余所者

 牧場の朝は早い。

 ココノアは朝早くからウーヴァを起こして仕事を手伝わせていた。仕事は有り余るほどあるし、力仕事をしている父や兄にウーヴァを手伝わせてほしいと頼みに行くと喜んで仕事も任せてくれる。彼女自身も幼い頃から手伝ってきた仕事には慣れたもので、ある程度はウーヴァの側で様子を見ていたものの途中からはすっかり離れて別の仕事にも手を出していた。

 そして、彼女は仕事にも慣れていれば、息抜きのタイミングや隠れ場所探しも手慣れたものだ。今も仔山羊に鼻先を腹に押し付けられながら、干し草の山の麓に寝転がっている。

『ツィーネ。どう? お腹いっぱいになったかな』

 干し草の匂いにすっぽりと覆われながら、ココノアは目を閉じる。もうすぐ昼食の時間になるので眠ってしまうつもりはないが、美味しい土と水で育った干し草は太陽をたっぷりと蓄えていて夜のベッドの何倍も落ち着く匂いがしていた。

『満足しているよ、やっぱりこのあたりのクアルツは質がいいからね』

 クアルツそのものである精霊の食事――エネルギーの補給――はもちろんクアルツだ。土の属性を持つツィーネは土の肥えた場所に漂うクアルツを好み、彼女が帰省する度たんまりと上質な食事を摂っている。

 そして美味しいものを食べてご機嫌になるのは人間だけでなく精霊も同じようで、彼は普段ほどウーヴァに対してかりかりすることもなくまったりとココノアの側を漂っている。

『それならよかった。ああ、そうだ。あと、頼んでいたことも問題ないかな』

「終わらせておくよ、俺のココの頼みだからね」

 心ではなく耳に声が届き、ココノアは目を開いた。

 寝転がった自分の隣に座っているツィーネと目があった。

 突然現れた彼に驚いた仔山羊が驚いた鳴き声をあげ、そのまま駆け足で走り去っていく。

「ありがとう、ツィーネ。助かるよ」

「ココのためになるのなら、幾らでも」

 透き通るような瞳に溜め込んだ暖かい光と同じ笑みで言われ、ココノアも同じように目を細めて口角をあげた。

 と、静な風が二人の髪を揺らした時。

「ココ! またその辺でさぼってるんでしょ! ちゃんとお祈りしなさい!」

 アーリアの怒声が聞こえ、ココノアは先程の仔山羊のように驚いて飛び起きた。ツィーネは額と額がぶつかる前に光をまとって霧散している。

「今からするところ!」

 母親がやってくる気配を感じながら、ココノアは慌てて指を組み、閉じた目を空へ向けた。普段より長い――とはいえ、ようやく標準程度の長さになった空っぽの祈りを捧げ、立ち上がる。髪や背中についた干し草をばさばさと払い落としていると、干し草の裏からアーリアが顔を出した。

「ああ、いたいた。あんたがちゃんとしないでどうするの。ウーヴァ君ったらすっごくお手伝いしてくれてるのよ」

 掃除でもなんでも喜んでやるウーヴァと比べれば、その辺りはおざなりである自覚があるココノアはお利口な返事だけをしておいて、アーリアの隣に並んだ。これから昼食だから母親が呼びに来たことは分かっている。

 二人が同じ毛色を揺らして歩き出す。

「そういえば、あの精霊君とまだ一緒なのね」

「ツィーネならたぶん、その辺りに。呼べば出てくるだろうけど……呼ぼうか?」

 ツィーネは基本的に姿を消しているが、時々ふらっと姿を現しているので全く見かけないことはない。荷物運びなんかはしれっと手伝いに混ざっていたりするくらいだ。

 ただ、アーリアもあえて今その精霊に会いたいわけではないらしく、ココノアの言葉を断ってから隣の髪を撫でた。

「あなたが仲良くする相手は精霊だったり、山の民だったり。忙しいわねえ。普通のお友達もちゃんといるの?」

 ココノアは母親の手をむず痒く思って首の後を軽く掻き、困ったように笑って頭を横に傾いだ。

「これが僕の普通だよ。母さんが言う普通の友達もいるし、ほら、手紙に書くセジャとか」

 そして、くるりと身を翻し、アーリアの前へ躍り出た。背中で指を組み、後ろ歩きで続ける。

「それに、向こうには母さんが思ってるより山の民もいるよ。ウーヴァみたいに生まれ育ちが曖昧な人はあまりいないけどね。……あまり気にしてほしくないな。ウーヴァはよく手伝ってくれるし、素直だ。――あと、ウェルウェルにそっくりだと思わない?」

 からりと笑ったココノアが反対側に首を傾けると、アーリアは困り眉を解いて小さく吹き出した。

 彼女の頭の中にもココノアと同じ大型犬の顔が浮かんでいるはずだ。

「確かに。あの素直さや懐っこさはウェルに似てるかもしれないねえ」

 そして、彼女は隣を歩く娘をそっと見上げる。

「だったら、あんたがウーヴァ君の面倒を見るのも納得できるわ」



 ウーヴァはココノアがいないうちにテティンと仲良くなったらしく、昼食後、彼女が冷えたミルクをごくごくと飲んでいる視線の先でじゃれ合っている。

「隣、いいかな」

 長兄であるユイジュの声が聞こえ、ココノアはぷはっと息継ぎをしてから「どうぞ」と木箱の端に移動した。

 顔も性格も父親に似た兄は穏やかに微笑んでココノアの隣に腰掛ける。

「彼が来ただけで賑やかだね」

「そうかな。テテ兄が賑やかなのはいつものことだよ」

 くだらないことを喋っているのだろう、テティンがげらげらと笑ってウーヴァも背中を叩いていた。家族内でもっとも明るい性格である彼はたとえウーヴァがいなくとも大声で笑うし、どうでもいい話を面白可笑しくしようとしてくる。

「はは、そうかもしれないね。……向こうには彼みたいな人がたくさん?」

「記憶を失くす人は少ないんじゃないかなあ。僕も初めて見た」

 残りのミルクを飲みきったココノアがちょうど通り過ぎた風に目を細めた。真夏の名残がある風は心地よい。

「そうじゃなくて」

「――リアルガーの人?」

 またその話か、とココノアは赤目を細く兄へ向けた。

 宿スミレがある辺りは海の道が近いこともあって、リアルガー出身者にも出会う。宿スミレにいる双子ヘグとメグも褐色の肌を持つリアルガー出身者だ。

 もちろん、普段からそうやって目にする環境であってもリアルガーの民への視線は温かいものばかりではない。何度も問題を起こす国に対して冷たくなるのは当然のことだ。

 ただ、その視線はこうやって田舎へ移るだけでこんなにも温度を下げる。

 ココノアは久々に覚えた閉鎖的な感覚に、ここを出ていった意味を思い出す。

 自身も精霊を側に置く、変わり者だ。

「たくさんってわけじゃないけど、いるよ。お世話になってる宿にも別の人がいるしね」

「気をつけなよ、ココ」

 心地よかったはずの真夏の残り香が、途端に鬱陶しく感じられ、ココノアは息を吐いた。ミルクで冷えた内蔵から出た吐息は冷たい。

「ウーヴァが何かした? 何か気に触ったなら僕から言っておくよ」

「……いや、そうじゃないよ。ただ――ココは気にしなさすぎるところがあるから。彼だって本当に記憶をなくしてるかなんて、定かじゃない」

 木箱から立ち上がったココノアは、すっかり温度を取り戻したコップをユイジュに押し付けた。そして、冷たくなりがちだった瞳を瞬き一つで常温に戻し、ふわりと微笑む。

「あれが演技なら拍手喝采だよ。なんていったって僕を騙してるんだからね。――話はそれで終わり?」

 もう何も言わせない、とココノアが笑みを強めると、ユイジュは小さく息をついてから困ったように頷いた。

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