第44話 トーヤとシスター

「トーヤさん」

 

 不意に教会のドアが開き、シスターがゆっくりと近付いてきた。


「勇者でなくなったというのであれば、どうでしょうか。教会で働いていただくというのは?」

 

 トーヤはフッと笑って

「ないよ。俺はこの街を出る」

「……なぜです? この街を出る必要はないはずです」

 

 縋るような声。

 この声だけで、このシスターがトーヤにどのような感情を抱いているというのが分かるほどの、艶めいたような一種の誘惑にも似たか細い音だった。


「トーヤさんは今まで教会にずっと尽くしてくれていました。司祭様も他のシスターやブラザーも、教会で働くというのならきっと、喜んでくださいます」

「シスターキリエ。俺はこの教会の人間が思っているような清廉潔白な人間ではない。この教会に金を落としていたのだって、理由がある。神に仕えることなどできないし、するつもりもない薄汚れた人間だ」


 キリエと呼ばれたその女性は、更に僕らに近付いて、トーヤの服をぎゅっと掴んだ。


「なにを……」

「あなたが抱えている物、私に一緒に抱えさせていただけませんか? 一生をかけて一緒に償わせていただけませんか?」


 僕らが傍にいるというのを忘れているかのような、大胆なプロポーズだった。

 トーヤはそれを分かっているのかいないのか、そっと手を解こうとする。


「シスターキリエに一緒に背負ってもらいたいとは思わない。俺はここにはいられないし、君を連れて行くつもりもない」


 にべもない返答だったが、シスターはそれでも服を固く掴み、離さなかった。

 その固い手が、決意の証明のようにも見えた。


「あなたが勇者を辞めると聞いて、引き留めようと思いました。それも本心だったのですが、結局言えなかった。あなたが怖かったからではありません。……ほっとしてしまったからです」

「……」

「あなたがもう、一番死に近いあの場所に行かなくて済むようになったと。私はすでに、冒険者を支えるシスターとして失格です」

 

 目を伏せて、彼女は声を震わせる。


「あなたが私を連れて行かなくても、私が勝手について行きます」

「俺は……」

「勝手にしますから」


 何かを言おうとしたトーヤを遮り、シスターキリエがそう押し込んだ。   

 くるりとこちらを向いて、彼女は深々と僕らに頭を下げる。 


「他の教会の者がどう思っているかは知りませんが、少なくとも私はトーヤさんが勇者でなくなってほっとしています。これから私は彼についていきます」

「だから俺は、君を連れて行く気はないと……」

「あなたの意見は聞いていません」


 きっぱりと有無を言わせぬ様子でキリエはそう言い切った。

 強い。


「なんや、トーヤ君にぴったりの女の子、おったんやん」

 

 エミがぼそりと呟いて微笑んでいる。

 

「一緒に追ってくれる子ぉがおって良かったわ。あんなに人を殺しといて、自分だけ死んで楽になろうって思ってそうやったから。トーヤ君には、生きて償ってもらわんと」

 

 生きて、償う。

 それは責任を負って死ぬよりも、もっとずっと苦しいことだ。


「せや、二人に飴ちゃんあげる」


 エミは唐突に、巾着袋の中に手を突っ込んでそう言った。

 トーヤはびくりと体を震わせて、恐ろしい表情で僕らを見る。まだこれ以上自分を苦しめるつもりなのかという顔だ。


「そんな身構えんでもええで。普通の甘い飴ちゃんやし」

 

 クスクスと笑いながら、エミは袋から飴ちゃんを出した。


「これな、ウチの一番好きな『いちごみるく』の飴ちゃん」

「『いちごみるく』……」


 二人はそれを受け取る。

 キリエは一度目の前で開けてもらったのを覚えていたのか、手際よくその袋を破る。しかしトーヤは、飴ちゃんを口に突っ込まれた経験しかないので、不思議な顔をしながらそれを見つめていた。

 キリエがそっとその袋をトーヤの掌から取って、出してやっていた。


「トーヤ君。生きていくのって辛いことばっかりやない。辛いことがあって初めて幸せなこともあったって気づくこともある。もちろん逆もあるし、辛いことの記憶って不意に思い出したりするんよねぇ。その度に苦しむことになるし、自分だけが不幸なんやって思うこともある。……あるけど、それに飲み込まれたら、ずっと先は真っ暗なままや。折角支えてくれるって言うてくれる人がおるんやから、突っぱねるだけじゃなくて手を取ってみたらええねん」


 トーヤは顔を伏せて、何も答えず聞いている。


「トーヤ君の気持ちもな、少し分かるわ。ほんまは優しい子ぉなんやね。キリエちゃんを巻き込みたくないんやろ。自分のわがままで人を巻き込んで、自分のわがままで人を巻き込みたくない。人間ってそういう風にしか生きられへんのよね」

 

 キリエは、ハッとした顔でトーヤを見つめる。

 

「トーヤさん……」

「……」

「でもキリエちゃん、トーヤ君が背負ってるものを知っても、それがどんなに重くても、トーヤ君についていくんやろ?」

「はい。私は、一緒に背負います。背負いたいんです」


 淀むことはなく即答したキリエと、それを聞いて満足そうに頷くエミ。


「トーヤ君、きっとこの子と長い付き合いになるで。その途中で、言いたくなったら、言うたらええんや。ウチの勘では、彼女はそれでも、アンタの傍におってくれる」 


 トーヤは、涙を零しながら『いちごみるく』の飴ちゃんを口の中に放り込み、

「甘い……」

 と、消え入りそうな声で呟いた。


「そうやで、飴ちゃんはホンマは甘いんや」

 と、エミは笑った。  

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