序章 古き記憶、始まりの前譚

序章 「古き記憶、始まりの前譚」


 ――F.S.フォラストリエ暦1292 ティアベスの月 第39陽 ロスティア共和国バルベラ州、辺境の町コニリオ。


 時は夕刻。

 降雪によって生まれた白銀の世界に赤と橙の色が灯っている。

 ひとつは西に傾いた陽の光。

 ひとつはこの世を焦がし尽くさんとうねる劫火。

 その二つが交わる場所。木々生い茂る山麓にありしコニリオという町の中心――家屋という家屋が燃え、最も火の手が上がる此処に二つの人影があった。

 ひとつはまだ顔に幼さが残る黒髪の少年。雪の残る冷たい地べたに尻をつかせ、まだ燃え移らず無事なままにある家屋の壁面に、意識がないのかぐったりと背中を預けている。

 ひとつは人になりかけた獣。あるいは獣になりかけた人か。どちらなのかは判然としないが、その者は人の肌でありながら狼や狐のように口元が尖り牙を覗かせ、背中側の皮膚からは灰色の毛が伸び、手足の爪は異様に鋭い。いわゆる異形や化物と呼べるような存在が二足で立ち、黒髪の少年を忌々しそうに睨んでいる。

 彼ら二人だけが、とっくに町の人々が避難した後、白銀を塗りつぶさんと黒煙たちこめるこの場所に未だ残っていた。

 それもそのはず。

 何故ならこの町の惨状を作り出したのはこの異形の者であり、それを食い止めようと奮闘したのがこの黒髪の少年なのだから。

「マち……を、コワせ……ヒトを……クい、コロせ……マチ――」

 火を見るよりも明らかな状況下。異形の者は憎悪を滾らせたとても正気とは思えない人の眼で、覚えたての言葉を発する赤子のように同じ言葉を繰り返しては一歩また一歩と、意識のない少年へと足を進めていた。

 その度に異形を包む黒煙が揺れ、雪を踏み鳴らす音が少年に刻一刻と危機が迫っていることを知らせていた。当然、意識のない少年にそれを気付く術はない。

 しかし直後――異形の背後に建つ家屋が爆ぜる。

 爆薬か火薬庫でもあったのか。そう思えるほどの轟音が轟くなか、爆風に混じって燃える端材が辺りに降り注ぎ、熱波が異形と少年の皮膚を叩いた。

「マち……を、コワせ……ヒトを――」

 それでも異形は全く意に介した様子もなく変わらず言葉を繰り返すだけだが、少年はそれでようやく。

「……ぁ?」

 目が覚めた。

「――――!? チッ!!」

 事態が飲み込めないといった顔はほんの一瞬。少年は濃褐色ブラウンの双眸で眼前の状況を捉えると、すぐさま自身と異形の関係、そして置かれた状況を思い出しては舌打ちをした。

 いつから意識を飛ばされてた?

 それから冷静に、されどあり得ないことだといった心情で内心吐き捨てる。

 実際、少年からしてみれば本来ならあり得ないことだった。

 この異形の者から後れを取ることなんて。

 何故なら少年は駆除屋だ。

 駆除屋とは、ロスティア共和国政府の軍部直轄の元『民間による魔獣討伐』を目的にした傭兵、又は傭兵団のことをそう呼ぶが。少年は十二歳という若さでその道の専門家プロフェッショナルだった。

 依頼主や同業者からの評価も高く、少年自身もそれを誇りにしていた。

 だが今、その誇りは深く傷付けられている。

 気絶する以前の記憶では自身の繰り出す銃撃や斬撃、罠等の魔獣狩りで用いる術を悉く回避されており。そして気付けば今の有様。

 今まで魔獣風情にここまで追い詰められたことはない。おくびにも出さないが、かつてない強敵に少年は初めて焦りを感じていた。

「ふぅ……」

 一度、気持ちを落ち着けるため浅く息を吐く。すると額から顎先へと汗が垂れた。

 恐怖はない。なら、なんの問題もない。次こそ仕留めきる。

 少年は再び異形と対峙しようと立ち上がろうとする。

「……あ?」

 だが、左腕の裾を何かに掴まれているようでうまく立ち上がれない。

 その異変に少年は気付いた。

 気付いてしまった。

 スッと、少年は掴んでいる何かに視線を向けた。

「……はは」

 思わず嗤った。

 それは、掴まれているといった暢気な考えをしていた自身に対する乾いた嗤いだ。

 現実はもっとエグい。

 潰れていた。……左腕の肘から先が全て。

 そして代わりにと、そこにあるのは少年の体躯を優に超える無骨な大岩。

 つまり少年の腕は、その大岩と家屋の壁面に挟まれて圧し拉がれており、感覚を失ったソレと一緒に挟まれた防寒着の裾が掴まれているという思い違いを招いた。

 何故こんなことに? といった疑問が頭に浮かぶが、それは逃避だ。

 もう少年は全部思い出していた。気絶した原因がこの異形から放たれた大岩であることも。自身の敵う相手ではないことも。

「……まずい」

 ついて出る本音。先程ばかり内に秘めた言葉と勇猛さを打ち消す恐怖。

 正面に向き直ればごくゆっくりと確実に迫りくる異形。死の想像が脳裏に浮かぶ。

 やるしか……ないか。

 悠長に迷ってる時間はない。少年は動かせる右腕で太腿に提げた革鞘からサバイバルナイフを抜いた。

 死の恐怖に蝕まれようとも、こういった局面で最善の判断が出来るのは間違いなく今まで駆除屋としてやってきた経験の賜物だった。


 たとえそれが、自身の左腕を切断するということであっても。


 どっちみちこれだけ拉げていれば二度と使い物にはならない。

 今は何としてでもこの場から逃げなければ只々死ぬだけだ。

 そう割り切るべく、僅かな躊躇いと共に、ナイフを大岩の側面に沿うようにして突き立てた。

「がぁ――!!」

 鮮血が飛び散り、鋭い痛みに一瞬声を上げるがなんとか噛み殺す。

 神経が既にぐちゃぐちゃなお陰だろう。想像を絶するほどの痛みではなかった。

 続けて、グッと噛み殺した勢いのままナイフを縦に引く。

 すると呆気ないほど簡単に、肉体の一部であった左腕は持ち主から切り離された。

 よし……あとは止血だ。

 切断口から夥しい血液が垂れ流れているのにも拘らず、取り乱すことなく防寒着の内ポケットから道具を取り出す少年。道具は硝子製の細い筒に短い針が先端に三本という形状をしており、少年はその先端を血に濡れた袖を捲り上げて左腕へと刺し込む。と、翡翠色の光輝が皮膚と道具の間で粒子状に溢れ出した。

 粒子は瞬く間に幾何学模様へと変貌し、その効果は目に見える形で左腕に顕れる。

 組織再生、もっと簡単に言えば治癒だろうか。肉と骨が見える切断口に薄皮が張り、次第に真新しい皮膚へと成った。

 これで取り敢えずは失血死の可能性は薄まったか。少しだけ少年は安堵するが、それでも失った血量は少なくない。異様な気怠さと冷えを感じる身体がそれを証明している。

 そして何よりも――。

「あとは、問題のこいつか」

 一番の危機は去っていない。

 少年は立ち上がり、異形を見据えた。

 視線を受け取った異形もピタリと足を止める。

 二人の間は距離にして10m、互いに吐く息がその場で白く漂った。

 そして消えると同時、少年は動く。

 強く地面を蹴りだし雪が舞う。向かうは町から離れた森林地帯――町の人々が避難した方向とは真逆の場所へと全力で走った。

 避難先の方には同業者の駆除屋達がいるのでそちらに逃げる選択肢もあったが。仮にもし誰もこいつを止めることが出来なかった場合を考えると、その選択肢はどうしても取ることが出来なかった。故に少年は孤軍、森林にて戦うことを決めた。

 勝つつもりは毛頭ない。手段も今はない。避難を終え、援軍が来るまでの時間稼ぎ。一か八かの賭け。生存確率は恐らく0に近いが、それが駆除屋として導き出した少年の作戦だ。

 だが異形もまた、眼の前の獲物を狩るべく動いている。

 獣の如く四足で雪路を駆け、あっという間に少年との距離を詰めていく。

 迫る殺気を背中で感じ取り、少年はチッと舌打ちした。

「さすがに速いな」

 少年も足の速さには自信があったが、獣の足には当然劣る。

 このままでは町から抜けることもなく捕らえられるのは明白だが、少年も無策ではない。

 それを示すように腰の拳銃嚢ホルスターから銃を抜く。

「こういうのはどうだ」

 吐き捨てながら一瞬だけ振り返り、二度引鉄を引いた。

 乾いた音が鳴り響き、銃弾が二発、間隔を空けて地面に着弾する。

 焦って狙いが逸れたわけじゃない。敢えてそこを狙った。というのは、着弾地点から先ほど少年の使った道具から顕れたものとよく似た幾何学模様が浮かんだことで分かる。

 異形はその模様に足を踏み入れた。直後、地面が隆起する。

「――ッ!?」

 危機を察知した異形が横に跳ぶ。

 驚異的な反応速度だが、半分獣が故に知らないのだろう。凍った雪路での咄嗟の行動は足を滑らせる。そして剥き出しの脇腹に岩槍が掠めた。

 異形といえど痛覚ぐらいはあるらしく、狼とも人とも区別がつかない咆哮が少年の後ろで上がる。

 少年は走り続けながら首だけを回しどうなったかを確認すると、上出来すぎる結果に「よし」と表情を動かすことなく呟いた。

 欲を言えば今ので仕留めたかったが、そう易々とやられてくれる相手じゃないのは先の戦いで十分理解している。今は足止めさえできればそれでいい。だからこそそういった意味での上出来だった。そして狙い通り、異形は一撃を喰らい明らかに失速していた。

 その隙にと、少年は森林へ身を転がした。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る