第22話 戦神が魔王たちを見ている
そのときだった。
ソフィエンの最も恥ずかしい場所にある痣が、暗い影の中に隠れた。いや、全員がそこを見るまいとするかのように目を閉じていた。
マルグリッドが投げた戦神の錫杖が、翼を広げた鷹の紋章を頭にソフィエンの傍らで直立するや、目も眩まんばかりの閃光を放ったのである。
尼僧の艶やかな唇が、微かに震えた。
「わが戦神よ、我らの戦いを認めてくださったことに感謝いたします。何を求めていらっしゃったのか、愚かで臆病な私にも見えてまいりました、願わくば、あるべき道を指し示してください。そして、そのためにいま少しのご加護を……」
マルグリッドは最初から目を固く閉じていたが、それは全てを察していた者の祈りであった。
目を閉じられなかったのは、己を失った魔族たちだった。奇妙なことに、僭王モードレに操られているはずが、一人残らず自ら目を覆ってのた打ち回っている。
やがて錫杖が倒れてその光が収まったとき、真っ先に立ち上がったのは血染めの白衣をまとったソフィエンだった。
「お爺様が! お爺様が!」
血がつながっておらず、魔界の姫君でもないと分かってもなお、ヴィルハーレンは慈しみ深い祖父であったということだろう。
マルグリッドが駆け寄って、錫杖を拾い上げた。
「戦神は、真の敵味方が明らかになるまで、私に奇跡を願うのを禁じたのでしょう。今なら……」
錫杖を魔王にかざすと、ソフィエンはその背中にかじりついた。
「息が……息があります!」
「
さらに錫杖を高くかざして、戦神を称える。
「恐れることなく死と刃に立ち向かうもの全てを
たちまちのうちに、マルグリッドの艶やかな肌からは、魔族たちによって打たれたときの痣が消えていった。傷が残らなかったのは、魔王のコートに守られていたからであろう。
ランバールは、塞がっていく傷に感嘆の声を上げる。
「おお……お前、ホントはめちゃくちゃ
マルグリッドは嘆息混じりにたしなめた。
「そうお思いでしたら、見る目を改めてくださいませ」
サンディは、素直に感謝した。
「悪いな……その、何て言っていいのか」
散々な悪態や暴言の限りを尽くし、しまいには斧まで向けたわけだから言い訳は立たない。だが、尼僧は冷ややかな声でこれを許した。
「いいえ、あなたは戦いからは逃げませんでしたから……少なくとも」
メルスは単純に、きれいな肌に戻ったことに安心していた。
「ボクの剣が通じないなんて……どうしようかと思った」
マルグリッドは、人生の先輩面して穏やかに諭す。
「修行に生傷はつきものです。それがイヤなら、ご両親のもとにお帰りなさい」
むくれるメルスを羨ましそうに見つめていたのは、そんなに年齢の変わらないソフィエンだった。
「帰る家もあれば、進む道もあるのですね、あなたには」
きょとんとする少女剣士に、魔界の姫君ではなくなった勇者の娘はなおも語りかける。
「私には今、取るべき立場がありません。あのモードレと戦う力も最初からありませんし、理由もなくなってしまいました」
「そんなことはない」
その白い膝からゆっくりと身体を起こしたのは、魔王ヴィルハーレンだった。
「お爺様……いえ、魔王……さま」
「お爺様と呼んではくれまいか」
呼び名に戸惑うソフィエンに、ヴィルハーレンは寂しげに言った。
「お前が望むなら」
再び孫娘が涙を流すと、立ち上がった魔王はエントランスにしゃがみ込んだ魔族に言い渡した。
「余が
この場では「ワシ」とは言わない。あくまでも、魔族たちの王として振る舞っている。
魔族たちは静まり返って、魔王ヴィルハーレンの謝罪と沙汰に聞き入っている。
「余が魔法の扉を破ったのは、不肖の甥モードレが門を閉ざしたからである。従って、その城に籠るよりほかなかった者たちの罪は問わない。全ては、城を奪わんとした我が不肖の甥モードレの罪である」
魔王に弓を引いた者たちのすすり泣きが、城のエントランスに響きわたる。ヴィルハーレンはなおも語りかける。
「余が人間界より同行者を伴ったのは、不肖の甥モードレが我が孫娘ソフィエンを幽閉し、魔王を城から去らしめたからである。従って、同行者を襲った者たちの罪は問わない。全ては、ソフィエンの自由を奪わんとした我が不肖の甥モードレの罪である」
再び場は静まり返った。無数の魔族たちの視線を浴びながら、魔王ヴィルハーレンは宣言する。
「余は、我が不肖の甥モードレの罪を問い、この魔界の秩序を取り戻す!」
城を揺るがさんばかりの歓声に、戦神の尼僧マルグリッドが不安そうなつぶやきを漏らした。
「モードレはこの城のどこかにいるはず……聞こえるのでは?」
勇者ランバールは、歓声に紛れて哄笑した。
「心配はいらねえ。あちらさんだって、気配を悟られるのが怖いはずだ」
いちばん若いメルスもまた、消えかかっている革の鎧を気にしながら頷いた。
「向こうの立てる物音が聞こえないような所に隠れているのなら、こちらの声だって聞こえないよ」
サンディだけが、胸を隠しながらこそこそソフィエンに聞いていた。
「ここさ……衣裳部屋とかなんか、ないわけ?」
ソフィエンは苦笑しながら答えた。
「私……10年もぼろぼろの服一枚で閉じ込められていたので、分かりません」
そんな私語など知らぬげに、魔王ヴィルハーレンは魔族たちに告げた。
「余は、お前たちを信じてソフィエンをここに残す。戻るまで、安全を守ってもらいたい」
不満の声があちこちから上がった。ついていきたいというのだが、魔王は厳しく禁じた。
「お前たちの気持ちはありがたいが、これだけの者を率いて城内を探索しては、それに気付いたモードレを逃がしてしまうかもしれない。余は、人間界からついてきてくれた同行者たちさえよければ、力を借りたいと思う」
歓迎の声が、エントランスを満たした。魔王は振り向いて、勇者たちに問いかける。
「無理は言わん。つきあいきれないなら、帰りの安全は保証しよう。どうかな?」
マルグリッドは、魔王のそばに寄り添った。耳元で囁く。
「このコートを……もう少し貸していただけませんか?」
メルスは手で前を隠しながら、魔王に剣を返した。ヴィルハーレンはにっこり微笑む。
「ワシらが会った、あの吊り橋の向こうでよいか?」
少女剣士はかぶりを振って、魔王を苦笑させた。
「では、川沿いに……」
「そうじゃないんだ、ボク……」
空いた手で胸を隠しながら、ランバールに虚勢を張ってみせる。
「慣れた武器なんで、返してもらえませんか?」
優美な反りを打った片刃の長剣が、メルスの頭から降ってくる。手を伸ばして受け止めてから、若き修行者は慌てて肌を隠した。
ソフィエンが見かねて、ヴィルハーレンに耳打ちする。
「この方々に、なんとか着るものを……」
それが聞こえたのか、勇者ヴィルハーレンはサンディの腰に手を回した。
「じゃあ、その前にどっかシケ込まなくちゃな」
女戦士は色っぽい目つきで一瞥すると、敬うべき勇者の脇腹に軽く肘鉄をくらわした。
「案外、そこにあの色男が隠れてるかもな」
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