婚した幸せな母の家庭から逃れた私は、未練がましくも失った過去を求めてかつての家に向かったのだ。差し押さえられた家は跡形もなかったが、桜の樹だけは変わらずそこにあった。

そして、同時に私を釘付けにしたのが、彼だった。忘れかけていた記憶が蘇った。

「待ってた」

 私を見てひとこと、彼はそう言った。私は、吸い寄せられるように彼に近づいた。その瞬間、強い風が吹いた。そうして目を開けたときにはすでに、彼はいなかった。見上げると、すっかり桜は散り、緑の葉だけが揺れていた。彼は、桜の咲いている間だけ、私に会いにきた。


 そして今、何度目かの春が巡ってきた。彼が、ほんの数メートル先にいる。それが紛れもない事実であることがこの上ない喜びとなって心を弾ませる。しかし瞬間、自らに冷や水を浴びせずにはいられない。始まりは終わりへの合図。桜が散れば彼もまた姿を消してしまう。二人で過ごす春は、私から、一人で生きていく強さを奪う。失うくらいなら、いっそ初めから手にしたくはなかった。

「やめよう。私の悪い癖」

 私は小さく頭を振って、足を踏み出した。彼は私には気づかない様子で、空を見ている。隣に立ち、同じように樹に寄りかかっても、微動だにしない。胸元のポケットには、煙草の銘柄が透けて見える。よく見ると、毎年同じ、どこの国のものかもわからない怪しい代物だ。

 一歩近づき、肩が触れる。足下の土を踏む音がうるさい。見上げてみても、彼は一瞥をくれただけで煙を吐き出した。気だるそうな、興味の無さそうな、世界が見えているのか見えていないのか分からない目。

 私は構わず、襟がよれよれになっているシャツに顔を埋めて大きく息を吸い込んだ。彼は微かに桜の匂いがした。元々、桜の香りは好きではなかった。大抵の花と違って甘くない、期待はずれの匂いだと。でも、彼の独特な野性味のある匂いに感じる桜は好きだ。更に強くしがみつくと、頭上でため息が聞こえる。

 ん、と言って、彼は胸ポケットの怪しい箱から煙草を一本差し出した。煙草を吸いたい訳じゃないんだけど、と思いつつ、ぎこちなく咥えると、彼は煙草を咥えたまま、その火を私の煙草に近づけた。二本の煙草の先が触れあい、彼の火が私の煙草に移る。ちらりと目を上げると、彼はじっと私を見ていた。目の端に映る赤が、いっそう燃え上がった気がした。

 その瞬間、私は思い切り背伸びをして彼にキスをした。彼の背中が樹の幹を擦る音が大きく響く。薄く目を開けると、やはり無表情は変わらない。それでも、つま先立ちの私の背中を腕で支えながらキスにこたえてくれる。

 唇が離れると、危ねえな、と眉間に皺を寄せながら、咄嗟に口から離していたらしい煙草を咥える。

「もったいない」

 私が落とした煙草を、革靴で踏み消してまた、煙を吐き出した。私はそこで彼の唇に指を当てた。

「なんだよ」

 煙草を持つ手は、どうしてこんなにも美しく見えるのだろう。行き場を失った煙草を挟んだ指は、それで1つの彫刻作品のようだった。

「分かってるくせに」

 堪えたつもりだったのに、語尾が震えた。

 彼はしばらく黙って私を見た。そして、ぴくりと眉を動かすと煙草を乱暴に樹に押し付け、私を引き寄せた。

「ごめん、会いたかった」

 耳元をくすぐる低い声に、懐かしさと愛しさで息が止まりそうだった。私がどんな思いで春を待ちわびていたか、彼自身もどんなにかこの時を求めていたか、抱き締める強さがそれを伝えていた。


 家に帰ると、彼がいる。それは、桜の季節だけの、短い、二人の生活だった。

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