第23話 耳斬り律己
男に声を掛けようとした時だった。
「俺はなあ。女だからって容赦はしねーぞ! 男女差別なくオレは暴力を振るうからな! ジェンダーフリーだ!」
その言葉を聞いた瞬間、頭の中の何かが弾けた。
「無差別暴行事件をジェンダーフリーに摩り替えるんじゃねえ! 生ゴミ野郎!」
――やってしまった……。
俺の激昂は男たちの視線のみならず、周囲を行き交う人々の視線を集めた。
急に何やら叫び出す奇人と化した俺を、皆は遠巻きに避けるようにして歩いて行った。一人ドーナツ化現象。嗚呼、
だが俺の人間性を代償に、事件は好転の兆しを見せた。
「あ。テメ! 返しやがれ」
律己先輩が木刀を奪っていたのだ。
奪った次の瞬間には、もう構えている。
剣道で言う、中段構え。
男が手を伸ばすが、そこに稲妻一閃。
「
手の甲に分厚い斬撃が与えられた。
怯んで距離を置く男達。
三人がアイコンタクトでフォーメーションを決める。一か所に固まらず、三方向から律己先輩に攻撃を仕掛けるつもりか。
このままではいくらなんでも分が悪い。入り込まなければ。
しかしそんな事は
「やあああああああああああああああああああああああああああああああああああ!!!!」
彼女の甲高い雄叫びと共に、熱風が吹き荒れる。
その熱は戦意を蒸発させ、風は前を向く意思を押しやった。
ジワリと汗が浮かんだのは初夏の夜の蒸し暑さにやられたからではない。
今、目の前の女性の戦士としての風格を目の当たりにして、血がここに居るべきではないと叫んでいるからだ。それが焦りとなって、額からボタボタと噴き出ている。敵意を向けられていない俺ですらこの有り様だ。彼らは今すぐにでも逃げ出したい気分だろう。
「お、オレら三人で一斉に掛かったら、いくら強くても止めようがねえ! ビビんな!」
「お、おう」
その言葉を聞いて、今度は律己先輩が動く。
「そうか、ならば手加減できまい」
彼女はやおら木刀を持ち上げる。
構えたまま、頭上に。
これは、上段構え。
剣道に置いて高身長の選手が長いリーチを活かした戦い方をする為の構えだ。
下段、中段から迫る胴を捨て、相手の面を先に取りに行く。それだけに特化した構え。相手が胴を取りに来たところを、という事はカウンタータイプの構えなのだが、先に動いた相手が当てるより先に当てると言う矛盾した攻撃を行う。本来カウンターと言うのは、相手の攻撃を最小限に食い止め、それよりも有効性のある攻撃を繰り出すのが基本だ。だが剣道は、当てられて
だが、上段構えの選手に聞いた話では、「造作もない」との事だった。因みにその選手と言うのは、当時小学6年生の
攻撃の段階に移る素早さで言うなら居合道が最速だが、既に構えている状態からの斬撃ならば、上段構えが最速である。何せ既に、構えているどころではなく振り被っているのだから。ただの一閃振り下ろすだけなのだ。
律己先輩の目が半眼になっている。
遠くを見るでもなく、近くを見るでもない目線の置き方。
これは瞬間を射る為の、究極の目線。
究極の
間合いに入ってきたものは、燕さえ叩き落とすであろう。
そんなヒリついた空気感の中、一歩。
ただの一歩。
律己先輩は前に出た。
その一歩の間で、あらゆる負のシミュレーションが頭の中を駆け廻った。恐らくは走馬灯に近いものだ。先も同じだが、敵意を向けられていない俺ですら、これだ。あいつらは恐らく走馬灯どころではなく、今ので万回死んだのではないか? そしてそんな思考がただ
このままでは、間違いなく律己先輩は間合いに入った誰かを殺してしまう。いくらなんでもそこまでは、と俺だって思っていた。さっきまでは。
木刀を取られた男の口元が危うげに動いた。
不味い。このままでは叫ぶ。叫んで
「
俺は努めて冷静に言った。
「三人で掛かれば確かに勝てるかも知れない。だが、確実に一人は
敢えて死と言う言葉は使わず、現実味を持たせた言い方をする。
「上段構えからの一撃。恐らく陥没するとすれば
これから起こり得る負の情報を医学的な言葉を用いて伝える事で、より現実的で明確なイメージを植え付け、不安を煽る。
「もしも更に深い一撃が
三人がそれぞれに顔を見合わせる。
俺は三人から視線を切って律己先輩を見る。
「だから律己先輩もやめてください。こんな弱者に暴力振るって粋がっているような奴らの為に、加害者になってやる必要性なんてまるでないんです」
律己先輩はそれでも木刀を手放さない。気を緩めた瞬間に、俺が背後から襲われる可能性もあるからだろう。
「え、律己……って、まさか
「なんだ? 律己先輩の事を知っているのか?」
三人は顔を見合わせて、「やべえよ」「やべぇよ」と呟いている。
「耳斬り律己。上段構えから繰り出される面は、掠っただけで防具越しに耳を切り落とすと言われる」
「そんな明治維新の時の剣客みたいな人が居るわけないだろ」
「中学の頃に実際に耳をやられた奴を見たんだ! 間違いねえ! ずらかるぞ!」
三人は逃げる口実が見つかった瞬間、一目散に逃げて行った。
律己先輩が耳斬りとか言う残忍な汚名を着せられてしまったが、何はともあれ窮地は脱した。
振り返ると、先輩は子供の頭を撫でていた。
「もう大丈夫」
しかし子供は笑わず、不安げな表情で先輩を見つめている。
「お姉ちゃんって、本当に耳を切るの?」
子供の
唇を
何も言えずに固まっている先輩の代わりに俺が答える。
「お嬢ちゃん。君はさっきあの男たちに暴力を振るわれたよね。このお姉ちゃんがどういう人であれ、君を助けてくれたんだ。そう言う時はお礼を言うのが筋じゃあないかい? 俺はね、君がそう言う人であって欲しいと願うよ。ただの何も考えてないガキじゃあない、一人の人間としてそうであって欲しいとね。だってそうだろ? 君は横入りしてきた悪者にちゃんと悪いって言える女性なんだから。そしてこのお姉ちゃんは君の正義に同意したんだから」
何を言っているのか半分も理解してくれていないような顔で話を聞いていた女の子だったが、最後には笑顔で頷いた。
「ありがとう! お姉ちゃん!」
律己先輩は出来る限りの笑顔を浮かべる。
「どういたしまして」
胸の底から絞り出すように出した声は震えていた。
子供がたこ焼き屋に並び直すのを見送って、俺は律己先輩から木刀を奪ってゴミ箱に入れた。
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