第51話 物思い本線、鈍行

 道場を出て門に向かう途中、俺は紗凪さなぎに今更ながらの提案をしてみた。

「今まではバイトとか忙しくて部活をやっている暇も無かっただろうけど、紗凪なら全国いけそうだから、空手やってみないか? その、もしもお前の親父さんが更生して働き始めて、バイトにそこまで精を出さなくても良くなったらって言う前提条件はあるけれど」

 バスケを辞めた身の俺が人にスポーツを勧めると言うのもなんだか変だが、先の紗凪の戦いぶりを見て提案せずにはいられなかった。

「なかなかに難しい前提条件。でも、その条件が叶っても、私は空手部に入らない」

「どうして?」

「私は貴方の敵を倒す為なら何でもできる。だから金髪も倒せるし、燈瓏ひいろう君の決心さえ固まれば藍香あおかさんも倒せる。でも、自分の為に出来る事はせいぜい身に降りかかる火の粉を払うくらい。自ら敵を探して戦うと言うのには、抵抗がある」

「空手部の皆だって別に敵を探して戦っているわけじゃあないだろう。あくまで競技なんだから」

「変わりないわ。わざわざ地区大会、県大会、全国大会って出向いて行って、敵を探しているのだもの。必要とあれば身に着けた武術を惜しみなく使う覚悟はあるけれど、わざわざ敵を作ってまで武術を使おうとは思わない。それと同じで、武道も使いたいとは思わない。だって、人を殴ると言う事をスポーツって言葉で包み隠しても、その中身は変わらないもの。私が人を殴っても自分を許せるのは、そこに自分のがあるから。意味の無い暴力を容認できる程、私の心は私に対して寛容ではない。私がもしも人を殴って褒められる事に喜びを感じるのならば可能性は有ったかも知れないけれど、そう言う趣向は無いのだから無理」

 趣向と言う言葉は部活動に日々励んでいる人々にとっては失礼かもしれないが、紗凪の価値観からしてみれば、そう言う事なのだろう。これには共感せざるを得ない。俺も試合中にラフプレイを喰らってバスケを辞めたのだから。人を傷付けてしまって剣道を辞めた律己りつき先輩の事も同時に思い出した。

 その、競技の中に意味を見いだせなければ、他人を蹴落としてまで手に入れる称賛に意味を見いだせるわけなどない。

 それにこれまた今更ながらだが、彼女は先日父親に暴力を受けたのだ。教育、しつけと言う言葉でどれほど包み隠しても暴力は暴力。それを彼女は初めから知っているのだ。先程の彼女のあまりに綺麗な正拳突きに見蕩みとれてしまい、そんな簡単な事に考えが及ばなかった。友達として恥ずかしい。

「深く考えないで薦めて、すまなかった。ただ、興味があるならやってみればいいと思ったんだ。興味が無いなら、無理強いするつもりははなから無いから、忘れてくれ。ただ、もしも、本当はやりたい事があるのに、家庭の事情でやれないなら、嫌だなって思っただけだ」

「ありがとう。でも、私は本当に、やりたい事なんて無いから」

 やりたい事なんて無い。

 その無欲があまりにも純粋で、目がくらんだ。

 そこには何の皮肉も無い。世界がこんなだからとか、学校がそんなだからとか、親があんなだからとか、そう言う誰かの所為でやる気が失せてしまっていると言う被害者的発言ではない。ありのまま自分自身の考えとして、何も無いのだ。

 それが悲しい。

 彼女は世界がもっとこうだったら良いのに、学校がもっとそうだったら良いのに、親がもっとああだったら良いのに、と言う願望すら抱かないのが平常なのだ。

 かと言って、、と言う諦観ていかんもない。

 初めから絶望しか用意されていないこの世界では、何にも期待して生きて行かないのが当たり前と言う様なのだ。

 この時俺は初めて知った。諦めとは、期待を抱ける人間にしか無いものなのだと言う事を。

 門を出る頃には、紗凪がバイトに行く時間になっていた。

 自転車が無いからと言って走り出そうとした紗凪の手から鞄を取り上げる。

「走るのに邪魔だろ。お前が要らないものは、全部俺が持っていくから」

 紗凪は自分のポケットに携帯端末が入っているのを確認してから走り出した。

 俺が彼女から鞄を預かったのは、身軽にしてあげる為だけではない。帰ってくる場所が、俺の元であって欲しいと言う下心があったからだ。

 今日、紗凪の強さを目の当たりにした。だがあれほど強くても父親には抗えないのだ。彼女の罪悪感はそこまで強く、父親もまたそれほど陋劣ろうれつだという事だ。

 だから帰ってくる場所を示してやらないと、うっかり奴の元に帰りかねない。それだけは、有ってはいけない事だ。

 生温かい風をぬるりと裂いて走り出した彼女を見送り、俺も帰路に着く。

 まだ部活動の只中の時間帯であるから、電車の中の人もまばらだった。

 シートにもたれて向かいの車窓に映る景色を眺めていた。

 鋭利なだいだい色が土砂降りを予感させる。紗凪が傘を持っていなかった事を思い出す。彼女が帰るまでの間に雨が降ったら、傘を持って迎えに行こう。

 電車が軌条きじょうの継ぎ目をまたぐ、断続的でリズミカルな振動は睡眠を誘発するだけではなく、物思いにふけると言う生活における余白のようなものを提供する事がある。予測不能な雑音の中では決して手に入れる事が出来ない、心の安息とも言うべきか。だからなのか、ふと、電車の中で具合悪そうにしていた陽織ひおりさんを思い出した。あの時はどうして体調が悪かったのか解らなかったが、その後の薄拂すすきはらさんとの会話をかんがみるに、障碍しょうがい者の声に、弟の事がフラッシュバックしたのだろう。

 両親が離婚するにまで至る動機だ。きっと俺なんかじゃあ想像もつかない程の事だろう。それほどまでにおぞましい事が、彼女の身には起きた。

 それでも彼女は努めて明るく、まるで色彩を豊かにするために添えられた絵の中の花の様に、ふわっと笑うのだ。しかもその全ての笑顔がことごとく真実である。あの時、燈火ともしびを見つめるように細め、掠れた声で言ったあの時の言葉以外には全て。

 そう言えば、律己先輩もあの花火の晩に作り笑いをしていた。そうまでして隠したい本心があって、俺はそれをついぞ打ち明けて貰えなかった。いや、多分俺が困ると思ったから言わないでいてくれたのだ。

 思えば律己先輩は保健室で初めて会話を交わした日からして、俺を気遣ってくれていた。自分が一番苦しいはずなのに、彼女は胸に秘め、俺を守る為に学校を辞めた。悲しい事に、それが彼女にとって最善最良の行為だったのだ。であれば、彼女の高校中退と言う不名誉は、一流大学卒業の名誉よりも誇らしい。一度言葉を交わしただけの後輩の為に、高校を辞めるなどと言う決意、誰が出来ようか。

 しかし、彼女を虐めていた連中は当たり前みたいに大学に行って、卒業して、そして学歴の低い人間を馬鹿だ、阿呆だ、ゴミクズだと罵るのだろう。それが現実だ。俺がどれほど彼女の為に弁論を尽くしたところで、頭の良い人には通じない。解っている癖に、解らない振りをする。己が犯した罪を認めたくないから。罪を犯してまで大学に行った罪をおおやけにしたくないから。

 紗凪は俺に過去の事を打ち明けてくれた。聖域とも言える罪の居場所を教えてくれた。誰からの断罪もなく、それゆえ永劫えいごう許される事の無い、度し難い絶望に満ち満ちた罪。人によっては目を背け、罪ですらないと言い切って、己が生を華々しく謳歌おうかするだろう。と言うか、俺ならそうする。しかし彼女はその道を取らなかった。罪から目を背けず、向き合い、一生背負って生きていく事を決めた。俺の事が好きだと言うのに、その俺からは嫌われたいと思い、それなのにやはり離れたくないと願う。

 この罪を救うには、忘れさせるしかないのだとメロンは言う。

 良くある恋愛ドラマなんかは、愛しているの一言で全てを忘れさせ、救う。

 イチャイチャしていたら良く解らない内に、何事も無かったように皆幸せになる。

 前世の俺はハーレムを願ったらしいが、俺にはどうやらそんな適正はなさそうだ。

 たった一人の人生を受け止めるだけで死にもの狂いなんだから。

 いや、一人分の人生じゃあない。紗凪が生きてきた人生の内のほんの数パーセント。それに受け止められてもいない。受け止めきれなくてただ只管ひたすらに悩み抜いているだけ。

 ハーレムものの主人公は物凄く器のデカい奴なのだろう。あるいは底抜けの馬鹿者。人の心の事など全く意に介さない大馬鹿者。案外そんな奴の方が、モテたりするってのが、現実でもあるよな。

 メロンが言う本当の世界では、相手の事など意に介さず自分の事だけを考えてイチャイチャして愛してるって言って回っているだけで、皆幸せになるのだろうか。まるで夢物語のような事が現実になるのだろうか。

 そんな馬鹿な、と自分の価値観で測れない事をすぐに否定するのは、俺の悪い癖らしい。

 俺は座席から立ち上がり、ホームへと降り立った。

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