小さな神

@gtoryota1

第1話

夜中、猫が洗面器に入った水を舌で舐める音で目が覚めた。

生き在るものたちが寝静まった深淵の夜にその音だけが部屋にこだまする。それは何か耳に心地が良かった。

私の飼っていた猫は夜中にいつの間にか目を覚まし、良く水を飲んでいた。

そして今、その音で目が覚めた。と言っても猫は5年前に死んでいるはずだ。

その音は夢だったようだ。私はその音だけの夢を聴き、目が覚めた。

あまりにも生々しく私の耳に反響していたのでまさか夢だったなんてまるで夢のようだ。

それは夢というより幻聴の類いになるのだろうか。もしくは幻聴そのものなのか。

自分で思うのだが私は後、少し脳の構造がズレていたならば精神的な異常をきたしていたのではないだろうか。おそらく紙一重で正常なのだろう。

万年床の布団の中、夢のような幻聴、もしくは幻聴のような夢で目覚める。

寝ぼけ眼で時計を見ると3時半。起きる時間では無いが眠れる気配が無いので、起床することにした。

万年床のすぐ隣にある、机の上のノートパソコンに手を伸ばす。

上半身さえ起こせば手が届く距離だ。

その隣の手が届く距離には、小さな冷蔵庫がある。

電子レンジが、机の上のノートパソコンの横に。ポットは冷蔵庫の前方。

手の届く範囲で、生活のほとんどを補える。私の理想郷だ。

下半身だけ毛布を被り、手探りで机に置いているはずの眼鏡を捜す。

調味料やメモ帳、ボールペン、ハサミ、膨大な資料、本等が乱雑した机をしばらくまさぐり、フレームが歪んだ眼鏡を見つけ、左手でその眼鏡を装着した頃にはパソコンのモニターにはデスクトップが表示されている。

右手で握っていたマウスでワードファイルをダブルクリックし、ジジッと短くパソコンが唸り、やっと私の宇宙とご対面する。

外資系企業を辞め半年、そのまま行くなら間違いなく出世街道まっしぐらだったであろうその人生は、私にとってなんの魅力も感じなかった。

聖書の中でソロモンは言う「空の空。全ては空」だと。

彼は歴史上最も金持ちだったと言われている。彼は神から与えられた最高の知恵を持っていた。そして1000人の妻を持ち、あらゆる金銀財宝を所有したほどの栄華を極めたと謳われるソロモンが出した結論は圧倒的なほどの虚無だった。

私は周囲が熱望するエリート中のエリートの道を歩める才覚があるが、そこにはソロモンが出した結論が待ち受けているのだ。

地位と名誉と快楽の果てにある虚無を努力してまで見ようとは思わない。

ソロモンほどの虚無には辿り着かないにしろ、ある程度予測可能な悲惨な未来には1片の価値も見出だせない。

しかし、一体この世には他に魅力的なものなんてあるのだろうか。

息在る知的生命体にとっての真の生きがいとは一体何なのか。

死の宣告を受けている悲惨な生命体にとって、生きるとはどういうことなのだろう。

私は悩み、葛藤した。私の苦悩は計り知れない。

そんな虚ろな日々を過ごしていた時に、芥川賞を受賞した作家のインタビューが私の人生を変えた。

その作家はテレビの中でこう言っていた。

「私の創作した世界が評価される。これほど意義のあるものはありません」

酷く凡庸なインタビューだろう。しかし私はこれだと思った。

創作。創作の中でも世界を、そして人の人生を創ってしまう小説。

何故こんなに楽しそうな生き方に今まで気付かなかったのか。不思議で仕方が無い。

自分の鈍感さに歯痒いほどだ。

世界と、人と、その人生を創ってしまうなんて考えただけで興奮して頭に血が昇り、最高にハイになる。

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