第25話 止まる人、進む人

「比々色君は、気にしないんだな」

「何をですか?」

「私のあだ名だ」

「あいつら、何事か言ってましたね。でも、先輩が人を傷付けるような事はしないでしょ」

 先輩は応えず、じっと水面に映った花火を見つめていた。

 彼女の栗色の瞳に青い光が無数に走った。

「私は、傷つけたよ」

「不幸な事故では?」

「剣道の試合中に起きた不幸な事故。実際周りの皆はそう言ったが、私には到底受け入れられない事だったよ」

 俺は黙して次の彼女の言葉を待った。

「私は中学の途中から剣道を始めてね。元々は長距離走をやっていたのだが、喘息ぜんそくが酷くて剣道に転向した」

 剣道も激しく打ち合えば相当な運動量になるはずだが、長距離走よりは確かに肺や気管支には易しそうだ。

「それで、長距離に打ち込めなかった青春を剣道に費やした。楽しかったよ。どうやら集中力が必要とされる競技は得意なようでね。どんどん自分の実力がついて行くのが解ったし、初めは勝てなかった相手にも勝てる様になるのがやりがいに繋がった。3年に上がる頃には試合にも出させてもらえるようになって、ますます力が入った。しかしある試合で相手選手を傷付けてしまった」

 声のトーンが落ちる。

「さっき君も見たと思うが、私の構えは上段構えだ。身長の高い選手は好んでこれを使う。中学生で上段構えを使う選手は滅多にいなかったし、私は一度も対戦相手として当たった事が無かった。だから面を打たれた事が無い」

 胴をがら空きにして構えるスタイルだ。わざわざ面を取りに行く選手はいまい。

「胴は、防具が固いだろう? だから勝つ時も負ける時も打たれた感触はあっても、激痛が走る事は無かった。だから竹刀と言う弾性のある武器でどれだけ固い防具を叩いても相手が痛がっているとも思わなかったし、怪我をするとも思わなかった」

 先輩は自分自身の手を胸の前で握った。

「だがちょっと考えればわかったはずだ。守る為に分厚く作ってあるとは言え、ただの布を竹刀で叩けば痛いに決まっている。怪我もするだろう」

「でも、面は鉄じゃあないですか? 中学時代に体育の授業で俺もやりましたけど、そんなに痛い思いをした事は無かったですよ?」

「正面から叩けば、な。相手選手は私が面を打つ挙動に合わせて、首を傾げたまま側頭部で受けて胴を入れに来た。私の面の方が先に入ったが正面からではないので当然無効。彼女の胴が有効と見做みなされて私は負けた。負けた瞬間はただただ悔しかったが、試合後、彼女の耳がパンパンに腫れ上がり、血が出ていたのを見たらそれどころではなくなった」

 不良が言っていた事は、その事だったのか。

「試合中に起きた事だ。気にするな。顧問の先生は言った。部員も全員そう言った。でも私は私を許せなかった。どうあれ人を傷付けたのだ。それは変わらない。もしもその一撃で彼女が死んでいたら? 考えずにはいられない。そんな事を考えたら、もう竹刀を握っただけで手の震えが止まらなくなった」

 先輩は自身の手を抱きかかえて俯いた。

 その瞳にはもう華やかに咲き乱れる光線は無く、静かな暗闇がただ揺蕩たゆたうばかりである。

「プロに成ったり、オリンピックに出たりする選手ってのは、そう言うイップスを乗り越えて行くんでしょうね」

「ああ。私は弱かった」

「でもそれで良かった」

 先輩は顔を上げる。豈図あにはからんやと言った表情である。

「先輩が人を傷付けてでもスポーツを続ける様な人じゃあなくて良かった。確かに人を傷付けてしまった過去は変えられないし、許し難いと自分で思っているのなら、背負って行くのが人間として正しい姿なのかも知れませんね。と言うか、そうであって欲しい」

「君は、なんでもかんでも私の味方になってくれるのだな」

「貴女が本当に正しいんだから仕方がない」

 黄色い光が彼女の潤んだ瞳の上を奔る。

「俺、中学の頃バスケやってたんです。こんなんでも」

「へえ。見えないな」

「でしょ?」

「あ、すまない。失礼だったか」

「いいえ。本当にスポーツやってそうに見えないんですから仕方ないです。と言うか、極力避けてます。スポーツ」

「どうして?」

「先輩とは逆に、傷付けられて嫌になりました」

 先輩の表情が曇る。

「俺が通っていた中学は小さくて、部活動もそんなに盛んではありませんでした。だからバスケ部員も3学年合わせて20人に満たないくらいでした。全員激ヨワだったので、俺みたいな身長でも3年生に成ったらスタメンになりました。ポイントガードって解ります?」

「ああ、司令塔だ。凄いじゃあないか」

「まあ指令らしい指令は出して無いんですけど、ノールックパスだけはなぜか定評があって、ポイントガードになりました。多分運動神経があまり良くないせいで、普通とは違う動きをするんでしょうね。それで在り得ない方向にボールが飛んでいくように相手選手には見えて、丁度いい攪乱かくらんになったのかも」

 クスクスと笑う。

「弱小校でもやっぱ試合に出たら勝ちたい訳ですが、同じ地区に全国大会で優勝するレベルの強豪校があって、そのブロックはその中学校と当たったら試合終了だと言われてました。だからその学校とだけは当たってくれるなと毎回祈りながら試合に臨むんですけど、俺が三年生の時は運悪く一回戦の対戦相手になってしまいました。それでもまあ最初から諦めてやるよりは、どこまで食い下がれるか頑張ってみようという事でやったら結構いい試合になったんですよね」

「ほうほう」

「と言うのも、仲間のシューティングガードが神憑かみがかり的に冴えていて、パスさえ通れば確実にスリーポイントが入るって言う感じだったんです。完全に格下だと思っていた学校が良い試合するもんだから相手校は焦っちゃって、ミスを連発して余計にこっちとしてはいい流れになって行きました。

 でも相手は負けるわけには行かない。こちらもまあまあ頑張って練習していましたが、彼らと比べたら恥ずかしくなるような練習量です。強豪校はそれこそ血を吐く程練習して、それでも選手に成れない人たちの分を背負って試合に出ているわけですから、俺達弱小校とは背負っているものが違う。だからなんでしょうね。途中からラフプレイが増えました。単純に焦って雑になっただけじゃあなくて、明らかにこちらに精神的なプレッシャーを与える為のラフプレイでした。

 そしてゴール下でボールの競り合いになった時、相手選手の肘が俺の鳩尾みぞおちに入って、呼吸できなくなってそのまま倒れ込みました」

 先輩が今起きた出来事の様に、俺の顔を心配そうに見つめる。

「笛はなりませんでした」

「どうして!?」

「丁度審判の死角で起きた出来事だったから。それ自体は良くある事です。ですが起き上がれないくらいに痛がる俺に気付いて、審判が声を掛けます。呼吸が出来ないので答えられません。すると俺に肘鉄を食らわせた選手は審判に言いました。ファウルアピールが過ぎるからテクニカルファールを取ってくれませんか? って」

 当時の事を思い出し、体が熱くなった。

「俺は声を出せず抗議もできなかった。だからつい相手の足首を掴みました。そこでようやく笛が鳴って、俺は退場させられました」

「そんな事って」

「結局その試合はそこから流れが変わって大差を付けられて負けてしまいました。そして思いました。結局スポーツってのは強者の味方なんだって。そう言う強者と強者を応援している皆様の悪意によって成立しているんだって。努力は裏切らない? はっ。当たり前ですよ。だって裏切らせないように皆が寄って集って強者を守ってその努力が報われるようにしているんだから。俺の皮肉癖は昔からですが、その時から勢いを増しました。それでその後彼らは全国大会で優勝して、俺に肘鉄した選手はバスケの強い高校にスカウトされたそうです。その時にはもうバスケのみならずスポーツ自体に興味が無くなっていたので、まあ、どうでもいい情報を顧問の先生から無理矢理聞かされたんですけどね」

 と、話が随分横道にそれてしまった。

 ゴホンと咳払いをする。

「彼は試合の上では何も悪い事はしていません。事の真相を知るのは俺と仲間とその選手だけです。彼は強豪校で揉まれながら人一倍練習して来たし、才能も身長もあるしメンタルも強い。だからもしも彼が心の中で申し訳ないなと思っているのなら、まあ別にいいかとも思いました。ただ一度だけ、焦ってラフプレイをしてしまったのなら、心の中で許そうと。そもそも俺は弱いんだし、まぐれで勝ったとしても俺にスカウトが来ることは無いんだし。でも彼がスカウトを受けて強豪校に行ったって事は、もう全くあの事を悪いとも思ってないし、俺の事など記憶の外なんだなって確信してしまって、空虚でした」

 へらっと笑ってみる。律己先輩の調子は変わらず、真剣そのもので俺の話を聞いている。

「でも、律己先輩は違う。選手としてではなく、人間として生きる道を選んだ。これは才能が無く努力もしない俺の屁理屈ですが、敵を傷付けてでも勝つ事を選んだ金メダリストよりも、傷付けてしまった相手の事を思って身を引いた貴女の方が人間として格上だし、その崇高な信念はあらゆるスポーツ界の重鎮がじゅうちん望んでも手に入れられないものだ」

「君は、本当に言い過ぎと言うか、何というか」

「個人的な見解ですが、それでも貴女を肯定する事で、俺自身の過去の悔恨を肯定する事が出来るんです。正直な話、解っています。俺みたいな凡人より、金メダリストの方が偉いって事くらい。でも、せめて律己先輩と一緒に居る世界では、自身の脆弱ぜいじゃくさを肯定したいんです。なんとかそれに付き合って貰えませんかね」

 一際激しく彼女の瞳が明るくなり、同時に池の水を移したかのようにバシャバシャと揺れた。

 目の端から一筋の水滴が流れるより先に、辺りは闇に閉ざされた。

「好きなだけ、肯定するといい」

 切なさを膨張させた声で、静かに言う。

「あの、すみません。何か、先輩を悲しませるような事言いましたか?」

 彼女の涙の理由が俺にあるのなら、謝らねばならない。スポーツを否定した事がいけなかっただろうか。

「いや、君と居ると何もかも許されてしまうから。私が私を否定して傷付けようとすると、その間に入って来るものだから……そしたら君を傷付けるわけにはいかないだろう? そうするとなぜだか切なくなって、胸が熱くて苦しくなる。いつもは咽喉のどの辺で止まる熱が、君が自身の過去を語ってくれた所為か、今日は咽喉で止まらなかった。ただ、それだけ」

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