第2話「遠ざかる距離」

朝は憂鬱だ。

カーテンの隙間から溢れる光。小鳥の鳴き声。トーストの焼ける匂い。

起きた瞬間に入って来るこれらの情報が、とてつもなく憂鬱感を誘う。

「そうたー」

俺は、呼ぶ母の声に「うぁーい」と変な声で返事をしながら、のそのそと布団から這い出した。

瞬間、世界が回った。そりゃあもうグルンと。

母が走って来る音が微かに聞こえる。

「ーー……?」

なにかを言う母にヘラヘラと笑い返しながら、俺は眠りに落ちた。

単純に言うと『風邪』を引いた。

頭は痛いし、喉も痛いし、鼻だって詰まっていてうまく息ができないから辛くて仕方がない。

でもまあちょうど良かったかもしれない。

母が作ってくれたおかゆを食べようとするが、熱い。冷まそうと息を吹きかけていると、スマホが鳴った。

「もしもし」

「おはよ、颯太」

電話の主は、俺が高校に入って一番最初に友だちになったやつからだった。

「どうしたの、春」

発する声が掠れる。

「どうしたのって。今日学校来てないじゃん。声掠れてるけど、風邪?」

「うん、ちょっと」

「ちょっと、じゃないでしょ。ちゃんと言ってよ、心配するじゃん」

「ごめんって」

どうもこいつは心配性らしい。俺が休むとこうやって電話してくるし、俺が最近、昼休み教室にいない理由もしつこく聞いてくる。

「手遅れになってからじゃ遅いんだよ。もし颯太が家でぶっ倒れてたらそうするのさ」

「親もいるし大丈夫だって。でもありがとう」

「うん。まあはやく治して、明日は学校来てよね」

「ん、じゃあな」

電話を切る。

春と初めて話した時は、年は同じなのにどこか大人っぽく見えて「優しそうなおにいさん」って感じだったんだけど。人っていうのは見た目と第一印象だけでは判断しづらいものだ。

おかゆはまだ少し熱い。再び息を吹きかけ始める。

次春に昼休みどこへ言っているか聞かれたら、なんと答えようか。

食べられないおかゆをかき混ぜて、思案する俺だった。

そこは暗い教室だった。

人はいるのに、みんなが黒い。教室中が暗い。

いくつかのグループになって楽しそうに笑う黒い人たちは、俺がいることなんて気づいていないかのようだ。

俺の横ではしゃぎ騒いでいたグループの一人が、ふざけた勢いでこちらに倒れこんで来た。

「大丈夫?」

尻餅をついた彼に思わず手を差し出す。

けれど彼は、やっぱり俺がいることなんて気付かない様子で立ち上がり、戻って行こうとする。

「待って」

思わず彼の腕を掴んだ俺は、振り返ったその顔に戸惑った。

「ひろ……」

いつのまにか辺りの景色は、教室からあのトイレに変わっていた。

「離せよ」

目の前のひろは怒ったように言う。

「待ってひろ……」

「離せっつってんだろ」

お腹がドスンと痛くなる。その痛さにしゃがみこむと、ひろは消え、今度は辺り一面暗闇になっていた。

「ひろ……」

なおも痛いお腹を抱えるようにして歩きながら、暗闇の中ひろを探し回る。

「ひろ」

歩いても歩いても辺りは暗いばかり。

「ひろっ」

声をいっぱいにしてひろの名前を呼ぶけれど、さっきまで居たはずのひろはどこにもいない。

ひろ、ひろ、ひろ。ひろ、俺は、俺はーー

「お前じゃなきゃ駄目なんだ」

ひろ、と。

叫んだ俺は、暗闇の中でうずくまった。

夕方のベッドで俺は目覚めた。

汗だくの体を起こし、サイドテーブルに置いてあった機能性飲料水を口に含む。

……嫌な夢だった。

思い出さないようにしていたけれど、夢で思い出されてしまった。

昨日ひろに拒絶されたこと。そしてきっと怒らせて、嫌われてしまっているということ。

『ひろ、ひろ、ひろ。ひろ、俺は、俺はーー

「お前じゃなきゃ駄目なんだ」』

……そしてやっぱりそれでも俺は、ひろが好きだということ。必要だということ。

『手遅れになってからじゃ遅いんだよ。もし颯太が家でぶっ倒れてたらそうするのさ』

朝に聞いた春の言葉が思い出される。

「手遅れになってからじゃ遅い」

春の言葉を反芻する。

“ひろに謝らなきゃ”

そうだ。今ならまだ間に合う。明日になってからでは遅い気がした。手遅れになる前に、本当にそうが離れて行ってしまう前に。

急いでベッドを降り、机の上にあったスマホを手に取る。

「あ……」

しかし。

そういえば俺は、ひろの連絡先を知らなかった。

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