第8話 夕陽と紗凪

 6限目の授業が終わる頃、紗凪さなぎに呼び止められた。

「やっぱり今日の燈瓏ひいろう君はおかしい。何があったのか、私には話せない?」

「だから、なんでもないって」

 ぶっきらぼうに言って教室を後にする。

 俺は自販機でコーヒーを買って運動場に続く階段に座った。

 突き放すような言い方をしたにもかかわらず、紗凪は俺の隣に座った。

 ぼうっと、部活をする生徒達を見る俺の隣で、彼女もまたぼうっと、運動場を見ていた。

 細礫さいれきが敷き詰められた運動場。笛の音と共に走り出す運動着姿の生徒達。

 青春をしているんだな。彼らは。

 ここにもし夕張メロンが居たら何を語り出すだろうか。

 彼らは何をしているのですか。

 青春を謳歌おうかしているんだよ。

 青春とは?

 若い人たちが、今しか味わえない体験をして、今しか出せない全力を出して、生きている事を実感するんだよ。

 なるほど。しかしながら本当の世界ではそんなことをする必要はありませんよ。

 どうして?

 いつ如何いかなる時も生きている事への幸福感を忘れないからです。常に幸せだからです。言うなれば常時青春という事ですかね。

 へえ。そんなもんかね。

 あの、夕張メロンが言いそうなことを、なんだか予測できてしまうくらいに、俺の頭はすっかりおかしい。

 自嘲が抑えきれず、俺は嘲笑を浮かべていた。

「燈瓏君。さっきはおかしいと言ってごめんなさい」

「え? ああ、良いよ別に謝らなくて」

「私には貴方がいつもの貴方ではないように見えたのだけど、それはあくまで私からの視点に置いてだけ言える事なんだって、今、貴方の横顔を見ていて気付いた。貴方と出会う以前の貴方を私は知らないのだから、私の知らない貴方が不意に浮き上がってきても、それも貴方なんだよね。それを私が受け入れられなかった。それだけの事だと分かった」

「どうしたんだ、急に」

「青春なの?」

「は?」

「青春をしたくて運動場を見つめていたの?」

「いや、違うよ。なんか思考がまとまらないから、一生懸命一心不乱になっている人を見てたら落ち着くかなって思っただけだ」

「そう。やっぱり何か悩み事があったの」

 ――う。

 上手い事乗せられて話してしまった。

「その本、そう言えばいつも持ってるよな」

 俺は話を変えるべく、紗凪が持っている本を指していった。文庫本ではなく、四六判しろくばんだ。相当のお気に入りでなければ持って歩かないサイズだろう。それに興味を示した、というのが嬉しかったのだろう。一瞬だが彼女の顔が明るくなった。しかしすぐに俯き、本を後ろに隠すように持った。

「聞いちゃまずかったか? 青春の話をしたからさ。お前にとってのめり込めるものってのは、読書なのかなと思って」

「そんな清々しいものじゃあない。読書が好きなわけでもない。ただ、安定剤みたいなもの」

「へえ。凄く良い本なんだな。ただの一度も奨められた事ないけど」

「こんなものを読んでいるって知られたら、嫌われるかもと思って」

「紗凪が何を読んでいても嫌わないよ。何を読むかなんてそんなの各々の自由だろ。それよりも自分が好きな本の事をこんなもの呼ばわりする方がよっぽど邪悪で不誠実だ」

 そうね。と、小さく呟いた。

 紗凪は本を前に持ち直し、抱きしめた。

「シオラン」

「ん? 本の名前か?」

「著者名。ルーマニアの思想家」

「そうなのか。まあ思想ってのは、マイノリティになればなるほど人から避けられるものだからな。人に言いたくないのもわかるよ。結局、崇高で聡明な大人たちは、常識と固定観念に縛られた自分自身が気持ちよく受け入れられる思想にしか興味を示さないし、そうでなければダメだって子供に言い聞かせてくる。でも大丈夫。なんたって俺ら高校生は絶賛反抗期の真っ只中だぜ? 大人の言う事なんか聞かない」

「……ありがとう」

 しばらくの間、紗凪は自分で言ったありがとうを噛みしめる様に俯いていた。

 その後、彼女から、では一体何があったのか、を問われることは無かった。

 代わりに陽だけが傾いて行く。

 山間やまあいに沈みゆく夕陽を見て、懐かしさに胸を締め付けられるのはなぜだろうか。まだ郷愁きょうしゅうを感ぜられる年頃でもあるまいに。それでも胸の奥でラムネが融解していくような、その際に発せられる酸味のようなものが霧のように広がるのはなぜだろうか。それはどこか熱っぽくて、その温度に気付いた時、膨らんでいた体が空洞を埋める様にきゅっとすぼまる。その所為で焦土がせり上がってくるものだから、咽喉のどが焼け、首下と額にジワリと汗が浮かぶのだ。

 もしかしたらこの胸の締め付けを感じたくなくて、彼らは必至で走って取って投げて蹴って飛んでいるのだろうか。

 この、夜へ突入すると言う、言い知れぬ不安に駆られない為に、誰からも平気である装いを崩されない為に。

 風が、太陽の熱を肌で感じ取れなくなるより早く、冷たさを持ってきた。きっと山肌のくらがりで寝そべっていた奴らが、やる気を起こしたに違いなかった。

「聞かないんだな。悩みの核心は」

「私が余計な事を言って、貴方のアイデンティティを傷付ける事になるのなら、私は口をつぐむわ」

 紗凪は立ち上がり、スカートに着いた土を払った。

「ちょっと待っていて」

 彼女は携帯端末を手に俺から少し距離を置いた。

 暫くして戻ってくる。

「何か急ぎの用事か?」

「ううん。急ぐ破目になる所だったのを未然に防いだだけ」

「どういう事だ?」

「バイトを断った」

「あ! そうか! ごめん! っていうか、俺なんかに気を遣わずにバイト行けばよかったのに。明日またどうせ学校出会うんだし」

「明日が来るのを知っているのはどうして?」

 紗凪のその、純度の濃い問いかけに俺は言葉を無くした。

「友達が懊悩おうのうに苦しんでいる。私がバイトに行くと言う行為は、その懊悩から距離を置く事に他ならない。貴方の懊悩の答えは知らないし、答えになってあげる事も出来はしない。けれどもその懊悩に寄り添う事は、きっと私にもできるから。ただ傍に居るだけ。貴方が嫌だと逃げ出してもきっと追いつく。私にはその為に足が生えているのだから」

 俺があまりにも事情を言わないものだから、紗凪が哲学モードに入っている。俺がこれから自殺でもしようと思っているんじゃあないかと勘違いしているに違いない。いくら現実味のない悩みでも、紗凪に対して隠し通そうと考えたのは間違いだった。多分俺以上に悩み始めるぞこれは。

「紗凪」

 気だるげに落ちたまぶたが数ミリ上がる。静謐せいひつな黒が俺を真っ直ぐに見つめている。

「なに?」

 声のトーンは先程とは変わらない。

「俺が抱えている悩みは、とてもおかしくて不思議で現実味が無い。でも、笑わないで聞いて欲しい」

「いいよ。笑わない」

 一呼吸置いて、単刀直入にズバリ言った。

「俺の母さん、魔王なんだ」

 彼女の瞼がピクリと揺れた。

「それを聞かされたのは昨日。夕張メロン型の天使からなんだ。因みにその夕張メロンを天界から送ってきたのは神様で、俺と出会った時は時計を巻き付けた猫の姿をしていたよ」

 彼女は震えている。

「なんでそんなことを知ったかって言うと、実は俺が勇者だからなんだ。勇者として魔王を討伐する使命が前世の時点から与えられていたんだ」

 真一文字まいちもんじに結んだ彼女の唇が戦慄わなないている。

「それで俺は……おい、もういいから! そうやって太腿ふとももつねって無理矢理笑い堪えなくていいから! 顔真っ赤じゃん! プルプルしてんじゃん! もう笑い堪えてるの完全にばれてるからな!? もういっそ笑えよ! 堪えられる方が苦痛だわ!」

 すると紗凪はグワハラグワハラと口を大きく開けて笑いこけた。

 一通り笑い終わるのを待って、俺は落胆のため息を漏らした。

 まあ、信じて貰える訳ないか。

 大声で笑って貰えて、それだけで良かったと思う事にしよう。

「――僥倖ぎょうこう

 なんか聞こえたな。紗凪か。

「何か言った?」

「正直、藍香あおかさんには敵わないと思っていた」

 藍香とはうちの母親の名だ。

「美人だし、巨乳だし、優しいし、料理も上手いし……この家に嫁いだらきっと藍香さんの完璧な主婦力と女子力に打ちひしがれて自尊心を保てずに気が狂う事だろうと思っていた」

 何の話をしている。嫁ぐってなんだ。

「でも、魔王なら安心。討伐するんでしょう?」

 現実味のない紗凪の応対に、言い出しっぺの俺が置いて行かれている。

「あ、ああ。うん」

「討伐したら嫁いだ後の事をうじうじ悩む必要も無いもの。貴方の助けにもなれて一石二鳥」

「えっと、なんだろう。信じてくれたのか?」

「勿論。さっきはいきなりの事で笑ってしまったけれど、燈瓏君は嘘を吐かないから。現実味が有ろうと無かろうと関係ない。私の常識で測れない事を、燈瓏君は知っているだけ。燈瓏君をただ信じる。だから魔王を倒しましょう」

「でもうちの母さん滅茶苦茶強いぜ?」

「そうなの?」

「空手道、柔道、合気道、全部黒帯だって言ってた」

「じゃあ手始めに空手部に入部してくる」

「おいちょっと待てよ。気が早すぎるだろ。てか、うちの高校女子空手部ないじゃないか」

「何を悠長な事を言っているの? 相手は藍香さんだし魔王なのでしょう? 男子高生に勝てなければわざわざ空手を教わる意味が無いわ」

 シュタッ。と手を上げランニングの姿勢に入る紗凪。

 俺は物理的にも精神的にも置いて行かれ、声も出ず、ただ手を上げ、くうを掴む。

 彼女は走り出し、暫くしてから振り向いた。

「そう言えば燈瓏君」

 ランニングの姿勢のまま次の言葉を紡ぐ。

「好きよ。結婚を前提にお付き合いしましょう。じゃあ」

 言いっぱなしで空手部の道場へ走り去って行った。

 すっかり陽の暮れた運動場からは、部活動に励んでいた彼らの声はもう聞こえない。

 鉄紺てつこん色の空を見上げて、湿り気を孕んだ心地の良い冷気を思い切り吸い込んだ。

「何もかも順番がおかしいだろおおおおおおお!」

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