6-b 七階の幽霊の話

 目が覚めたら、のどが渇く。

 ミネラルウォーターが残り少なくなっていたため、ペットボトルから直接口を付けて飲んだ。空になったボトルを置いて、カーテンを開ける。昼だというのにそれほど明るくはなかった。洗濯物も干してない。ちょうどよい日だ。

 手紙も何も残す気はない。ただ部屋着のままは嫌だった。

 お気に入りのロックバンドのTシャツと細身のデニムパンツ。伸びてきた髭も剃った。歯も磨いた。髪も少し整えた。コンビニに行くときより、小奇麗な自分が余計に悲しく思えた。

「街にでも出るみたいだ」

 どうせ落ちたら、関係ない。だが、これで気持ちがすっきりした。

 曇り空の下、七階の幽霊の仲間入りをしよう。


 ベランダへのガラス戸を開け、置きっぱなしのサンダルに足を入れた。せっかくならテレビドラマで見るように靴を揃えたかったが、玄関のスニーカーをわざわざ置くのもおかしく思えた。ちょうど買い替えたいと話していた母の言葉も思い出す。そのまま履いて、飛ぼうじゃないか。


 大きく息を吸い込み、ベランダの柵に足をかけた。

 さあ、


「どこへ行くんですか?」

 左隣の間仕切り越しに男の声がした。落ち着いた、紳士のような声だ。

「どこって」

「玄関から出たほうがいいですよ」

「は?」

「人にはカラスのような翼もありませんし、落ちてしまいます」

 妙に詩人めいた隣人に戸惑う。隣は女性の一人暮らしだと聞いたが、引っ越したのだろうか。それとも、男を連れ込んでいるのか。どちらにせよ、俺と同じでまともではない。こんな日中に家にいるのだから。

「放っておいてくれ」

「わかりました」


 さあ、今度こそ飛び降りよう。

 心を決めて、再度右足を柵にかけてまたがる。風のない薄暗い空が広がっている。大きく息を吸い込んだ。

「すみません」

「だから、邪魔すんなよ」

 声を荒げて、左を向いた。



 そこにはキリンがいた。

 遠い昔に動物園で見たやつだ。やつがベランダから首をだして、こちらを見ている。薄いクリーム色の毛に赤茶色の模様がよく映える。まさしくキリン。都会にキリン。ここはどこだ?

「キリン、なのか?」

「はい、キリンです」

 どこか嬉しそうにキリンはお辞儀をした。まるで、この驚きを待っていたかのようだ。

 混乱する頭で必死に考える。死を決意した者だけが見える幻想か。しかし、どうしてキリンなのか。たいして好きでもない動物が俺の危機を察知して現れたとでもいうのか。視えるべきは先達、七階の幽霊ではないのか。


 ベッドで丸まっているとき、少しだけ夢見ていた。次は上手くやれるだろうと。幽霊の世界にも人間関係の諸々があって苦労するのかもしれない。けれど、次はきっと上手くいく。柄にもなく、純粋に期待した。

「キリンが俺に何の用がある?」

「ここから飛び降りるのでしょう」

「ああ」

「それでは、伝言をお願いします」

「は?」

「私はここから出られませんから、ちょっと言付かってくださいませんか」

 たしかに部屋から出られる大きさではない。いや、元から部屋に入れる大きさでもない。

「なんだよ」

「神様に伝えてください。この部屋は狭すぎるって」

「……俺が天国に行けるわけないだろう」

「そうなんですか?」

「そうだよ」

「残念ですね」



――ザンネンデスネ

 その言葉が頭にこびり付く。キリンに残念がられるとは思ってもみなかった。しかも、外に出られないキリンにだ。

「そんなに残念か?」

「残念ですよ。良いところだと聞きましたよ」

 俺は天国を夢見たつもりはない。ただ、此処に居たくない。居たくないのに、行く場所がない。苦しい日々が続くだけ。生きた未来に夢がなかった。

 だが、俺はキリンほど大きくない。コンビニにも行ける。残念なのは、寧ろこいつなのではないか。


「お前は自分のことを残念に思わないのか?」

 自分でも驚くほど静かに問いかけていた。

 キリンは思い巡らすように、空を見上げた。だが、すぐに首を横に振った。

「どうして?」

「キリンですもの」


――人ほど深く考えません

 そう言って、キリンは部屋へと戻っていった。

 雨がぽつり、ぽつりと頬を打った。

 あのとき、どうして自分が上を向いていたのかわからない。

「こんな天気じゃ、死にたくないな」




 カラスが酒枯れした女のような声で鳴いている。俺を馬鹿にしているように思えた。

 また、のどが渇いていた。

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