第40話 忘却の理想郷
家に帰ると母さんが待ち構えていた。
――パンッ。
と言う音がした時は、びっくりして玄関のドアに背中をぶつけた。
母さんの手にはクラッカーが握られている。
「生還おめでとう!」
これは大袈裟と言うより大っぴらに馬鹿にしているのではないかと思ってしまうが、母さんにとって俺の一人旅はそれほどまでに重要なイベントだったようだ。
夕飯を食べた後、ザッハトルテを食べ、自室へ向かった。
「おかえりなさい。勇者様」
「ただいま」
「おや、なんだか甘い匂いがしますね」
「母さん特製のザッハトルテを食べて来たからな」
「なるほど~」
バックから衣類を取り出し、未使用品を分別する。
あれ?
「お前、匂い解るの?」
「はい。五感は備わっておりますので」
「ふーん」
バックの整理の続きをする。
あれ?
「いや、五感って、味覚は無いだろ」
「そういえば、食べられませんね」
食べられる側だしな。
一通り整理をし終えると、布団の上にドカッと腰を下ろしてメロンを見る。
「なあメロン」
「はい」
「質問だ。もしも自分自身が許せない罪があったとする。お前が言う本当の世界では、そう言う罪はどうなる? 誰しもが幸せになる世界なら、そう言う罪を背負った人でも幸せになれるのか?」
「勿論ですよ」
「具体的にはどうやって幸せになるんだ?」
「忘却です」
「忘却、って、忘れて終わり?」
「はい」
「無茶苦茶な」
「ですがそれしか方法は在りません。自分が許されたいと思っているのならともかく、自分自身が許せないと言える程の罪は忘れて頂くしかありませんから」
「でも例えばその罪が殺人だったとして、居るはずの人が居ない事に気付いたら、思い出すんじゃないか?」
「それに関わる人の事を思い出せなくなればいいです」
「じゃあ例えばそれが自分の母親でもか? 自分はどうやって生まれて来たんだろうって、疑問に思わない奴なんて居ないだろう?」
「本当の世界で、全てが満たされていればその様に些末な事には思いを巡らせることもありません」
「些末か? 出自が曖昧な事が」
「ええ」
「出自不明なんて、自身の自己同一性はどうなるんだ」
「自己同一性も無意味です。全ての人間は同一の帰属意識を持って幸福を享受するのですから」
「馬鹿な」
「勇者様の悪い癖ですよ。自身の想定から外れると信じようともしない」
「信じたとして、俺はそれを幸せだとは思えない」
「バグった世界では、そう思えるかも知れませんね。ですがそもそも帰属意識の欠如こそが、諍いを引き起こすのですよ。考えても見てください。この世界の人間全てが同じ帰属意識で行動していて、果たして戦争が起きると思いますか?」
それは考えにくいが。
確かに戦争が起きる事は不幸な事だ。戦争の無い世界の方が遥かに平和で幸福だろう。メロンが言っている事はそう言う事だ。だがその為に、自己同一性を失い、同一の帰属意識の元に生きると言うのは、あまりにも閉鎖的なユートピアじゃあないか。その上、罪も忘れると言うのだ。
紗凪は罪を忘れたら幸せになれるだろうか。
簡単な事だ。
幸せになる。
メロンの言う通り、自分ですら許せない罪は忘れる他、救済の道は無い。
だが、己の罪を忘れた彼女は、果たして彼女か。
自己同一性を捨て、帰属意識を同じくする人類は、果たして人類か。
「平和で幸福な世界を取り戻すには、一刻も早い魔王討伐が必要なわけです」
「そうは言ってもな」
「そもそも母親を殺すと言う発想でいるからし難い行為に思えるのです」
「魔王討伐でも同じ事だろ。それとも何か? 母さんは生き返るのか?」
「残念ながら死者の魂を呼び戻すことはできません。しかしご安心を。勇者様が母親を殺したと言う残忍な記憶はなくなり、魔王を討伐したと言う誉れ高き記憶のみが残りますので」
俺は母親を殺しておきながら、その罪悪感に苛まれることなく幸福に満たされるのか。何と言う親不孝だろう。
「そもそも俺が倒さなきゃダメ? と言うか、数十年後には母さん老衰すると思うけど」
「勇者様……随分と緩慢な勘違いをなさっておりますね」
「勘違い?」
「そうです。まさかと思いますが、お母様が御生誕なさるまで、この世界はバグってなかったとでもお思いでしたか?」
「え」
言われてみると確かにそうだ。
世界が歪んでいる原因が母さんなら、その前の世界は正常だったはずだ。しかし、史実上争い事はずっと昔から行われてきている。
「魔王とは
「何度も転生……何度も死んでるって事だよな? じゃあその都度バグは」
「直りません。転生はただの循環です。ですから勇者様が討伐をする必要があるのです。解りやすく例えるなら……そうですね、魔王と言うのは魂だと思ってください。肉体は死ぬ度滅びても、魂は不滅。ですから一見死んだように見えても、魂はこの世界に漂っているのです。勇者様はこの世界で唯一魂を滅する力をお持ちなのです。勿論それは我が主が備え給えた力です。我々が勇者様に固執する理由は他には在り得ません。もしも誰でも魔王を討伐できると言うのならば、無差別に人を募り、魔王に襲撃を掛ける事でしょう」
俺がやらなければ、代わりにやり得る人間が居ない。
俺は自分の手を見た。
禍々しい、忌むべきこの手を。
神はこの手に魂を滅する力を与えた。
母はこの手に何を与えた?
しかしちょっと待て。
「以前、お前は仲間が増えて心強いだろうって言っていたけど、俺しか討伐できないんじゃ意味ないんじゃないのか?」
「弱らせることはできます。最後の一撃さえ勇者様の手で行えればいいのです」
どうあれ、俺が手を下さなければいけないと言う事か。
「あーあ。同じ親でも
「何という事を! 善良なる一般市民に向ってそのような事を言ってはなりません!」
善良なる、ね。
あれが善良だと言うのだから、もう本当にこの世界はぶっ壊れているのだろう。紗凪は自分を責め続けているが、本来親はそれを否定してあげる立場に居るものじゃあないだろうか。お前の所為じゃあない、と。それが出来ないあの親父は、紗凪よりももっともっと罪深いはずだ。それなのに、娘の罪悪感に付け込んで、自分が楽に生きる事しか考えない。そんな奴が善良なる一般市民で、息子思いの優しくて強い母さんは魔王。
「今回、人間に転生したのは運が良かったのです。今までは、どこにいるとも解らない微生物が魔王の依り代である事が多かったのですから。この機を逃してまた魔王が微生物に転生しようものなら、世界はずっとバグったままになるでしょうね」
こっちは紗凪の事で頭がいっぱいだと言うのに、
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