あるコイの物語

土芥 枝葉

あるコイの物語

 十五年前、蒸し暑い夏の夜のこと。当時小学生だった僕たちは、街の中心部に位置するみどり公園に集合した。

 僕を含めた男は皆Tシャツにショートパンツ、佳奈は水色のワンピースを着てきて、端から見ればこの子供達はこれから花火でもしに行くように見えたことだろう。実際僕は友達と花火をするのだと親に嘘をついて出てきた。

 裕貴は釣り竿を、正一は虫取り網とライトを、佳奈は大きめの青いポリバケツを持参し、僕はポケットに小さな鍵を忍ばせていた。

 そのように、花火を持ってきた者は誰もいなかった。僕たちは小学生らしく、ちょっとした冒険に出かけるところだったのだ。

「康平、鍵は持ってきたんだよな?」

「ああ、あるよ」

 裕貴に訊かれてポケットに手を突っ込み、鍵があることを確認した。誰のもので、何の鍵なのかも分からない。ゴミ捨て場に落ちていたものだから、きっと必要のないものなのだろう。

「でも信じられないわね。鍵で魚が釣れるなんて」

 言葉どおり、佳奈はその話を頭から信じていないようだった。

 僕たちが捕らえようとしている獲物、つまりみどり公園の池に住む主は鍵が好物らしく、それを餌にして釣り糸を垂らせば食いついてくるというのは、裕貴が仕入れてきた極秘情報。誰も本気にしていなかったが、裕貴だけは汚れを知らぬ乙女のように、その与太話を信じて疑わなかった。

「人間の言葉を話す鯉だぜ。鍵を食っても鉄のウンコをしてもおかしくないだろ」

 そんなものがいればな。呆れていたのは僕だけではなかったはずだ。


 *


 その三日前のこと。

 夏休み中の登校日で学校に向かう途中、僕は自宅近くのゴミ捨て場で光るものを見つけた。拾い上げるとそれは何かの鍵で、玄関の鍵よりはずっと小さく、机の引き出しの鍵に似ていた。

 何となく拾ったその鍵を裕貴に見せたのが話の始まりだった。

 丁度良かった、最高のタイミングだ、と裕貴は小躍りした。何でも、彼の「計画」にはなくなっても良い鍵が必要なのだという。


 ホームルームが終わり他の生徒が下校する中、裕貴はいつものメンバー、即ち、秀才でメガネがトレードマークの正一、活発でショートカットの似合う佳奈、それと僕を招集し、「計画」について説明した。

「みどり公園にでかい池があるだろ? あそこに、人間の言葉を喋る鯉がいるらしいんだ」

 誰も笑わなかった。突拍子もない話に呆れて何も言えなかったのだ。僕たちが驚いて声も出ないのだと勘違いしたのか、裕貴は得意げに話を続けた。

「それを捕まえて売れば、すごい金になるだろ! テレビにも出られるぞ」

「どうやって捕まえるんだ? それに、あの池には他にも鯉がたくさんいるけど」

 正一が冷静に、もっともらしい疑問を投げかけた。いつもならそこで裕貴は狼狽するか、ムキになって怒り出すのだが、その日は秘策があるらしく、ニヤニヤしながら話を続けた。

「いいか、これはオレの兄貴から仕入れた秘密の情報だ。誰にも言うんじゃないぞ。……その鯉はな、鍵が大好物らしいんだ。普通の鯉は鍵なんて食わないだろ? ということは、鍵を餌にすれば、喋る鯉が釣れるはずだ」

「カギ?」

 佳奈と正一は口を揃えて聞き直した。鍵とは何のことかを理解できなかったのだろう。当たり前だ。鯉が鍵を食べるなんて、どう考えても結びつかない。

 一方の僕はポケットに手をつっこみ、今朝拾ってきた鍵を弄った。裕貴が言っていた「計画」に思い当たったのだ。

「そう、鍵だ。英語で言うとキーだな」

「裕貴、あんた、その話を全部信じてるの?」

 馬鹿にするような目つきで佳奈が尋ねた。正一も同様で、それはいつものことだった。

「当たり前だろ。火のないところに煙は立たぬ、って国語の授業で習ったからな。絶対にいるって」

「……それで、その鯉を捕まえたとして、誰に売るの? 小学生にたくさんお金を払ってくれる人がいるとは思えないけど」

 佳奈は追撃の手を緩めずに指摘した。このまま裕貴を暴走させれば鯉を捕まえるのに付き合わされる。僕たちは経験則からそれを予感していた。

「そんなことは捕まえてから考えようぜ。みんな、土曜日の夜は空いてるだろ?」

 かくして予感は現実のものとなった。それもまた、いつものことだった。


 *


 そのような経緯を経て、僕たちは蚊に刺されながら夜のみどり公園を歩いていた。それなりに広い公園で、中心に大きな池があり、それを取り囲むように遊歩道が敷かれている。

 そのとき初めて知ったのだが、この公園は夜でもジョギングや犬の散歩をする人とすれ違うことが多いため、僕たちのように後ろめたいことをするためには人目につかない場所を探さなければならなかった。その点については裕貴が珍しく下調べをしていたようで、彼の案内で木立の奥へと向かった。遊歩道から離れ、木の陰に隠れた池のほとりは、大声で騒ぎ立てない限り見つかることはなさそうだった。

「よし、誰もいないな」

 安心したように裕貴が言った。彼がお兄さんから聞いた話では、そこはカップルが「いちゃいちゃする」ための定番スポットらしい。彼の兄は色々と物知りなのだろう。

 僕たちは早速準備に取りかかった。ライトで足元を照らし、釣り針に鍵を括りつけ、池に糸を垂らす。釣り竿は裕貴が持ち、正一は虫取り網を持って待ちかまえた。鯉などすくい上げたらすぐに破れてしまいそうな網だったが、そもそも裕貴以外の誰もが釣れるとは思っていなかったので、その点について指摘されることはなかった。


 僕と佳奈は少し離れた後方から彼らを見守っていた。

「まったく、この前は埋蔵金、今度は喋る鯉。ホント、裕貴はバカなんだから」

 月明かりの下でほとんど表情は見えなかったが、佳奈がそう言って微笑んだらしいのは声色から感じられた。僕はやきもちを焼いた。

 佳奈が裕貴のことを好きなのは薄々感じていた。確かに裕貴は馬鹿だったが、素直で明るく、運動神経も良かった。ただ女には興味がなかったらしく、佳奈の気持ちを知ってか知らずか、僕や正一と同じように、彼女とも友達として接していた。

 佳奈を異性として見ていた僕(おそらく、正一もそうだったと思う)にとってそれは幸いなことでもあり、煮え切らない状態でもあった。

 ただ、僕としては佳奈と一緒に居られるだけで満足していたし、告白して受け入れてもらえるとも思っていなかった。

 そのようにして、僕たちは微妙なバランスを保ちながら、馬鹿げた冒険を何度となく繰り返してきた。佳奈が来なければ裕貴の思いつきに付き合うこともなかったかもしれない。


 わっ、と裕貴が声をあげた。

「引いてる、引いてる。手伝ってくれ」

 確かに、ライトに照らされた釣り竿は大きくしなり、このままでは裕貴が池に引きずり込まれてしまいそうだった。僕たちは慌てて裕貴の体と釣り竿を掴んだ。小学生の力などたかがしれていたが、四人で協力すれば何とかなりそうだった。

「嘘でしょ」

 誰もが混乱しながら竿を引くと、やがてバシャバシャと暴れる魚が縁に近づいてきた。咄嗟に正一が網ですくい上げ、佳奈がバケツに収めた。完璧な連携だった。

 暗くてよく見えなかったが、佳奈も正一も僕と同じように、狐につままれたような顔をしていたに違いない。裕貴は鬼の首でも取ったかのような面持ちだったのだろうか。

 ライトで照らしながら釣り針を取り除いた。鍵が無いところを見ると、本当に食べてしまったのだろうか。体長五十センチはありそうで、ポリバケツの中で窮屈に身を折り曲げている。立派な黒い鯉だった。

「見ろ、本当にいただろ」

 裕貴は得意げに言った。これまでの冒険でまったく成果を上げることができなかったこともあるのだろう。いつになく興奮している様子だった。

「でも、人間の言葉を喋らないんじゃ、ただの鯉よね?」

 佳奈が冷静に指摘した。「それもそうだな」と裕貴は鯉に話しかける。

「もしもし。名前は? 何歳?」

 迷子にそうするように、裕貴はあれこれ尋ねた。しかし、鯉は口をぱくぱくさせるだけで何も語らなかった。当たり前だ。

 それでも裕貴は諦めきれないようで、雪山で眠りそうな仲間を起こそうとする登山家のように、必死に話しかけ続けた。その言葉は徐々に力を失い、やがて落胆の色を滲ませた。さすがに諦めたみたいだった。

「人がたくさんいると喋らないのかもしれないな。とりあえず、連れて帰って様子をみるか」

 そういう問題ではないと思ったが、面倒なので何も言わなかった。佳奈はあくびをして、正一も撤収の準備を始めていた。

 裕貴がバケツを持ち上げようとしたその時、出し抜けに、遊歩道の方から男の声がした。

「誰かそこにいるのか」

 懐中電灯の光がこちらに向けられた。まだ見つかってはいないようだ。

「やばい、逃げよう。こっちだ」

 裕貴は地面に置いた釣り竿を拾い上げると、鯉を置いて真っ先に逃げ出した。ライトを消した正一もそれに続く。

 僕も彼らに続いて走り出そうとしたが、あっ、という佳奈の声に気づいて振り返った。どうやらサンダルが脱げてしまったようだった。

 がさがさと茂みをかき分け、懐中電灯の光が近づいてきた。僕は佳奈の手を引き、太い木の陰に身を隠し、息を潜めた。今動くと見つかる気がした。

 足音が近づいてきて、佳奈がぴたりと体をくっつけてきたので、その背中に腕を回した。彼女の体は熱でもあるのかと思うほど温かく、想像していたよりもずっと華奢で、僕の心拍数はどんどん上がっていった。

 やがて人影が現れ、辺りを懐中電灯で照らし、しばらくすると遊歩道へ戻っていった。はっきりとは見えなかったが警察官だったのだろう。バケツも佳奈のサンダルも見つからなかったのは幸いだった。

 人の気配が消え、僕たちは体を離した。本当はもう少し、できればずっと佳奈を抱きしめていたかったが、僕たちは小学生だったので適当なところで家に帰らなくてはならなかった。加えて、僕は体の一部が変形しており、佳奈にそれを気づかれたくなかったのだ。

「助かったみたい。ありがとう」

 僕の下腹部に起こった変化には触れず、佳奈は礼を述べた。もっとも、彼女は目聡いので異変を察知していたのかもしれないが。

 「さて」と僕はわざとらしく口にした。こんなこともあろうかとペンライトを持ってきたのは正解だった。

 辺りの地面を照らし、佳奈の脱げたサンダルを見つけた。彼女はもう一度「ありがとう」と言ってそれを履き、「鯉は?」と尋ねた。

 先程いた辺りをペンライトで探すと、バケツはそのまま残されていた。僕たちは近くに寄って中を覗き込んだ。

「どうするの、この鯉」

 困ったように佳奈が問いかけた。さて、どうしたものか。家に持って帰っても何を言われるかわからないし、重くて運ぶことすら難しそうだった。

 ふと、鯉と目があったような気がした。

「助けてください」

 僕は驚いて素っ頓狂な声をあげた。どうしたのかと佳奈が尋ねた。

「今、何か聞こえなかった?」

 僕は動揺しながら尋ねた。佳奈の声ではなかった。大人の女性の声で、助けてください、と聞こえたような気がしたのだ。耳を通して聞く声とは少し違って、頭の中に直接語りかけてくるような声だった。

 しかし、佳奈には何も聞こえなかったようで、「なんにも」と答えが返ってきた。

「お願いです、どうか見逃してください」

 今度ははっきりと、哀願の情が込められた声で聞こえた。まさかこの鯉が喋ったのだろうか。僕の様子がおかしかったのか、佳奈が訝しげに聞く。

「ねえ、どうしたの? まさか、鯉が喋ったなんて言わないでよ」

 やはり佳奈には聞こえていないようだった。

 なんということだろう、裕貴の話は本当だったのだ。

 ただ、彼女(声からして、きっと雌だ)は命乞いをしているし、僕としてもこれ以上どうにかするのは気が引けた。裕貴に知らせれば、この鯉にとっては気の毒なことになるだろう。

 湿った不快な空気と佳奈の視線が、僕に決断を迫っているように感じられた。少し迷ってから、僕は平然を装って、「なんでもないよ」と立ち上がった。

「かわいそうだから、逃がしてやろう」

「そうね、それがいいと思う」

 佳奈も賛成してバケツを運ぶのを手伝ってくれた。重すぎて、僕一人の力ではとても持ち上がりそうになかった。

 池に鯉を戻すと、すぐにその姿は見えなくなった。ありがとう、と聞こえた気がしたが、僕はもう驚かなかった。

 それを見送るように、しばらくは二人で池の縁に立ちつくしていた。佳奈の手を握りたかったのに何もできずにいると、「そろそろ帰ろうか」と彼女が提案した。その声に惜別の情は感じ取れず、僕は素直に従うしかなかった。


 次に顔を合わせたとき、僕たちが鯉を逃がしたことを聞いた裕貴は、もったいない、もっと時間をかけて調べたかった、と残念がった。

 佳奈が自分を置いて逃げた裕貴達を皮肉ると、彼らは笑ってごまかすのだった。もちろん、鯉が喋ったことは話さなかった。


 鯉を巡る一件は、それ以来語られることはなかった。喋る鯉と、佳奈への想い。僕はそれらをずっと胸の奥にしまいこんだまま、年月が過ぎるのを見送っていった。


 *


 高校に上がる頃にはみんな離ればなれになってしまった。彼らと過ごした記憶は徐々に頭の片隅へと押しやられていき、やがて朧げになった。


 僕は東京の私立大学に進学して、卒業後は都内の企業に就職した。六畳ワンルームのアパートで一人暮らしを満喫しながら、うだつの上がらないサラリーマンとして暮らしている。

 社会に出てからもう三年以上経ったが、僕は頭角を現すわけでもなく、上司に目をつけられるわけでもなく、取るに足らない一社員としてそれなりに働いていた。他人と違う点といえば、喋る鯉に遭遇したことがあるくらいのものだった。

 急に喋る鯉のことを思い出したのは、何気なくつけていたテレビで人面魚を取り上げていたせいだ。あの鯉はまだ生きているのだろうか。


 そろそろ寝ようかと缶ビールを飲み干した矢先、唐突にインターホンが鳴った。もうすぐ深夜零時になろうとしている。

 こんな時間に誰だろう。そう思いつつも、応じるつもりはまったくなかった。僕の部屋を訪ねてくるのはNHK、新聞屋、宗教の勧誘のいずれかであり、そのどれにも対応する必要はなかった。それにしても、えらく非常識な時間に訪ねてきたものだ。

 反応がなかったせいか、あまり時間を空けずにもう一度鳴った。僕はそれも無視した。経験上、二度鳴らして出てこなければ彼らは引き下がる。

 だが今夜の客は違った。一定の間隔でインターホンを鳴らし続け、まったく諦める気配がない。様子がおかしい。玄関まで赴き、ドアのレンズ越しに外の様子を窺う。

 ドアの前に黒いスーツ姿の老人が立っていた。年齢の割に豊かな白髪を七三に分け、鼻の下に立派な白髭を蓄えている。目元は穏やか、顔も体もほっそりしていて、アニメか何かに出てくる執事のような佇まいだ。もちろん、こんな人は知らない。

「溝口康平さん、お話がございます。少しだけお時間をください」

 ドア越しにこちらの気配を感じ取ったのか、執事が話しかけてきた。表札も出していないのに、何故フルネームを知っているのだろう。僕は困惑していたが、このまま無視しても帰ってくれそうにない。根負けして、チェーンをかけたままドアを開けた。相手はドアの隙間から顔を覗かせ、一礼した。

「夜分遅くに申し訳ございません。突然で恐縮ですが、あなたとぜひお話をしたいと申す者が、そこに停めた車の中で待っております。すぐに済みますので、どうかご一緒いただけませんでしょうか?」

 執事は穏やかな声で、非常に滑らかに喋った。所作もことごとく洗練されていて、本当にどこかの執事なのかもしれない。悪い人には見えなかったが、それでも僕は即答できなかった。知らない人についていってはいけないのは大人も子供も変わらない。ためらう僕に、執事は微笑んで言葉を続ける。

「実は、小竹佳奈さんにもお越しいただいております。溝口さんもよくご存知かと思いますが……」

 佳奈だって?

 その名前を聞いた瞬間、恐らく僕は表情を変化させてしまった。相手はそれを見逃さなかったようだ。

「そのままのお召し物で結構です。さあ、参りましょう」

 仕方ない、と観念して外に出た。僕はよれよれのTシャツにハーフパンツのジャージというあからさまな部屋着で、サンダルを履き、しかも多少酔っていた。見知らぬ人、あるいはかつての想い人と話をしにいくには、あらゆる意味で相応しくない格好だと思われた。

 執事は僕の前に立ち、早すぎず遅すぎない完璧な速度で歩いた。彼は丁寧な人だが、着いた先で銃を突きつけられてもおかしくはない。夜中の十二時に使いを寄越し、話したいから呼び出すなど、決して常識的な行動とは言えないのだ。

 そんな風に怪しみながらも、佳奈に会いたいという気持ちを抑えることはできなかった。あの日の胸の高鳴りが蘇るように、脈拍が早くなるのが感じられた。単純に酒が入っていたせいかもしれない。


 アパートのすぐ近くにあるコインパーキングに案内されると、そこには漆黒のバンが一台だけ停められていた。てっきりリムジンか何かが待っていると思っていたので拍子抜けしたが、僕は気を取り直して、執事の促すままその車に乗り込んだ。

 車内には黒いスーツを着たスキンヘッドの老人と、細身でショートカットの女性が向かい合うように座っていた。グレーのスカートスーツに身を包み、昔に比べれば随分大人びていたが、その女性は一目見て佳奈だと分かった。

 彼女は僕を見て、「康平」と名前を呼んでくれた。怯えているという程ではなかったが、いくらか緊張しているように見えた。僕と同じように半ば強引に連れてこられたのかもしれない。僕も彼女の名前を呼んで応えた。

 一方、仄暗い車内灯に照らされた老人は、どことなく威厳が感じられ、どこかの組長さんだと言われても信じてしまいそうだった。彼は僕の顔を見て微笑んだ。

「夜遅くに申し訳ありません。どうぞお掛けください」

 老人は見た目よりもずっと柔らかい声で喋った。僕は佳奈の隣、老人の対面に腰掛けた。僕が座ると車のドアが閉じられた。自動のようだ。

「お二人の間には積もる話もあるでしょうが、私たちにはあまり時間がありません。申し訳ありませんが、早速本題に入りましょう。……あなたたちに来ていただいたのは他でもありません、十五年前の事件について確認させてもらいたいことがあるのです」

 十五年前。僕たちは顔を見合わせた。佳奈は目を丸くしていたが、僕は先程思い出していたこともあり、老人の言う「事件」とは喋る鯉を捕まえたことを指しているとすぐにわかった。

「十五年前、あなたたちは小学五年生だった。無邪気で好奇心いっぱいの年頃だ。ある夏の日、あなたたちは公園の池に人の言葉を喋る鯉がいると聞いて、捕まえに行った。それは間違いありませんか?」

 佳奈が硬直し、その顔から血の気が引いていくのがわかった。見知らぬ男に十五年前のいたずらとも呼べない出来事を掘り返され、尋問されているのだ。しかも、相手はそれを「事件」と呼んだ。動揺するのも無理はない。

 対照的に、僕は馬鹿みたいに落ち着いていた。アルコールのせいかもしれない。佳奈が何も言えないのを見て、「間違いありません」とはっきり答えた。不安を抱いたのか、佳奈はこちらを気にするそぶりを見せた。

「結構です。では次の質問ですが、あなたたちはそこで一匹の鯉を捕まえ、その後池に戻した。それも間違いありませんか?」

「はい、間違いありません」

 僕は至って明瞭に答えた。佳奈がおろおろしているのがわかったが、ここまで来て嘘をついてもかえってややこしいことになりそうだと思ったので、正直に答えた。老人は「なるほど」と納得した様子で質問を続けた。

「結構です。では小竹さん、そのとき、何か不可解なことは起こりませんでしたか?」

 急に指名された佳奈は飛び上がるように驚いた。授業中に居眠りし、突然指されて飛び起きた生徒のように。

「不可解なことは……なかったと思います」

「本当ですか? 本当に何もありませんでしたか?」

 重要な部分なのだろう。老人は念を押して確認した。佳奈は難しい顔をして考え込み、「やっぱり何もありませんでした」と自信なさげに答えた。

 確かに、警官が見回りに来たことも、佳奈を抱きしめた僕の体に部分的な変化が起こったことも、不可解とまでは言えない。彼女は鯉が喋ったことを知らないのだ。

「そうですか。では溝口さんはいかがですか? 何か変わったことはありませんでしたか?」

 そこまできて僕は少し戸惑った。包み隠さず言ってしまえば良いとも思えるが、改めて考えれば、自分たちはかなり特殊な状況に置かれているのだ。そして、この老人は恐らく、鯉が喋ったのかを知りたがっている。今のところ紳士的だが、返答次第で僕と佳奈は危険な目に遭うかもしれない。このまま連れ去られても不思議ではないのだ。

 佳奈は怯えた様子でこちらを窺っていた。その眼差しがあの日の鯉と重なる。僕は自分の直感を信じることにした。

「鯉が、喋ったような気がします」

「ほう、鯉が喋りましたか。それで、何と言ったのですか?」

「助けてください、だったと思います」

 老人は「なるほど」と何度も頷いた。一方で佳奈は事態を把握しきれないのか、放心したように僕と老人を交互に見ていた。

「結構です。では、これをご覧ください」

 老人が座る隣の座席に、黒い布をかけられた箱が置いてある。布が取り去られると、それは箱ではなく水槽であることが分かった。中には黒い鯉が一匹。話の流れを考えれば、これがあの喋る鯉なのだろう。

「あなたたちが捕まえたのはこの鯉ですね?」

「ええ、恐らく。あなたがまた捕まえたのですか?」

 僕が聞き返すと、老人はにんまりと笑った。

「いや、この鯉は元々私のものです。ルイーザ、この方々で間違いないな?」

 老人は水槽に向かって話しかけた。どうやらこの鯉はルイーザという名前らしい。

「はい。成長していらっしゃいますが、スキャン結果も一致しているので間違いありません。お二人とも、お久しぶりですね」

 あの日聞いたような、艶っぽい女性の声だった。やはり直接頭の中に響いてくる。

 佳奈は鳩が豆鉄砲を食ったような顔をして水槽の鯉に見入っていた。彼女にもルイーザの声が聞こえているようだ。

「大丈夫」

 佳奈の手を握ると、一瞬びくっとしたものの、我に返ったようだった。そんな僕たちを尻目に、老人はルイーザと会話を続ける。

「ルイーザ、おまえの報告では彼らに命を助けられたということだが、間違いないな?」

「はい。仰るとおりです」

「それはよかった。無理にルイーザを連れ去ろうとすれば、自爆装置が作動して、あなたたちは木っ端微塵になっていたでしょうからね」

 話の筋が見えなかった。ルイーザは一体、あの池で何をしていたというのだろうか。僕たちの混乱を察したのか、老人はこちらを向いて種明かしを始めた。

「まず、我々のことから話しましょう。あなたたちの言葉で言えば、我々は宇宙人ということになります。遠く離れた銀河からやってきたのです。このルイーザは人工知能を持つロボットで、私の片腕として、長年この星で偵察を行ってきました。ある時は魚として、ある時は鳥として。ここまでは大丈夫ですか?」

 すんなりと受け入れられる話でもなかったが、僕たちは呆気にとられたまま頷いた。

「次に、何故我々がこの惑星に来たか、です。ご存知ないかと思いますが、広大な宇宙の中でも、この地球のように素晴らしい環境を有する星は非常に珍しいのです。同程度の惑星は、我々が知っている限り、地球以外には三つしかありません」

「司令、四つです」

 ルイーザが訂正した。もちろん僕たちにとってはどちらでも構わない。

「そうだ、四つだったな。とにかく貴重な星ということです。しかし、かつて我々の祖先もそうであったように、この星は人間の手によって日に日に汚され、破壊されています。このまま汚染が続けば取り返しの付かないことになってしまうのです。美しい惑星が駄目になってしまうのは、宇宙全体にとっても大きな損失となります。それを防ぐために、私たちはやって来ました。かれこれ二十年以上前の話です」

「……陳腐な言い回しですが、地球を征服しに来たわけではないのですか?」

 余裕が出てきたので質問してみた。

「私たちの目的はこの星を奪い取ることではなく、美しいまま保つことにあります。あなたたちにそれができるのであれば、当たり前ですが、それはあなたたちの手で行われるべきです。それが不可能だと我々が判断すれば、結果的に侵略という形を取る可能性はあります。ただ、ルイーザの報告を聞いて、当面その必要はないと感じました。あなたたちのように、自然を慈しみ共存しようとする人間がいるうちは、大丈夫でしょう」

 そう言って老人は微笑み、「なあルイーザ」と語りかけた。

「はい、私もそう思います」

 ルイーザは口をぱくぱくさせて応えた。

「実は、本国にはこの地球を征服し管理すべきだと主張する強硬派もそれなりにいるのです。ここ十数年で状況が改善するどころか悪化さえしていると。近々この件について会議が開かれるのですが、その成り行き次第では強硬派の意見が優勢となってしまいかねません」

 老人の柔らかい物腰とは裏腹に、随分と物騒なことを言われている気がする。

「しかし、間近であなた方を見ている我々はその必要はないと感じているのです。先ほども申し上げましたように、溝口さん、小竹さん、あなたたちのような方がいる限り、地球はまだまだ大丈夫なはずです」

「私が助けていただいたときのこと、そして本日のやりとりも含め、会議で資料として提出させていただくつもりです」

 ルイーザが付け加えた。僕たちの行動が地球の運命を左右してしまったかもしれないと思うと尻がムズムズする。 

「会議に先立って、ルイーザを助けてくださったのがどんな方なのか、実際にお会いしたかったのです。そうして今、私たちの考えは間違っていなかったと確信しました。……突然このようなことを聞かされてご不安かと思いますが、本国が無茶なことをしないよう私が食い止めて見せますから、どうか安心なさってください」

 老人はそのように言って好々爺の如く笑みを浮かべた。ルイーザは彼を司令と呼んでいたし、高い地位にある人なのだろう。どうせ僕たちが足掻いたところで何も変わらないのだから、彼に任せるしかない。とはいえ、少なくとも僕はそれほど心配していなかった。

「我々はそろそろ行かねばなりません。貴重なお時間をありがとうございました」

 老人は話を切り上げようとしたが、僕は慌てて、「あの、すみません。もう一つだけ質問させてください」と申し出た。「どうぞ」と老人は快く応じた。

「ルイーザさんは、なぜ鍵を食べるように?」

 僕は気になっていたことを尋ねた。その答えを知る機会は今しかないのだ。

 僕の質問にはルイーザ自身が答えてくれたが、残念ながら、その回答は随分とロマンのないものであった。

「故障です」


 黒塗りのバンは僕たちを降ろすと、闇に溶け込むように走り去った。彼らは今日のことを口止めしなかった。話したところで誰も信じてはくれないだろう。

「康平」

 佳奈に名前を呼ばれて向き合う。見つめ合ったのは良いが、再会を喜ぶにはいささか状況が混み合っていた。僕たちはお互いぎこちない笑顔を作り、かけるべき言葉を探していた。

「とりあえず、二人とも無事で何より」

 僕はなんとか、それだけ言った。

「うん、良かった」

 佳奈もそれに応えた。

 話したいことは山ほどあったが、それには時間も場所も、僕の服装も適切とは思えなかった。佳奈もこの辺りに住んでいるのだろうか。僕はそれを尋ねた。

「ううん、都内だけど、ずっと遠く。終電終わったっぽいし、タクシーに乗らないと帰れないんだけど、いくらかかるかな……」

 佳奈は時計を確認しながら苦笑いした。

 朝まで一緒に。

 その一言が言いたいのに、すっかり酔いも覚めてしまって、中々言葉にならなかった。

 目の前の佳奈は魅力的な女性に成長していた。心の隅に置き忘れたままの想いが不意にその顔を覗かせ、僕は気後れしてしまった。

 ……今の今まで宇宙人と話をしていたのに、女一人誘うのが何だ。僕は自らを鼓舞した。ほら、佳奈も僕の言葉を待っている。

「佳奈、良かったら、始発までゆっくり話さないか?」

「本当? 明日平日だけど、仕事じゃないの?」

「たった今、それより大切な用事ができたから、いざとなったら休むよ」

「……じゃあ、お言葉に甘えちゃおうかな。私も仕事休んじゃお」

 照れくさそうに言った佳奈の表情には、小学生の頃の面影が残っていた。僕はみっともない格好をしているのが恥ずかしくなって、早口で喋った。

「取り敢えず、着替えて財布取ってくるから。少し待ってて」

 佳奈をアパートの入口に待たせ、大急ぎで着替えた。部屋に誘おうかと思ったが、掃除もしていないし、柄でもない。縁があればいずれはそういうこともあるだろう。焦ることはない。

 支度を終えて表に出ると、佳奈は健気な様子で待っていた。並んで歩き、駅前のファミレスへと向かう。

「私たち、地球を救っちゃったのかな」

 佳奈はさして大それたことでもなさそうに言った。彼女も実感が湧かないのだろう。

「そういうことになるのかな、一応」

 僕もよくわからなかったので、適当に相づちを打っておくことにした。女性の言うことは肯定するに限る。

「でもさっきのおじいさんが退任したり、みんなを説得できなかったりしたら、地球は侵略されちゃうのかなあ。もしそうなったらどうすればいいのかな?」

 その点についても佳奈が心配しているようには感じられなかった。明日雨が降ったらどうしよう、とでも言わんばかりの口ぶりだ。

「ううん、まあそのときは、なるようにしかならないだろうし。でも……」

「……でも?」

「佳奈のことは僕が護ってみせるから。……なんてね」

 半分冗談で、半分本気だった。顔から火が出そうなほど恥ずかしくなったが、顔色まではわからないはずだ。

 佳奈は「ふうん」と興味深そうに応じた。滑ってしまったのだろうか。

「あの康平がそういうこと言うようになったんだね。ちょっと意外」

「ああ、まあ、深い意味はないんだ。冗談だよ、冗談」

「……なあんだ、冗談か。ドキッとして損しちゃった」

 佳奈も冗談っぽく言った。いまいち距離感が掴めない。

 思いがけず、佳奈が僕の左手を握った。僕は驚き、動揺し、でも嬉しくて、その手を握り返した。小さくて柔らかい掌からは、どこか懐かしさが感じられた。

「康平はやっぱり康平だね。変わってなくて安心した」

「そうかな……」

 どぎまぎしながら応えた。

「普段はもじもじしてるのに、いざというときは冷静で、男らしくて。そうかと思えば、女を部屋に連れ込もうともしないし、ここ一番ではぐらかしちゃうし」

「褒められてるのか、けなされてるのか分からないな」

 僕が自嘲気味に返すと、佳奈はおどけたように笑い、それからこう付け加えた。

「康平はそのままでいいと思うよ」

 今夜もあの日のように蒸し暑く、せっかく着替えたシャツも肌に張り付こうとしていた。でも、それはきっと気温のせいだけではなかった。

「ねえ、康平」

 僕たちは目を合わせた。

「いつも助けてくれて、ありがとう」

 街灯に照らされ、屈託なく、どこまでも透き通るような佳奈の笑顔が浮かび上がる。

 あの夏の日、彼女の体に触れ、その熱を感じたときと同じように、僕の鼓動はテンポを速めていった。

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