第21話 紗凪の居ない今日

「あれ? 紗凪は?」

「比々色君も知らないの?」

 登校中、紗凪はいつも後ろから自転車で俺に追いついて、短い時間を共に歩く。ほぼ毎日それだが、豪雨の日はその限りではない。そして今日は豪雨ではない。曇ってはいたが。

 だから彼女がなかなか現れない事に胸騒ぎを感じていた。案の定教室に行っても彼女は居なかったのだ。

 朝のホームルームになっても、紗凪は学校に来なかった。

 遅刻、という訳でもなく、メールをしても返信がない。

 さすがに心配になった俺は紗凪の家に出向く事にした。

 友達としての付き合いはもうすぐ1年になるが、彼女の家に行くのは初めての事である。場所だけは教えて貰った事があったので、辿り着く事は出来た。

 外壁から木造と容易に想像できる作りのアパートの一階が彼女の家だ。この大きさと窓の数から想像するに1Kか、大きめに見ても1DKと言ったところか。こんな手狭なアパートに父親と二人で暮らしているとは。家族とは言え息が詰まるだろうな。俺だったら毎日喧嘩してしまう。

 俺はアパートの外壁から漏れだした憂鬱に当てられて、マイナスのイメージしか抱けずにいた。

 まだ日暮れ前にも拘らず、玄関前のそこには昏がりが落ちていた。上の階に続く階段の踊り場が影を作っているだけではない。道路を挟んだ向かい側に建つマンションがあまりにも高く、誰しもに当たり前に降り注ぐはずの太陽の光を独り占めにしているからだ。このアパートに当たるはずの光は全て奪い取られている。

 極寒の5月半ば。

 彼女はこのアパートの一室で凍えながら過ごしているのだ。

 それできっと体調を崩したんだろうな。

 俺はインターホンのボタンを押した。一回押したら最後まで鳴るタイプかと思ったのですぐ指を離したが、中で一瞬チリと音がして止んだ。長押しするタイプだった。恥ずっ。

 ――チリリリリリ。

 押し直し、俺はコンビニ袋に入った白桃ゼリーとポカリを見る。自分の体調が悪い時はこれと決めている。イコール紗凪もそうだと言う事はないが、水分と糖分は疲れた体に必要なはずだ。

 中からドタドタと音がした。しかし紗凪の足音ではない。家を間違えただろうか。

「はいよ」

 中からは中年のおっさんが出てきた。この時間に寝巻を着たままでいるという事は、寝ていたのだろうか。どちらにせよ間違えた。が、一応確認する。

「あの、朝薙さんのお宅、ですか?」

「そうだが」

 そうなの!?

 え、って事は、このおっさんが紗凪のお父さんか。なんか想像と違う。根本的なDNAが違うようにすら思う。瞳は煙が掛かったように淀んでいて光は無い。彼女の全てを受け止めるあの静謐な黒色はどこにも存在しない。背が低いと言うところだけは似ているが。

「えっと、初めまして。紗凪さんの友達の比々色と申します。これを」

「おお、悪いね。あんがとよ」

 袋ごと渡す。その時俺の鼻は強烈なアルコール臭の強襲を受けた。まさかこんな時間から飲んだくれているのか。

「紗凪さんが学校に来なかったので心配になって来ました。他の友達も心配しているとお伝えください」

「あー、紗凪なら今はいないよ。後、風邪とかでもないから心配しないでくれ」

 は?

「えっと、どういう事ですか?」

 その問いかけにおっさんは一瞬間を置いて頭をぼりぼりと掻く。肩にはフケが溜まっている。

「いやー、俺もびっくりしたぜー? 夕飯作り終わった後に、次の日の昼飯以外にもジャンジャン作り始めるから一体どうしたのか聞いたら、古武術を習いに行くから暫く家に帰って来れないって言うからよー」

 古武術。と言うか、なんだその、夕飯の後に次の日の昼飯って。このおっさん、自分の娘に夕飯だけじゃなくて次の日の自分の昼飯まで作らせているのか?

「いやー、参ったよ。あいつが帰ってくるまでずっと常備菜だぜー?」

 参るのはアンタの思考回路だ。

「それで、その古武術を習いにどこへ?」

 するとおっさんは一度部屋の奥に引っ込み、貝殻がプリントされた便箋を俺に手渡す。

「その住所の所に行ったみたいだぜ?」

 その住所って……。

「これ、長野って書いてあるじゃないですか!」

 ここからどんだけ距離あると思ってるんだ。

「いやー、可愛い子には旅をさせろって言うだろ? 親としては止められねーよう」

 グワハラグワハラと豪快に笑う。この笑い方はまさしく紗凪のものだ。認めたくなかった。こんな酒臭くて娘に飯の用意までさせる糞親父と、俺の事を想ってくれる女の子がどこかしら繋がっているだなんて。

「これ、貰いますね」

「おう」

 便箋を貰って俺は踵を返した。

 流石に、貴方働いてませんよね? と聞く事はなかった。だがしかしそれでも十分理解できた。彼が便箋を取りに引っ込んだ時に、玄関を見ただけで全てを悟った。サラリーマンなら革靴が、現場作業員なら安全靴が有るはずだ。なのにあの玄関にはサンダルしかなかったのだ。そこには明確な不動が置かれていたのだ。

 働いてないって事は、その分を紗凪がバイトで稼いでいるって事になる。しかしそれだけでは罷り切れないだろうから、生活保護も受けているのだろう。という事は、俺のバイトや母さんが働いてお金を得る時に発生する税金もあいつの懐に流れているって事だ。紗凪と俺と母さんの労働は、あいつが酒を買う為の金になっているのか。

 あんな奴の為に税金が使われているのなら生活保護なんて言うシステムは直ちにやめろ! それが出来ないならあいつを殺せよ……!

 ――いかんいかん。

 刹那的な感情とは、昨日もメロンが言っていたが、こんな事を考えてはいけないな。どんな人間であれ紗凪の父親であることは間違いないのだし。友達のお父さんを悪くいうのは、良くない事だ。

 ともあれ俺は行かなくてはいけない。

 電話が繋がらないのは、恐らく山奥の電波の悪い所にいる所為だ。

 今から行って新幹線はあるのだろうか。無くても在来線で乗り継げればいいが。

 そう思い時間を確かめようと携帯端末の画面を開いたら紗凪からのメールが入っていた。

『私が居る今日が来なくて、燈瓏君はどういう気持ちでいるのか。私の居ない世界で燈瓏君がどんな顔をして生きているのか。それを想像すると愉快でもあり、やはり不安でもあります。私は古武術を習得する為、岐阜と長野の間当たりの山奥に来ています。携帯の電波も届かない所ですが、雲の具合が良いのかバリサンになった為メールを送りました』

 何故敬語?

 後バリサンって、今も使うんだ。

『燈瓏君が想像するような魑魅魍魎跋扈ちみもうりょうばっこするような危険地帯ではなく、寧ろ自然豊かな場所ですし、師匠も大変優しい人ですのでご安心ください』

 そこまで読んでほっとした。それだけが心配だったから。

『そうそう、明日は季節前借りの花火大会ですね。本当は貴方と一緒に行こうと頭の中で勝手に約束をしていましたが、どうやらその約束も果たせそうにないので、誰か他の人と行って来てください。できれば女子。更に言えば飛び切りの美女と。その嫉妬の炎を燃やして一心不乱に修行に励みます。あ、でも霧裂さんはNG。霧裂さんじゃないと言う証拠の為に一緒に行った人の写真を送ってください。できれば花火も』

 何を奨めてきているんだ。

 嫉妬の炎と言うが、そんなものが有ったら逆に心が乱れそうだが。

 とにかく優しい師匠も居て、身に危険が迫っていない事は確認できたし、すぐさま向かう必要はなくなった。問題は紗凪の言い分を聞き入れて花火大会に行くかどうかだが。

 取り敢えず了解の旨をメールで送信した。これがいつ届くのかは皆目見当もつかないが。

 携帯端末を懐にしまい、暮れ往く空を見つめた。

 ボヤボヤとした雲が茜空を細切れに覆って、黒色の節目を作っている。

 そう言えば、紗凪の為に買って来たゼリーもジュースもあのおっさんに渡してしまったな。

 不意に風が抜けた。

 背中を追い越して、マンションの壁を駆け昇る。

 遅れて周りの雑草がさわさわと揺れる。

 そうやって、何もかもすり抜けて行って、行きく付く場所に行くのか。

 紗凪はすり抜けられてしまったのか。

 あの緋色に突き破られた雲みたいに。

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