6-a 七階の幽霊の話

 母が眠ると、俺はのそりと動き出す。のどを潤すために、自室を出る。だが、冷蔵庫を開けても、ジュースもミネラルウォーターもなかった。


――水道水を飲みなさい


 母の注意を思い出し、苦い気持ちになる。そろそろ外に出ようか。

 埃を被りそうな学校鞄から、黒い長財布を取り出す。札はない。現金は120円。だが、小銭入れにくしゃくしゃになったレシートが一枚入っていた。日付は二週間前のものだ。カード式の電子マネーの残額は812円。

 俺は深呼吸し、よれたTシャツの上から、黒色のパーカーを着て、玄関を出た。

 通りは意外と明るい。通り過ぎる人に顔を伏せ、大通りに面するコンビニを目指す。

 下を向いて歩いていると、長くなった前髪と黒い自分の影がのそのそと動いている。髪も、パーカーも、パンツも、尻ポケットに入れた財布も、靴も、ついてくる影も真っ黒だ。

「お先も真っ暗か」

 情けない独り言は小さな声となって出た。かすれていた。


 深夜のコンビニは町を煌々と照らす。自動ドアをくぐると、やる気のないイラッシャイマセが俺を迎えた。スマホを忘れたことを思い出す。イヤホンで耳を塞ぎたかった。

 以前からよく行く店で、感覚的に冷蔵庫の前まで進む。2リットルのミネラルウォーターを手に取り、レジへと向かった。

「あれ?石原じゃね?」

 聞き覚えのある声にぴくりと肩が震えた。顔を上げるとクラスメイトの小林だ。正しくはクラスメイト。もっと言えば、一つ学年が上になり卒業した、元クラスメイトだ。

「久しぶり」

「お……久しぶりです」

「改まるなよ、同い年なんだし」

 店員だろ、少しは改まって話せよと思いながら、俺はレジにミネラルウォーターを置いた。どんと音を立てることで、会話したくないことも伝わればよかった。

「お?健康志向だな」

 小林は気にしない。俺が眉を潜めても、長い前髪で見えないのかもしれない。

「若いのに、エライな」

 さっきまで同い年と言っていたのに何が若いのか。何が偉いというのか。話すたびに、自分が卑屈になっていく。もうこのコンビニには来たくない。辟易しながら、会話は続く。

「なあ、石原!知ってるか?」

 もう返事を返す気力もなかった。

「あの、焦げ茶色の10階建てのマンション!」

 偶然、うちのマンションと見た目が一致している。

「交差点の先のさ、名前は忘れたんだけど!」

 うちだと確信し、頭が痛くなってくる。

「その七階!」

 最悪だ。住んでいる階数を当てられてしまった。帰る場所を失った心地がした。

「出るんだってな!常連のおばちゃんが言ってた!」


 よくある怪談のようで、安堵した。しかし、すぐに苛立ちに変わる。早く精算してほしい。早く帰らせてほしい。ここに居たくない。逃げ出したい思いは吐き気すらした。

「あのさ、レジ……」

「おう、わりい」

 やっとバーコードを読み取り、カードで支払いさせてくれた。けれど、レジ袋に一本のペットボトルを詰めるだけでも、小林はうるさい。

「かなりはっきり見えるんだってな。オレは深夜シフトでさ」

「興味ねぇよ!」

 語気を強めたことで、小林の目は見開かれた。やっと不快感が伝わったようだ。

「そっか、オマエはクールだったもんな」

「それは」



 俺がクラスに馴染めなかっただけだろう、という言葉は続けられなかった。

「ありがとうございました」

 小林は最後に丁寧な礼をして、俺を送り出した。




――マンションの七階の幽霊

 もうすぐ俺が仲間入りするかもしれない。

 乾いた笑いをこぼし、俺はマンションを見上げた。

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