幽霊部員の俺は、ラブコメの駄女神に愛されている
竹原漢字/ファンタジア文庫
短編
高校。
放課後。
『幽霊校舎』の奥の奥。
目の前の扉の、いかにも怪しい部活名。
『幽霊部』。
――怪しいと、俺が思うのもどうだろう。
と夕真は首を捻った。自分で入った部活なのに。
つまり、幽霊部員なのである――偽物の。
本物は……。
扉を開ける。
「あ、おかえりなさーい」
と間延びした声が、夕真を出迎えた。
頭の上から。
おかえりなさいはおかしいんじゃないですかと思いつつ、
「……ただいま?」
半疑問形で答えた。
見上げる。
間延びした声に相応しいのんびりとした笑みが――宙に浮かんでいた。
もちろん笑みだけでなく、顔も身体も存在している。
いや。
幽霊なのだから、存在していないと言うべきなのか。
彼女こそが、本物の、幽霊部員だ。
「幽霊じゃなくて、め、が、み、で、す」
と、朝倉夜桜こと幽霊こと自称女神は幾度目かになる主張をしてきた。
膨らんだ頬が説得力を全力で削いでいるが、指摘すればさらに頬が膨らむことになるので黙っておく。
手近な机に鞄を置きながら、夕真は上を見た。
見た目は――宙に浮いていることを除けば――この学校の制服を着ていることもあり、どこにでもいる高校生のようだ。
いや、その容姿を含めて考えると、どこにでもはいないと言うべきかもしれない。
艶やかな黒く長い髪。
桜色の大きな瞳。愛らしい形の唇。
すらりと長い脚と、制服を押し上げる豊かな胸元。
彼女とすれ違えば十人が十二回は振り返ることだろう(二度見含む)。
ただしそれももちろん、彼女が生きていればの話だ。
幽霊――本人曰く『女神』――である夜桜の姿は、基本的には人には見えない。「気合いを入れれば見せられます」とのことだけど。
ついでに言えば、宙に浮いているこの状態――これが彼女にとっての『普通』である。床に立ったり座ったりもできるが、「逆立ちし続けているような気分になる」ということらしい。
……それは理解しているんだけど、と夕真は思う。
視線を横にそらした。
「あの、夜桜さん」
「はい、何でしょう、夕真君? ……その前に。人と話をするときは、ちゃんと相手の方を見ましょう」
「いやでも」
「『でも』じゃありません」
生真面目な性格であることは知っている。主張を曲げない頑固なところがあることも。……年上ぶりたいという、子供みたいな一面があることも。
仕方なく――あくまで仕方なくだ――夕真はまた夜桜の方を見た。
そんな夕真の態度に、満足げに夜桜が頷く。
「そういう素直なところは、夕真君のいいところですね」
「……ありがとうございます」
「で、話を遮ってすみません。何でしたか?」
「あの……降りてきてくれませんか?」
「?」
夜桜が大きな目を瞬かせた。
理不尽な要求をされて、気分を害するかとも思ったのだが。
「怒らないんですか?」
「浮いている方が楽だという話は前にしましたし、その上で夕真君がそう言ってくるのなら、何か理由があるんだろうなというのは分かりますから」
そう言って、にっこりと笑う。
「で、何でですか?」
「……その体勢、パンツが丸見えなんです」
「…………」
笑顔のまま夜桜が固まった。たっぷりと数秒は。
それから、「~~~~っ」とみるみる顔を赤くして、急いで制服のスカートを押さえた。
「そ、そういうときは目をそらしてくださいよ!」
「そらそうとしました」
「もっと早く言ってくれればいいのに!」
「言おうとしました」
さらに言い募ろうとしてきたが、
「……そうでしたね。ごめんなさい」
と素直に非を認めて謝ってくる。
「いえ、別にそれは全然構いませんが……」
「ま、まああれですね」
と、夜桜。
「や、役得でしたね。このラ、ラッキーボーイ!」
「…………」
照れ隠しなんだろうが、そういう冗談はもっとすぱっと言ってほしい……。そんな真っ赤な顔で言われると、こっちまで恥ずかしくなってくる。
女神というのを信じても、女神じゃなくて駄女神って感じだ。
夕真の思いが伝わったように、夜桜がさらに頬を赤くした。
うー……と半分泣きそうな顔で、片手でスカートの裾を押さえたまま、もう片方の手をこちらへ伸ばしてきた。
夜桜の意図を汲み取り、夕真も手を伸ばす。
二人の指先が触れた瞬間。
ふ――と急に重力が発生したように、夜桜が落下してきた。羽が生えているような軽やかな仕草で、床に降り立つ。
夕真の手に触れたまま、夜桜がにっこりと笑った。
「ありがとうございます」
どういたしまして、と夕真は返した。
子供のときから、幽霊が見える体質だった。見えるだけでなく触れたりできることも踏まえると、霊感体質とでもいうのだろうか。
隔世遺伝であるらしい。遠い先祖に霊媒師がいたという話だが、はっきりとしたことはよく分からない。
確かなのは――夕真には幽霊が見えて他の子供たちには見えなかったということと、宙に浮かぶ『何か』を見つめる同級生を彼らが気味悪く思ったという事実だけだ。
成長するにつれ以前ほどに見えることはなくなったが、友人と呼べる相手はいまだいない。
そのこと自体は別に構わなかったのだが、困るのは長時間休憩のときだ。昼休みは長すぎる、ましてや
一年生の間は読書や寝た振りで乗り切ったのだが、二年になり、さすがに少し飽きてきた。
そこで、意味もなく校内を徘徊するという手段に出たのだが。
『幽霊部』の部室を見つけたのは、そのときだ。
戦前から建っていると噂の旧校舎の中。
廊下から見て明らかに使われていなさそうで(『幽霊部』の表示には気づかなかった)時間潰しに引きこもるのにちょうどよさそうだと扉を開けると、残念ながら先客がいた。
椅子の上で、何やらじたばたとしている女子。
制服のスカートが乱れて、白い太腿が丸見えだった。コントラストを描く黒い髪は長く、艶やかな光を放っている。
こんなところにいるなんてこの子も友達できない口かと思ったものの、それを共通点にコミュニケートを図れるスキルがあるべくもなく、「すみません間違えました」と扉を閉めようとしたのだが。
驚き顔でこちらを向いたその女子が、不思議なことを言ってきた。
「君、私が見えるんですか!?」
それが、夜桜との出会いだ。
ちなみに、椅子の上でじたばたしていたのは、優雅に座るのに憧れて特訓をしていたらしい。逆立ちをしている気分になりながら。
『幽霊部』の部室の中、夕真と夜桜は二人並んで椅子に座っていた。夕真の左肩が、夜桜の右肩に触れている。
幽霊――女神――であるはずなのに、制服越しに柔らかさと温かさが確かに感じられ、夕真は鼓動の高鳴りが相手にまで伝わるのではと心配になった。
「夕真君」
「は――い」
唐突に呼ばれて声が裏返ったが、夜桜は気にしなかったようだ。横を見ると、日だまりの猫のように目を細めている彼女の姿があった。
「ありがとうございます。こうやって、椅子に座ってほんわりした気分になれるのも夕真君のお陰です」
「……どういたしまして」
『ほんわり』という擬態語は言い間違いなのだろうが、夜桜の表情がその意味を伝えていた。
それはよかったです、と夕真は笑う。
彼女にこんな表情をさせられるのなら、霊感体質も悪くない。
増幅器。アンプリファイア。
霊感体質がそういった効果をもたらすらしい。
夕真の身体に触れている間だけ、夜桜の霊力――女神力?――を増すことができるのだ。
それによって、床に降りる、椅子に座るという行為がいとも簡単にできるようになるのだそうだ(他にも、人前に姿を現すことなども)。
だから、それが判明してからは、よくこうやって二人でくっついて過ごしていた。
――ただ。
この時間が心地よいため一旦座り込んでしまったが、残念ながら、いつまでも夜桜に『ほんわり』とした顔をさせているわけにもいかない。
今日は別の目的があるのだ。
「夜桜さん」
と今度は逆に、夕真が夜桜の名を呼んだ。
「なーんですか?」
「――『悪魔』に憑りつかれた生徒を見つけました」
途端、夜桜の表情が引き締まった。
「詳しく話してください」
悪魔。
悪霊と呼ぶ方が正しいのかもしれない。
が、「女神である私と対峙しているのだから悪魔です」と夜桜が怒るから、悪魔と呼んでいる。
今、夕真は、その悪魔を夜桜と協力して封印する日々を送っていた。
理由は簡単。
悪魔の封印を解いたのが、夕真だからだ。
「旧校舎が旧校舎となる前から物置として使われていた『幽霊部』の部室。実際、部屋の半分はがらくたで埋まっている。
そこで少年は女神と出会い。
そして、がらくたの中から怪しげな『箱』を見つけた。
女神が制止しようとするも。
だがしかし。
少年がその『箱』を開ける方が早かった。
『箱』から解き放たれる悪魔たち。
そう――それこそが、悪魔たちが封ぜられし『封印の箱』だったのである。
自分のしでかしてしまったことに呆然となる少年。
だが!
しかし!
途方に暮れることはない。
君の隣には彼女がいる!
弱きを助け強きをくじく、人類最後の希望にして愛と正義の女神!
朝倉夜桜!
その人が!
君の隣にいるのである!
いるのである――である――であるー――」
「……何言ってるんですか、さっきから」
廊下の天井すれすれで――普通の人には見えない状態だ――悦に入った表情で何やら呟いている夜桜を夕真は見上げる。
いえ別に、と下手な口笛を吹いてごまかそうとする夜桜にしばらく半眼を向けてみたが、目的地が近づいてきたので話を切り上げた。
一年生の教室。
覗き込もうとすると、ちょうど女子が出てくるところだった。
廊下を曲がってすぐのところに戸があったせいで、危うくぶつかりかける。
「あ、ごめん」
「ううん、こっちこそ――」
謝ってきた一年生女子が、驚いた表情になる。
『幽霊先輩』と口の中で言ったのが、唇の動きで分かった。
一年生の間にも広まっているのか、と夕真は思う。
ごめんね、ともう一度謝ると、いえこちらこそ……ともごもご言って、一年生女子は何故か胸の前で腕を交差させた。視線をそらし、そのまま横を通りすぎていく。
何となく振り返って、駆け足で遠ざかるその背中を目で追ってから……何となく上を見た。
宙を漂う夜桜と目が合う。
「…………」
何か言おうとするかのように口を開きかけてから、結局何も言わずに夜桜は微笑んだ。
そんな夜桜の気遣いに、夕真も小さく笑みを返す。
出てくる人がいないか注意を払いつつ、改めて教室の中を覗き込む。
女子生徒が、残って課題らしきものに取り組んでいた。
背が高く、スタイルが良い。いわゆるアニメ体形というのか、腰の細さの割には異常なほどに胸が大きい。――そして、すこぶる体調が悪そうだ。
他の生徒はいない――幸運にも。
この女子生徒が、目的の人物だ。『気配』を感じる。あやふやな言い方になるが、そうとしか表現できないもの。
夕真の『体質』が、彼女が悪魔に憑りつかれていると告げている。
あの子ですと夕真は示す。
「……なるほど」
と夜桜が頷いた。
「間違いないです。あの子は、悪魔に憑りつかれていますね」
悪魔は実体を持たないため、単独では基本的には害のない存在である。
そのため、彼らはまず人に憑りつくのだ。
人の弱みにつけ込み、つけ入り、つきまとう。
そうやって憑りついた悪魔が真っ先に行うのは、『現実と認識の改変』である。
自らが憑りついたことを周囲に悟らせないように、それを隠蔽するのだ。
――が。
夕真の霊感体質は、その隠蔽を見破ることができる。自分でも、今回の件があるまで、そんな能力が備わっているとは知らなかったのだけれど。
「私も、夕真君みたいにもっと離れていても感知できればいいんですけれど。何でか、こういうの苦手なんですよね」
だからとても助かります、と言ってから、夜桜は睨むような表情を見せた。
「それにしても、まさか『七つの大罪』の一つだとは……」
「七つの大罪? というと、あの有名な?」
「はい。あの子の体形を見てください」
……異常に大きな胸?
「『色欲』って奴ですか?」
「いえ」
違います、と夜桜は首を横に振った。
「あれは、七つの大罪が一つ――『巨乳』ですね」
「…………」
俺の知ってるのと違う……。
「いやほら、現代社会において、『色欲』とか『傲慢』とか普通使わないでしょう。意味分かります?」
「いえ確かに使いませんが……意味くらいは分かりますよ」
「ほんとに? 『傲慢』って漢字で書けます?」
「書けますよ」
「へー、思ってたより賢いじゃないですか」
「傲慢ですねぇ」
「……もちろん、冗談で言ってるんですからね。本心でそう思ってるわけじゃないですよ?」
「分かってますから。そんな不安そうな顔しないでください」
ほっとした表情を見せてから、夜桜は続けた。
「まあ、そんなわけで悪魔は、人の弱みにつけ込むため、色々と進化し続けているわけです。封印されている間においても」
「その進化の結果が……『巨乳』だと」
「そうです」
自信満々に言い切られれば、なるほど、と頷く以外に何ができようか。
「ちなみに他の大罪は?」
「例えば、『傲慢』は『マウンティング』ですね。『嫉妬』も『マウンティング』です。で、『憤怒』も『マウンティング』です」
「マウンティングすげえなあ」
ごほん、と咳払いをして、夜桜が話を本筋に戻した。
「このまま悪魔に憑りつかれたままでいると、あの子は衰弱して死んでしまいます」
夜桜の言う通り、現時点でもうかなり体調が悪そうだ。頬がこけ、目の下の隈もひどい。普通の体調不良なら、親なり先生なりがとっくに気づいているのだろうけど。
「さっさと封印してしまいましょう。そのためには――」
「まず、あの子が今の状況について気づいているか確認する、ですね」
言葉の後ろを引き取った夕真に、夜桜がにっこりと笑いかけてくる。
「そうです。さすが夕真君」
ありがとうございます、と答えつつ夕真は教室に一歩踏み入った。夜桜も後ろからついてくる。女子生徒には見えていない状態だが。
クラスメイトが入ってきたとしか思わなかったのだろう、女子生徒は顔を上げずに課題に取り組み続けている。
ごめんね、と夕真が声をかけると、ようやくこちらを見た。
と。驚いた表情になる。
何に驚いたのだろうと一瞬思ったが、二年生――夕真のことだ――がいたからだろう。それにしては驚きすぎのようにも見えたが。
頑張ってるところごめんね、ともう一度謝ってから、夕真は名乗った。
「俺は昼馬夕真です」
「知ってるわ。『幽霊先輩』でしょ」
よい噂とともに語られるあだ名ではない。それを当人に向かってずけずけと言える彼女に、思わず苦笑が浮かんだ。が。
「大きなおっぱいが好きなことで有名な」
そんなことを言われ、苦笑いをしている場合じゃなくなる。
「……ちょっと待って。そんな噂になってるの?」
「ええ」
「いやいや何その話」
何がどう尾ひれがついたらそんな話になるのか……。言われてみれば、さっきぶつかりかけた女子も、胸を隠すようにしていたような……。
「いやまあいい。そんな話をしに来たんじゃないんです」
と、夕真は話を戻す。
「それで、君の名前は?」
女子生徒が眉をひそめた。何の接点もない先輩に名を訊かれたからだろう。が、名乗らないといけない理由を問い質すのも変だと思ったのか、
「
とつっけんどんな調子ながらも答えてくれた。で? と続ける。
「何の用? 告白?」
違うけど、と答えたら、
「残念」
と言われたので思わず目を見張ってしまった。そんな夕真の反応を馬鹿にしたように、女子生徒が鼻で笑う。
「名前も知らない女子に告白するような男なら、ぎったんぎったんに叩きのめしてやろうと思ったのに」
客観的に考えればとてもひどいことを言われているが、ここまで尖った回答をされると逆にちょっと愉快になってくる。
この子のこの性格は、悪魔に憑りつかれているせいなのだろうか? そう思って、宙に浮かぶ夜桜にちらりと視線を向ける。
質問は正確に汲み取られたようだが、その回答はよく分からなかった。首を横に振ったのは、『違います』か『分かりません』のどちらの意味だろうか。
「で?」
と女子生徒がまた一文字で訊いてくる。
「告白じゃないのなら、おっぱいの大きいあたしに何の用なの?」
「…………」
ん?
「何、変な顔して。おっぱいの大きいあたしは、見ての通りやらないといけない課題があるんだけど」
「…………」
一人称おかしくない?
悪魔って実在してると思う? と訊いてみたら、はあ? そんなのいるわけないでしょ、という答えだった。
もういくつか適当な質問をしてから、謝意を述べ夕真は教室から退去した。
手近な無人の教室へ移動し、宙に浮かぶ夜桜を見上げる。
「どう思います?」
「あの子は、悪魔に憑りつかれていることに気づいてないですね」
「幽霊の勘ですか?」
「幽霊じゃなくて女神です。そして、ちゃんとした根拠があります」
「何ですか?」
「一人称がおかしかったです」
「……一人称は確かにおかしかったですけど、それを根拠と言うのなら、逆に気づいている派になりません?」
違いますね、と夜桜が首を横に振る。
「悪魔は、人の弱みにつけ込み、その人が望んでいる現実をもたらします。だから、悪魔に憑りつかれていることに気づいているのなら、それを隠そうとするものなんです。あんな一人称を使って強調してしまったら、悪魔の存在がばれてしまう要因になるかもしれません」
「でも彼女は、悪魔を封印し直そうとする人間と幽霊が」
「女神です」
「女神がいることを知らないわけでしょう。なら気づかれても問題ないと考えるんじゃないんですか?」
「その可能性はあります。でも、悪魔に敵対する存在がいるかいないかに拘わらず、気づかれないときのリスクと気づかれたときのリスクを比較したら、後者の方が大きいでしょう?」
「……なるほど」
と夕真は頷いた。納得しきったわけではないが、相手は専門家である。夜桜の言葉を信じるべきだろう。それに、あんなおかしな一人称について真面目な議論もしたくない。
「ちなみに、じゃあ、何であの子はあんな一人称使ってるんだと思いますか?」
「無意識の喜びの発露だと思います」
……なるほど、と夕真はもう一度頷いた。
「最終的には」
と、夜桜は続ける。
「彼女自身に悪魔を拒絶させる必要があるわけですが、まずは『現在の状況がおかしい』と思わせることが必要になりますね。違和感を感じさせるわけです」
「具体的な方法としては」
「あの子のおっぱいを揉んで、違和感を感じさせましょう」
「…………」
あまりにあれな表現に、どうでもいいことを指摘してしまう。
「さっきも使ってましたが、『違和感を感じさせる』は重ね言葉だからやめた方がいいですよ」
「あの子のおっぱいを揉んで、感じさせましょう?」
「やめない方がいいですね」
「違和感といえば……」 と、斑目千衣子がいた教室に戻りながら、夕真はふと思う。
「持ち物から気づくとかはないんですか?」
「というと」
「いやほら……下着のサイズが合わなくなるでしょう?」
「ああ、ブラの」
「そうです」
「悪魔には、『現実を改変』する力があるんです。それくらいなら、当然対応しているはずですね」
「なるほど」
「ちゃんと、今のサイズに合うブラを買ったんでしょう」
「そういう対応の仕方……」
「制服も、悪魔が一針一針丁寧に仕上げてサイズ変更したんでしょうね」
「まさかの手縫い」
目的の教室に戻ってきた。幸い、斑目千衣子はまだ帰らず課題を続けている。
ペンを止め、こりをほぐすように肩に手をやった拍子にこちらに気づいた。
「何、また来たの先輩。おっぱいの大きいあたしは、最近なんか妙に肩こりするから、そろそろ帰ってゆっくり休もうかと思ってるんだけど」
そう言って睨んでくる斑目千衣子に、
「えーと」
と言葉を選んでから、夕真は言った。
「悪いんだけど、おっぱい揉ませてくれない?」
「いや、ほら、あれですよ、えーと……言葉選ぼうとしてましたよね、偉い!」
「優しさが逆に突き刺さる」
ドン引きする(本気で人を呼ばれそうになった。先生どころではなく警察を)斑目千衣子に言い訳を取り繕ってから、夕真たちは先ほどまでいた無人の教室まで撤退してきていた。
「夕真君、彼女とかいたことあります?」
「ないですよ」
「――ふーん」
「?」
何か妙なリアクション? と思ったが、それを訊くより夜桜が話を戻す方が早かった。
「まあ分かってはいましたけれど。女子の扱いが下手だと前から思ってましたし」
「あれ? 俺のメンタルに止めを刺そうとしてます?」
「違います違います」
と夜桜。こうしましょう、と指をぴしりと立てる。
「夕真君に、策を授けます」
「策?」
「女子の好感度を上げるための秘策です」
「はあ」
ずばり、と立てた指を振る夜桜。
「褒めればいいんです」
「夜桜さんの髪、すごく綺麗ですね」
そんな簡単なことで……と思って適当に言ったのだが。
「え? そうかな、ほんと?」
と照れたように、振ってた指で毛先をくるくると弄り出した。
「…………」
あなた、女神(自称)の癖に、ちょろすぎません?
そんな策とも言えない策を引っ提げてリベンジに行ったのだが。
結論から言うと、すぐに使うことはなかった。
三度、一年生の教室に入ろうとする。
と。
ちょうど中から人が出てきた。鞄を持った斑目千衣子だ。
さっき言っていたみたいに、課題に疲れたから帰ろうとしたところだったのだろう(怪しげな二年生が何度も来るから、帰ろうとしたのかもしれない)。
出てきただけならよかったのだが――。
「おっと」
と、今度は彼女とぶつかりそうになった。さっきも思ったが、廊下の角と戸の位置関係が悪すぎる。
咄嗟に一歩踏み出して、彼女の身体を回避することに成功した――つもりだったが、斑目千衣子も同じ方向に避けようとして、結局ぶつかった。
「うわっ!」
と正面から激突し、二人して教室の中に倒れ込んだ。
反射的に手をつく。片手は床。もう片方は。
むにゅり。
と搗き立ての餅のような柔らかな感触。
斑目千衣子の胸をしっかりと握りしめていた。
「うわ、ごめん!」
と言って立ち上がろうとし、誤ってさらに手に力を込めてしまう。
「ん……!」
と、先端の敏感な部分を指がこすったのか、妙に鼻にかかった声が身体の下から発せられた。
おそるおそる窺うと、斑目千衣子の顔が真っ赤になっていた。恥じらいの表情――だけであればいいのだが、確実に怒りの方が大きい。
「この変態――」
罵倒の嵐を覚悟する夕真だったが、そのあとの言葉は続けられなかった。
もう一度その表情を窺うと――逆に、血の気が引いたように真っ青な顔をしていた。
「え、何この感覚、おっぱいの大きいあたしの大きなおっぱいが触られたら、こんな感じがするのは当たり前のはずなのに……!」
夕真を突き飛ばすようにして立ち上がり、苦しむように身を悶えさす。
「でも、何、何この気持ち、まるで初めてのような、人からはもちろん自分でも触ったことのないようなこの感じ……ぐ、ぐああああっ」
「いいです、いい感じです! 結果オーライです!」
と、夜桜が拳を握る。
「彼女の中の巨乳と貧乳が、激しく争っているのを感じます!」
「…………」
……彼女の中の巨乳と貧乳って何だ。
「はあ……はあ……はあ……」
と、斑目千衣子が荒い息を吐く。その目は、何かに気づいたように見開かれていた。
「そう、そうだった……おっぱいの大きいあたしは、本当はおっぱいの小さいあたしだったんだ……」
一人称結局おかしくない? と思ったものの、
「そう」
と夕真は同意した。
「君は今、悪魔に憑りつかれてそんなことになっているんだ。そして、このままだと衰弱して死んでしま――」
「は!」
夕真の言葉を遮り、斑目千衣子は短く笑った。
「それがどうした! あたしは、大きいおっぱいのためなら死んでもいい!」
「えぇ……」
「あなたには分からないでしょう! 男子があたしの胸に向ける憐みの眼差し! 『成長期だからまだ大丈夫』という空虚な言葉フロム女子!」
「…………」
「バストアップ写真という単語に、小さな胸を高鳴らせたあの瞬間! 単に胸から上を写しただけの写真と知ったときのあの落胆!」
「確かに、その小さな胸の高鳴りとかは分からな――」
「うるさい、小さな胸とか言うな!」
「えー」
ていうか今思ったんだけど。君、実は結構馬鹿だろ。
「巨乳が好きな男子はみんな死ね! 貧乳が好きだなんていう男子は嘘つきだからみんな死ね! あたしよりおっぱいが大きい女子もみんな死ね!」
人類の九割九分の死を願う千衣子をどう説得したものかと考え、夕真は傍らで宙に浮かぶ夜桜を見た。小声で問う。
「あの状態でも、悪魔を封印することってできますか?」
「できなくはないです――けど危険ですね。あそこまで悪魔を受け入れている状態で、無理に引きはがそうとすると後遺症が残る可能性があります。やはり彼女に完全に悪魔を拒絶させた方がいいですね」
なるほど……と頷く夕真を見下ろして、
「というか」
と夜桜は苦笑した。
「『させた方がいい』と言ってしまうと、何だか他人事のように捉えているみたいですね」
「え? ああ、言われてみれば。まあでも、悪魔の封印が解けたのは俺のせいですから」
そう言う夕真を、夜桜は心地よさそうに見やってきた。
「ありがとうございます。でも、私にも頑張らせてください」
そう言って夜桜が手を差し出してきた。夕真の『力』を借りて、斑目千衣子に姿を見せようというのだろう。
その柔らかな手を取ろうとし、しかし、夕真は思いとどまった。
手の向こうにある、彼女の身体。制服越しにも分かる豊かな二つの膨らみ。
ここで夜桜が姿を現せば、状況はおそらく最悪化しそうな気がする。
「ありがとうございます」
と夕真も言った。
「でも、ここは俺に任せてください。女の子の一人も口説けなくちゃ、男がすたるってもんですよ」
そんな夕真に、夜桜は、くす、とまた笑った。
「では、お任せしました。頑張れ男の子」
「斑目さん」
と夕真は呼びかける。
何よ、と返ってきた声と視線の鋭さは、もはや猛獣のそれだ。本気の殺意がこもっていて、やっぱり夜桜に任せればよかったかな、と一瞬思ってしまう。格好悪すぎて、もちろんそんなこと言えないけれど。
「さっきも言ったけど、君は今悪魔に憑りつかれているんだ。この状態が続けば、君は、衰弱して死んでしまうだろう」
「さっきも言ったけど、今もまた言うわ。あたしは、おっぱいのためなら死んでもいい!」
「でもほら」
と、夕真は反論を試みる。
「死ぬと、色々できなくなっちゃうよ」
「例えば?」
えーと、と夕真は思考を巡らす。視界の端に、夜桜が映った。
「……恋とか?」
「……どうせ男子なんて、みんなおっぱいの大きい子の方がいいんでしょう? なら、あたしが生きていたって、両思いになれることなんてないじゃない」
「みんな好き、っていうのは暴論すぎるよ。そうじゃない男だって、世の中にはいるよ」
「そんな男いないわよ。……いたとしても、あたしが好きになった人がそうでなければ――」
そこで。
しまった、という顔を千衣子はした。
しなければ、抽象的な話をしていると思ったのだけど。
「ああ」
と、夕真は気がついた。
「君が好きな人は、胸が大きな女の子が好きなんだ」
「……あたしが死ぬ前に、あなたはあたしに殺されたいの?」
手の届く範囲にいたらもう凶行に及んでいただろう、それほどに据わった目をしていた。
夕真君、今のはちょっと……という顔を夜桜もしている。
「ごめんごめん!」
と、夕真は慌てて謝罪した。
「思わず言っちゃっただけで、悪気はなかったんです!」
「……悪意のない悪意は、悪意のある悪意よりなお悪い、って言葉知ってる?」
「知らないな。誰の言葉?」
「あたしが考えたんだけど」
知るわけねーだろ、と思ったが口には出さなかった。
「いやでもごめん、普通のことしか言えないけど、それは仕方ないでしょ。自分が好きになった相手が、必ずしも自分のことを好きになってくれるとは限らないってのは、残念だけどよくある話だしさ」
「うん、本当に普通の慰めね」
……自分で『普通の』って言ったんだけど、そう言われると何かへこむ。悪魔を解放してしまったことに対して責任を感じてなければ、多分もう投げ出してた。
「でもほら、おんなじことの繰り返しになるけど、胸が小さい方がいいっていう男も、世の中にはいるって。君が好きになって、君を好きになってくれる人」
ここでふと、先ほど結局使わなかった夜桜の『策』を思い出した。
『褒めればいいんです』。
「君、顔は可愛いし、背が高くてすらっとしてるし、本当の胸のサイズは知らないけど、本来のスタイルでも絶対に好きになってくれる男がいるって」
「あなたみたいに?」
「そう、俺みたいに。……え?」
「違うの? あたしが死ぬのをそんなに必死に止めようとして。てっきりそういうことだと思ったんだけど」
「えーと……」
と夕真は悩む。頷いておくべきだろうか。頷いておいた方が、自分の話に説得力が増す。が。夜桜に、千衣子が好きだと思われることになる。いや、思われたところで別に何かあるわけでもないのだが。
ぐるぐる回った思考の末に、力いっぱい夕真は頷いた。
「ソウ、オレミタイニ!」
「……ふーん。噂と違って、本当は小さいおっぱいの方がいいんだ」
ふーん、ふーん、と繰り返すように千衣子は呟き。
それから、
「分かったわ」
と唐突に言った。
「いやほらそんなこと言わずに――え、今何て?」
「分かったわ、って言ったの」
そう言って、千衣子は笑った。初めて見たその笑顔は、今までのどの表情よりも、魅力的なものだった。
「いい加減もう意地を張るのも疲れてきたから。あなたの相手をするのが疲れてきたって言う方がいいかしら」
それに、と続ける。
「死因が『おっぱい』とか、末代までの恥だからね」
「…………」
死因が『おっぱい』って何だとか、いや死ぬんだから君が末代だよとか思ったけど、水を差したくなかったので黙っておいた。
「あたしは……」
若干の名残惜しさをにじませながら、千衣子は宣言するように言った。
「あたしは、おっぱいを諦める」
おっぱいを諦めるって何だ、とも思ったがやはり水は差さない。
差す暇もなかった。
――斑目千衣子の身体から、黒い靄が噴き出す。
本物の靄ではない。実際には存在しない、でも目には見える、不可思議な物体。
悪魔の肉体。
「な、何これ――」
と、戸惑う千衣子を、靄が取り巻いていく。厚みがどんどん増していき、彼女の上に集まり始めた。不定形ながらも人らしき形を成していく。
そして、顔に当たる部分の下半分が、ぐばりと横に開いた。
『馬鹿な! この娘の貧乳コンプレックスがよもや満たされるとは! だが、我の野望はこれで終わりではない! 次なる貧乳娘を見つけ出し、必ずや――』
「はいはい」
と夜桜がそれを遮った。
「そういうのはいいです」
『ぬ?』
悪魔は、そのとき初めて周囲を見回したようだった。
夜桜の姿を視野に入れ、靄でできた目を見開く。
『……サクラヒメか!』
サクラヒメ? と疑問符を浮かべて夕真が見上げると、夜桜は珍しい表情をしていた。心底嫌そうな顔。
昔のあだ名です、と答えてから、夕真の追及を避けるように、
「それよりも」
と、手を伸ばしてきた。
「クライマックスです。夕真君、『力』を貸してください」
「分かりました」
応じて夕真は、その手を夜桜の柔らかな手に重ねる。
イメージする。
身体の中を循環している流れを、手から、手の先へと流し込むイメージ。
いや、それとも『流し込んでいる』と思っているのは夕真の勘違いで、実際は『力』を吸い取られているのだろうか。
それほどに、『力』が放出されていく感覚がある。へたりこみたくなるような脱力感を覚えながらも、夕真は宙を見た。
そこに浮かぶ、一柱の女神の姿を。
花びら。
桜の花びらが宙を舞っている。
その中心にあるのは、風もない室内で激しく逆巻く長い髪。質感が変わり、夜を吸い込んだかのような真っ黒な色になっている。
おっとりとした桜色の瞳には、今は見るもの全てを焼き尽くしそうな圧倒的な熱がこもっていた。
その暴力的なまでの熱さとともに、まっすぐに悪魔を見据える。
その焼け焦げそうな視線を正面から受けた悪魔は、てっきり最後の悪あがきでも始めるかと思ったが。
『ふ』
と意外にも小さく笑うだけだった。
『サクラヒメが相手では、どうしようもあるまい』
「お褒めに預かり光栄です」
『だが、我がここで敗れたところで、我が野望が潰えるわけではない。おっぱい格差がこの世からなくならない限り、いつか必ず、貧乳娘が第二、第三の我を――』
「だから」
と、夜桜――燃える桜片を周囲にまとった女神が、それを遮った。
「そういうのは、いいです」
サクラヒメが両手を前に投げ出した。手のひらを内に向け、指先を広げる。
見えない大きな球を抱えているような格好。もしくは――両腕で、獲物を食らう大きな
ゆっくりと顎の両端を閉じていく。
ベキリ。
という音が、顎の遥か先の悪魔から発せられた。存在しないであろうはずの骨が、折れ、砕けたような音。
ベキリベキリ。
と、サクラヒメの腕の動きに合わせて、何の抵抗も見せず悪魔の肉体が押し潰されるように縮んでいく。
悲鳴のようなものを発することがないのは。
発することすらできないのか。
サクラヒメ自身が何を考えているのかは、彼女の無表情からは読み取れない。
その動きも止まらない。
腕を、変わらぬ速度で閉じていき――やがてその両の手のひらが静かに重ねられた。
ゆっくりとそれが開かれたとき、悪魔の姿は、もうどこにもなくなっていた。
夜桜に封印されていく――『食われていく』という感じだが――悪魔を見上げながら、
「状況はよく分からないけど」
と、千衣子がぽつりと呟いた。
「……楽しかったのも、間違いのない事実だわ」
俯いたその頬を、一筋の雫が美しく伝っていく。
「……さよなら、あたしのおっぱい」
「…………」
色々言いたくなったが、夕真は黙っておいた。
『幽霊部』の部室には、夕真と普段通りに戻った夜桜、そして斑目千衣子がいた。
さすがに、何の説明もなしに帰ってもらうわけにもいかないだろうということで、状況を改めて伝える。もちろん、黙っておいてもらうのが条件だ。
「……なるほど」
と、千衣子が頷いた。
「自分の身に起きたのでなければ妄想だと笑い飛ばすところだけど……」
奥歯を噛みしめるような表情。
「この、屈辱的なほどにカップの余ったブラからして、信じないわけにはいかないわね」
そう言ってから、こちらに向かって頭を下げてきた。
「ありがとうございます」
顔を上げ、夕真の表情を見て、眉をひそめる。
「何で、驚いた顔をしているの?」
「いや、敬語使えるんだ、って思って」
「それはもちろん使えるわよ。あなたは、あたしを何だと思っているの」
「いやだって、ずっと今みたいなため口だったし」
「あなたは、いきなり人の胸を揉もうとする変態が、何で敬意を払ってもらえると思っているの?」
「……確かに」
その場はそれで納得してしまったが、あとから考えたら出会った瞬間からため口だったような気が……。
「夜桜さんも、ありがとうございます」
と、千衣子は夜桜にも頭を下げた。今は、誰にでも見える状態になっている。
「いえ、いいんです。それよりも、千衣子ちゃんはもっと自分に自信を持っていいと思いますよ。あなたは、とても魅力的な女の子です」
夜桜の言葉に、千衣子は一瞬歯噛みした様子だったものの(夜桜の胸を見て「これが持てる者の余裕か……」とか呟くのが聞こえた気がした)、ありがとう、と笑顔を見せた。
それから、また夕真の方に顔を向けてくる。
「……ところで」
と言ってきた。何故か分からないが、囁くような小さな声だ。
「先輩……おっぱいの小さい女の子が好きなのよね」
「あ、ごめん」
と、夕真は言った。
「あの場では、君を説得するためにああ言ったけど、本当は胸の大きな子の方が好きです」
「…………」
何故だか千衣子が押し黙った。
押し黙ってから、
「……へえ」
と言って笑った。
笑顔のはずなのに、何故かすごく、先ほどの殺意に満ちた表情よりなお怖い。
「つまりあたしは、先輩に騙されたと」
「ごめんなさい。あ、でも、君が魅力的だっていうところはほんとだから。ほんとほんと。両思いになれる相手なんて、すぐに見つかるよ」
「…………」
そこから何故だか、斑目千衣子は複雑怪奇な百面相をした。
その結果、どういう心情に行きついたかは分からないが、
「分かったわ」
と言う。
「先輩があたしのことを思って、あたしを助けてくれたのは紛れもない事実。でも同時に、先輩があたしのことを騙したのも紛れもない事実。だから――」
と、千衣子が拳を固める。罰として、一発殴らせろ、ということだろうか。確かに、彼女に嘘をついたのは事実なのだ。それくらいなら――。
「百発殴らせて」
……思ったより多い!
送っていくよという夕真の言葉を、「明日つけるブラを買って帰らないといけないから」と断って、斑目千衣子は『幽霊部』の部室から出て行った。
夕真と夜桜の二人だけが残される。
千衣子に殴られたところを撫でさする。本当に百発殴られたわけではないが、妙に憎しみがこもっていたので地味に痛い。
「大丈夫ですか?」
と夜桜が心配そうに窺ってくる。
大丈夫です、と返したが、彼女の心配を晴らすことはできなかったようだ。
「そうだ、横になります?」
と提案してきてくれた。ぽんぽんとスカートの上から太腿を叩きながら。
夜桜に『力』を貸して疲れていたこともあり、提案には賛成したのだが、その仕草の意味が分からなくてそのまま並べた椅子の上に寝転がろうとしたら。
「ちーがーいーまーすー」
と少し怒ったような顔で言ってきた。また、スカートの裾を叩く。
えと、つまりそれって?
頭の下の柔らかさがとても心地よい。いい匂いがするのは、気のせいではないだろう。
視界は、困ったことに――もちろん本心ではないが――かなり狭い。
上を見れば、オーバーハングした制服の胸元がすぐそこにあった。
つまり――夜桜に膝枕されている状態だ。
「どうです、椅子に寝転がるより安らげるでしょう」
「ええ、まあ」
本当は鼓動が高鳴りすぎて一ミリも安らげていなかったが、そう答える以外に何ができたというのか。
でしょー、という自慢げな声が胸の上から聞こえてくる。
「夕真君専用膝枕ですよ」
勘違いしてしまいそうな発言だが、夕真が触れているときしか長時間座っていられないからという程度の意味だろう。
「夕真君、今日はありがとうございました」
「いえそんな。お礼を言われるようなことは」
「君は、お礼を言われるようなことをしたんです。だから、素直に受け入れないと駄目です」
「……どういたしまして」
頭の下の太腿と、視線の上の胸が動いたのは、それでいいんですと夜桜が頷いたからだろう。
「――それにしても」
と夜桜の声がまた上から降ってくる。からかうような調子で、直接顔は見えないが何だかにやにやと笑っているような気がする。
「何ですか?」
「夕真君って、本当はあの子が言ってた噂の通り、やっぱりおっぱいの大きい女の子が好きなんですねー」
「…………」
「意外と、むっつりすけべ君だったとは」
「いや、その……」
言い淀んでしまい、もごもごとした言葉しか返せなかった。
そのせいで。
「ん、どうしました?」
そう言って、夜桜が身を乗り出すようにして(そうしないと胸が邪魔で見えないから)こちらの顔を覗き込んできた。
まっすぐに向けられてくる視線に、つい逃げるようにして目をそらしてしまう――そらしてしまった。
真上にある豊満な制服の隆起へと。
つられるように、夜桜の視線も動いた。制服を押し上げる、自らの豊かな胸元へ。
「…………」
「…………」
沈黙が、『幽霊部』の部室を覆う。
数秒か、数十秒か。数分は経っていないと思うけど。
夜桜がまたこちらを見てきた。目が合う。すぐにそらされた。横向いた顔。表情を隠す長い髪。そこから僅かに覗く、赤い頬。
「夕真君の……むっつりすけべ」
ぽつりと呟くようにそう言われ、夕真は固まる。
そういう意味で見たんじゃないと言うべきか、夜桜のだから見たんだといっそ開き直るか。
悩みに悩んで答えを出――す前に。
「……触ってみたいと思ってたり……します?」
さらなる問いを投げかけられて、夕真の思考が停止する。
「…………」
「…………」
沈黙が、『幽霊部』の部室をまた覆った。
数秒か、数十秒か。数分は経っていないと思うけど。
やがて。
「……ぷっ」
と夜桜が噴き出した。
「あはは、やだなぁ、夕真君。冗談ですよ、冗談」
あっけらかんとそう言った夜桜は、こちらを向きながらおかしそうに笑った。
やーい、おませさーんとこちらの頬を突いてくる夜桜を見上げながら、夕真は思い出す。
この人に、年上ぶりたいという子供みたいな一面があることを。
「ほらほらそんなことよりも」
と、夜桜が言った。
「今日は疲れたでしょう。そろそろ帰ってゆっくり休んでください」
「……そうですね」
と、色々言いたいことがあったものの、夕真は夜桜の言葉に素直に従った。
「それじゃあ、夜桜さん、また明日」
夕真が帰り、『幽霊部』の部室で一人になった夜桜は、宙に浮かびながら、恥ずかしさに身を悶えさせていた。
さすがにちょっと、大胆なことを言い過ぎた、と。
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幽霊部員の俺は、ラブコメの駄女神に愛されている 竹原漢字/ファンタジア文庫 @fantasia
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