第二話 「発条王の逃亡」

 喉をからしたアンリシャンテが、溜め息を零しながらカップと受け皿を優雅に持ち上げる。部屋の主である王后が、お茶を飲む間の静けさを窺って、外から誰かが遠慮がちにノックした。


「どうしたのかね?」

「お人払い中に、たいへん申し訳ごさいません、国王陛下、王后陛下。おひい様がどうしても、お父上にお会いしたいとぐずられまして……」


 エヴァンスランスの問いに答えを返してきたのは、王女ユーラファミアの乳母の声であった。エヴァンスランスが一も二もない表情で眼差しを向けると、「仕様が無いわね」とアンリシャンテはカップを皿に置いて頷いた。


「構わないよ、入っておいで」

 幾分――どころか、かなりほっとしながらエヴァンスランスは扉向こうに声を掛けた。遠慮がちに扉が押し開かれ、乳母に連れられたユーラファミアが入室してくる。


「お父様あ」

「おお、どうしたね? ユーラ」

 乳母の手から離れ、人形を片手に抱いてとことことやってくるユーラファミアを、エヴァンスランスは両手を広げて迎え入れた。父親に似た丸顔を、ぐずぐずと泣き晴らした小さな王女は、大事に抱えてきた人形をずいと差し出して父王に訴えた。


「お父様、カーラがお風邪なの。お歌を歌ってくれないの」

「カーラが……風邪?」

「そうなの」

「その人形の自鳴琴オルゴールが、鳴らなくなってしまったということでしょう」


 んんん? っと首を捻る夫を見かねて、アンリシャンテは夢幻の世界に住まう王女の、ちんぷんかんぷんな言葉を現実的に訳してくれた。まだ幼い娘との会話は、接する時間の長い母親の方がずっと上手なようである。


「そうか、そうか、それは一大事だ。どれ、お父様がカーラを診てあげよう」

 エヴァンスランスはユーラファミアから、カーラを――綺麗な服を着せられた自鳴琴人形を受け取った。 ユーラファミアの大切な宝物であるそれは、嬉しいことにエヴァンスランスお手製の、昨年の誕生日祝いである。


「お父様、カーラ治る?」

「そうだねえ……」

 エヴァンスランスはカーラを後ろ向けて、まずは背中の発条を捲いてみようとした。固い……。

 おそらくのところ、捲き過ぎてしまったと思われる発条は、そこで固まりぴくりともしない。


「治る?」

「多分ねえ……」

 大丈夫だとは思うのだが、中を開けてみないことには絶対とも言い切れない。自鳴琴の構造を頭に浮かべつつ、最悪機械部分を全て取り換えれば良いか……、などと考えながら、エヴァンスランスがカーラの腹に当てた耳を澄ませたところで、痺れを切らしたアンリシャンテの怒声が飛んだ。


「ああたっ!」

「なっ、何かなっ? おまえ」

「ああた、自鳴琴人形の修理など、それ専門の技師にお申し付けになったらいかが? それよりも、ああた。あたくしたちの愛しいユーラのために、ああたにしかおできにならないことが、他にございますでしょう」


 びくびくとするエヴァンスランスに、アンリシャンテは苛々とそう言った。「ああたにしかおできにならないこと」というのはつまり、ユーラファミアを隣国の王太子妃とするために、再三働きかけをしろということなのだろう。


 だが、件の相手に女の影がちらついている以上、エヴァンスランスはこの縁談に断固反対である。

 それに、最近とみに淋しくなり始めた自分の頭頂を、遥か高みから見下ろせるような背丈の青年に、義父ちちと呼ばれるのは何だか嫌だ。

 そもそもが、隣国の男前な黒馬の王子様――黒髪に黒い瞳の王子である、アレフキースの愛馬は青毛である――よりも、人形遊びに夢中な愛娘の結婚など、当分は考えたくもない。


「だけどおまえ、このカーラは、設計図から余が起こした余の作品であるのだよ。国王が作った王女の持ち物を、万が一にも直せなかったら、その技師を罰さなければならなくなるからして――」

「ああたが手すさびで作ったような代物の、修理もできない程度の技師など、このヌネイルには不要でございましょう。『発条仕掛けの都』の名が泣きます」


「いやそれは……、技師の腕前をどうこうという以前にだね、余の素人設計に欠陥があったのかもしれないからして……。何といっても技師たちは、我が国の貴重な財産であるのだから、そんなつまらぬ理由で、一人たりとも損ねさせるわけにはいかないよ」


 恐妻家のエヴァンスランスは、舅である宰相に国政を牛耳られ、王后に螺子ねじを撒かれて動く『発条王』と、宮廷人たちからは嘲笑されがちだ。

 しかしヌネイルの発展と切っても切れない関係にある、職人街の技師たちからは親しみを持たれている。技師の目と腕と魂を持つ、我らの仲間の『発条王』と。


「……仕方がありませんわね。お好きになさったら」

 機械と技師、そして娘に関することになると、エヴァンスランスは普段の従順さが嘘のように強情になる。三つ揃ってしまえばもうお手上げだ。鞭の効果を高めるために、たまには夫に飴をくれてやることも必要かと――、アンリシャンテは諦めたように首を振り、ユーラファミアを手招いた。


「ユーラ、お母様のところへいらっしゃい」

「でも、カーラが」

 父親の傍から離れようとはせずに、ユーラファミアは母親を振り返り、大きく涙を啜り上げた。自分の愛称によく似た名前を付けたカーラは、ユーラファミアの一番の友達である。


「カーラは今から、お父様にお風邪を治してもらうのでしょう? ユーラがいてもお邪魔になるだけだから、お父様にお任せしておきなさい」

「カーラ……」


 悲しげに名を呼ぶユーラファミアの、涙が光る頬を拭い、そこだけははっきりと母譲りな、くるくる巻き毛の栗色の髪を撫でて、エヴァンスランスは娘に優しく微笑みかけた。


「ユーラ、お父様は今から、カーラのお医者様になってくるからね。だからユーラは、お母様にご本でも読んでもらっておいで」

「お父様、カーラいつ元気になるの?」

「ユーラがいい子にしていたら、すぐだよ」

「ユーラいつもいい子なのよ?」

「そうだねえ、それじゃあいい子のユーラはお母様の言う通りにしておいで。ユーラだって、お風邪を引いた時には、何日かお薬を飲んでお部屋で寝ているだろう? そのくらいはカーラも、お休みしないといけないんじゃないかなあ」

「……うん」


 しょんぼりとしたユーラファミアをアンリシャンテに託して、エヴァンスランスは妻の気が変わらぬ今のうちにと、王后の部屋をそそくさと後にした。

 問題は先送りにされただけ、少しも解決されていないが、束の間の解放感に足取りは軽くなる。


 壊れたカーラを丁寧に抱き上げて、アンリシャンテの前から逃亡したエヴァンスランスが向かうのは、尖塔の天辺に構えさせた自分の『城』――、暇を見つけては閉じこもる、自分専用の工房であった。

 国王が王宮の一隅だけを自己の領域と認識しているのも、工房を持っているのもおかしな話だが、『発条王』エヴァンスランスは、なるはずもなくなってしまった、まあそんな王である。

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