序章 「古き記憶、始まりの前譚」part3

 左右に振れながら近寄って来る異形。

 それに惑わされず一歩先を予測して、少年は胸三寸の思いを乗せた二発目を撃ち出した。

 ブレを考慮したおかげか、定めた場所へと弾丸は飛ぶが……もう異形はそこにいない。

 着弾前には人間を遥かに凌ぐ跳躍力で高く跳び退いていた。

 満月を背後に異形の姿が黒く中空へ浮かぶ。

 これで弾は残り一発。にも拘らず「掛かった」と少年は不敵に笑う。

 待ち望んでいた好機だと異形の姿を追って瞳を揺らし、跳び退いた先、予想着地位置へと少年は照準を予め定めた。

 ――テメェがどんな化物だろうが羽でも生えてない限りこの一発は避けれねぇだろうよ。

 即ち、それは着地の寸前を狙った一発だ。どんな生き物だろうと、それこそ少年の言うように羽でも生えてない限り、空中を自在に移動することは叶わない。であれば必ず、跳び退いた際の運動エネルギーと重力に従って着地位置は確実に定まる、ということ。

 これこそが少年が異形に唯一勝てる最後の手立て、好機だった。

 そしていま――異形が予想着地位置の雪上へと、定めた照準上へと現れる。

 以前より早く、少年は引鉄を引いている。

 のちに銃声と閃光、吐き出される薬莢。そういった幾つかの動作が視認出来る頃、既に銃弾は夜闇を切り裂き、雪華を散らして、只々真っ直ぐ異形の眉間へと飛んでいく。

 当然、異形は避けれない。避けれるわけがない。

 少年は勝ちを確信していた。なのに――。


 チュインッ、と鋭く短小な金属音。


 それが雪上を滑り、森林を突き抜け、少年の鼓膜を震わせた。

 その後、一瞬時が止まったかのように静寂に返る。まるでこの一戦が始まる前のように。

 少年も何が起きたのか分からず顔を驚愕に歪めて固まっているが……。

 やがて理解を得て我に返ると、

「……マジか」

 諦めを交えて驚嘆した。

 そう、つまり銃弾は異形の眉間に届かなかった。

 到達する前に異形が、その両手に長く生える鋭爪で銃弾を弾いたのだ。

 金属音はそれで生じた。

「銃弾を弾くとか、どんだけ硬い爪だよ……んなもんズルだろ」

 銃口を下ろし、少年は呆れ返る。

 対して異形は、離れたところでつまらなさそうに自身の爪を眺め、それから少年の方へと紅き双眸を向けた。

 それで終わりか? とでも言うように。

 実際、異形の知性から鑑みるにそう言っているのだろう。

 言葉を介さずとも伝わるそれに少年は嘆息をひとつ。

「あぁ、そうだよ。これで終わりだ。もう俺に打つ手は残ってない……テメェの勝ちだ」

 ついで、敗北を認める言葉を吐いた。

 なのに口ほど、目がその色に染まってないのはまだ戦う意思があるから。

 命潰えてないからだ。

 だから「でもよ」と少年は言葉を続ける。きっぱりと、楽しむように、吐き捨てる。

「――このままただ、嬲り殺されるつもりはねぇよ」

 最後まで足掻くと決めたのだから。と、右手に残る役目を終えた拳銃を投げ捨てサバイバルナイフを引き抜いた。

 異形の鋭爪と比べたらあまりにも貧弱なソレが月光を照り返し鈍くひかめく。

 こんなもので奴をどうにか出来るわけがないことは少年もわかっている。それでもその切っ先を異形に向け、軽く揺らす。

 まだ終わってねぇぞという挑発――受けて意味を理解した異形が怒りで声を唸らせた。

 そして一拍、異形が弾かれるように少年へと向かう。弓弦に放たれた矢の如く速さで、降り積もった雪を蹴散らしながら殺意を纏って向かってくる。

 少年は腰を落としナイフを構える。

 せめて一撃と、刺し違える覚悟で。

 果たしてそれが可能かという疑いは振り払って、正面切って挑む。

 途端、視界が一面真っ白に染まった。

「――ッ!!」

 寸前まで差し迫った異形が猛然と進めてた足を止め、地面上の雪を撒き散らしたのだ。

 ――本当、この化物がッ!!

 次から次へと、やはり魔獣とは思えない行動の数々に少年は感嘆と憤りの声を内心で上げ。 雪による紗幕の向こう、横から来る見えない殺意の暴風を掻い潜るべくして腰をさらに落とし、顔を地面に近づけた。

 その頭上を降り被る雪ごと異形の鋭爪が薙いでゆく。まさに間一髪。

 少年は体勢をそのままにぐりんと首を回し、頭上を見上げる。

 そこに振り抜いた末にがら空きとなった異形の腹があった。

 ――ここだ。

 静謐に見開く濃褐色の双眸。奥に光る右手に携えた物よりも鋭利な殺意。

 腹でいい、臓腑を切り裂ければと願い――。

 少年は全身のバネを使って握り込んだナイフを、全霊を以て、振り上げた。


 ……ずぶりと、ナイフの切っ先が数センチ、異形の腹へと埋まる。


 次に衝撃が全身を駆け巡った。


 ***


 違う……オレはこんな無差別に人間を殺したくて力を求めたわけじゃない。

 オレは復讐さえ果たせればと。そう思って……。

 これじゃあオレもあの人間と同じじゃないか。

 こんなことになるのなら声に応じるべきじゃかった。

 望むんじゃなかった。

 あぁ、五月蠅い……声が五月蠅い。

 違う、違う違う違う――!!。

 黙れ、黙れ黙れ黙れ黙れえぇええええぇえ――ッ!!

 

 ***


 気が付けば、見ている景色が森林の切れ間、黒々とした夜天に浮かぶ星々と満月へと一転している。それらが放つ光が眩しく感じ、少年は手で遮ろうとするも腕が上がらない。身体が動かない。おまけに右の脇腹はひたすら鈍痛が連続していて背中は冷たい。

 そこまで思ってようやく「あぁ、そうか」と、自分は異形に蹴り飛ばされたのかと、それで仰向けに倒れているのかと少年は理解した。

 理解して、腹から喉元へと迫り上がって来るものをビチャビチャと仰向けのまま吐き出した。

 口の周りがどす黒い赤に染まる。直接何を吐き出したのかは少年に確認することはできないが、恐らくそれが血であることは本人も分かっていた。

 けど、きっと肋骨が折れて何処かしら突き破ってんだろう。今更その程度にしか思わない。

 絶望を抱くこともない。

 元よりあとは死ぬのみの状態。その中で駆除屋としてやれることは全てやった。あとは訪れる死を待つだけ。寧ろ満足していた。

 そんな少年を覆うようにぬっと、影が差す。

 異形だ。少年が最初につけたもう塞ぎつつある脇腹の傷と、先程つけた腹の傷から血を滴らせて、紅い双眸で少年を凝視している。

 惜しかったな。異形の腹の傷を見て少年は、固くなりつつある表情筋を動かして薄く笑う。

 あともう数センチ刺し込んでいれば致命傷を負わせれたか。あれじゃあ、脇腹と同じくいずれ塞がるな。……悪い。

 フッと笑みを消して最後の謝罪は真摯に、同業者達となによりコニリオの住人達に向けた。

 どうか、この化物が避難先の方へと行かないようにと願った。

 さて、と少年は息をつく。

 こいつは自分をどう終わらせるつもりなんだろうかと考える。

 頭を潰すのか。それとも、その御自慢の爪で肉体を切り裂くか。はたまた内臓を喰らうか。

 なんにせよ、どうせ殺されるならせめての温情で一瞬で終わらせて欲しいが――。

 思考の最中、異形の右手が少年の首元へと伸びてゆく。それで察した。

 ――あぁ、こいつ。苦しめて自分を終わらせるつもりだ。

 期待するだけ無駄だったかと少年は瞼を閉じた。

 異形の巨手が首に巻き付いた。弄ぶようにゆっくりゆっくりと締められてゆく。

 首周りの血管が閉塞し、顔中の血液が鬱血していく。だが少年は苦悶せず、声も上げない。

 それどころか笑みさえ浮かべて、異形の――今やなんら人と変わらぬ――顔に血混じりの唾を吐き付けた。

 わざとだ。異形が激昂すればと。それでさっさと終わらせてくれればとそうした。

 けれど、少年の思った通りにはならない。

 何故か首を絞める異形の手が緩んで離れ、傍から身を退く気配がした。

 ……なんだ?

 気道と血流を解放された少年はハッとまず息を吸込み。閉じた瞼を開いては霞む目で異形を見据えた。

 なにやら異形は頭を抱えてブツブツと呻いていた。その声が届いてくる。

「違う……違う違う違う。俺はこんなこと……うるさい、黙れッ……黙れ黙れ黙れ黙れ黙れえぇええええぇえあああぁあああぁあぁあああぁあああああぁああああああぁあああ――!!」

 何が起きた?

 唐突な発狂に少年は訳が分からず驚くが。

 どういった原因で異形がそうなったのかを考えられるほどの思考力はもはやない。

 意識が保てない。

 ただ、いまだ異形が叫び散らす言葉を朦朧と聞くことしか出来ない。その悲痛な叫びを。

「誰か……た……のむ……オ、レを…………オレヲコロシテクレ」

 異形の願い。それを最後に少年の意識は、昏く深い闇の底へと堕ちた。


 同時に複数の銃声がこの少年が横たわる森林で鳴り響いた。

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