第2話「遠ざかる距離」
朝は憂鬱だ。
カーテンの隙間から溢れる光。小鳥の鳴き声。トーストの焼ける匂い。
起きた瞬間に入って来るこれらの情報が、とてつもなく憂鬱感を誘う。
「そうたー」
俺は、呼ぶ母の声に「うぁーい」と変な声で返事をしながら、のそのそと布団から這い出した。
瞬間、世界が回った。そりゃあもうグルンと。
母が走って来る音が微かに聞こえる。
「ーー……?」
なにかを言う母にヘラヘラと笑い返しながら、俺は眠りに落ちた。
☆
単純に言うと『風邪』を引いた。
頭は痛いし、喉も痛いし、鼻だって詰まっていてうまく息ができないから辛くて仕方がない。
でもまあちょうど良かったかもしれない。
母が作ってくれたおかゆを食べようとするが、熱い。冷まそうと息を吹きかけていると、スマホが鳴った。
「もしもし」
「おはよ、颯太」
電話の主は、俺が高校に入って一番最初に友だちになったやつからだった。
「どうしたの、春」
発する声が掠れる。
「どうしたのって。今日学校来てないじゃん。声掠れてるけど、風邪?」
「うん、ちょっと」
「ちょっと、じゃないでしょ。ちゃんと言ってよ、心配するじゃん」
「ごめんって」
どうもこいつは心配性らしい。俺が休むとこうやって電話してくるし、俺が最近、昼休み教室にいない理由もしつこく聞いてくる。
「手遅れになってからじゃ遅いんだよ。もし颯太が家でぶっ倒れてたらそうするのさ」
「親もいるし大丈夫だって。でもありがとう」
「うん。まあはやく治して、明日は学校来てよね」
「ん、じゃあな」
電話を切る。
春と初めて話した時は、年は同じなのにどこか大人っぽく見えて「優しそうなおにいさん」って感じだったんだけど。人っていうのは見た目と第一印象だけでは判断しづらいものだ。
おかゆはまだ少し熱い。再び息を吹きかけ始める。
次春に昼休みどこへ言っているか聞かれたら、なんと答えようか。
食べられないおかゆをかき混ぜて、思案する俺だった。
☆
そこは暗い教室だった。
人はいるのに、みんなが黒い。教室中が暗い。
いくつかのグループになって楽しそうに笑う黒い人たちは、俺がいることなんて気づいていないかのようだ。
俺の横ではしゃぎ騒いでいたグループの一人が、ふざけた勢いでこちらに倒れこんで来た。
「大丈夫?」
尻餅をついた彼に思わず手を差し出す。
けれど彼は、やっぱり俺がいることなんて気付かない様子で立ち上がり、戻って行こうとする。
「待って」
思わず彼の腕を掴んだ俺は、振り返ったその顔に戸惑った。
「ひろ……」
いつのまにか辺りの景色は、教室からあのトイレに変わっていた。
「離せよ」
目の前のひろは怒ったように言う。
「待ってひろ……」
「離せっつってんだろ」
お腹がドスンと痛くなる。その痛さにしゃがみこむと、ひろは消え、今度は辺り一面暗闇になっていた。
「ひろ……」
なおも痛いお腹を抱えるようにして歩きながら、暗闇の中ひろを探し回る。
「ひろ」
歩いても歩いても辺りは暗いばかり。
「ひろっ」
声をいっぱいにしてひろの名前を呼ぶけれど、さっきまで居たはずのひろはどこにもいない。
ひろ、ひろ、ひろ。ひろ、俺は、俺はーー
「お前じゃなきゃ駄目なんだ」
ひろ、と。
叫んだ俺は、暗闇の中でうずくまった。
☆
夕方のベッドで俺は目覚めた。
汗だくの体を起こし、サイドテーブルに置いてあった機能性飲料水を口に含む。
……嫌な夢だった。
思い出さないようにしていたけれど、夢で思い出されてしまった。
昨日ひろに拒絶されたこと。そしてきっと怒らせて、嫌われてしまっているということ。
『ひろ、ひろ、ひろ。ひろ、俺は、俺はーー
「お前じゃなきゃ駄目なんだ」』
……そしてやっぱりそれでも俺は、ひろが好きだということ。必要だということ。
『手遅れになってからじゃ遅いんだよ。もし颯太が家でぶっ倒れてたらそうするのさ』
朝に聞いた春の言葉が思い出される。
「手遅れになってからじゃ遅い」
春の言葉を反芻する。
“ひろに謝らなきゃ”
そうだ。今ならまだ間に合う。明日になってからでは遅い気がした。手遅れになる前に、本当にそうが離れて行ってしまう前に。
急いでベッドを降り、机の上にあったスマホを手に取る。
「あ……」
しかし。
そういえば俺は、ひろの連絡先を知らなかった。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます