星に名前なんて要らない

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星に名前なんて要らない

「星に名前なんて要らない。そう思いませんか、先輩」


 そう、後輩が言ったことを覚えている。次第に暗くなっていく夕空の下、重くて大きい望遠鏡を、二人で組み立てていた時のことだ。


「名前が要らない? どうして?」


 僕はきっと、少し困惑した顔をしていたに違いない。後輩は望遠鏡を固定するためのねじを留めるためにしゃがみこんでいたが、不意に顔を上げた。


「星にでも何にでも、名前をつけるのは人間の悪い癖ではありませんか」


「そうかなあ」


 後輩は僕の曖昧な言葉にも眉一つ動かさず、また作業を開始した。静まり返った屋上。僕たちが作業している場所とは少し離れた方向から、微かに他の部員の騒ぎ声が聞こえてくる。望遠鏡をセットするのは、僕と、不可思議な疑問を呈したこの後輩とに任されている。その間、他の部員は屋上の隅で談笑したり星図を掲げたりしているのだった。


「俺が言いたいのは、ですね」


 後輩は一旦言葉を区切り、間を置いた。レンズの向きを確かめながらセットして、またもねじをくるくると回す。僕はすっかり手持ち無沙汰で、その働きを監視していた。


「そこにあるだけのものに――いや、光に、名前なんて付けてどうするのかな、ってことなんです」


「ふうん?」


 さっき言われた時と同様によく理解できず、僕はまたも間の抜けた返答をする。しかし彼はため息をつくこともなく、てきぱきと作業を進めていく。


「俺は星が好きです。だから、正直言って、それの名前なんてどうだって良いんです。そこに星がありさえすれば、俺はもう満足です」


 夕陽がゆっくり沈んで行き、僕たちの後ろから夜が迫ってくる息遣いが聞こえる。後輩は作業を終えて立ち上がった。実は彼は、僕よりも数センチ背が高い。彼は僕を見下ろした。


「先輩も、星が好きでしょう」


「まあ、好きだよ」


「なら、俺の言う事、理解しては頂けませんか」


「ううん……」


 難しいな、と僕は考えた。彼の言う事を理解するというのは、難しい。人間が何かに名前をつけるのは、他とそれとを区別するためのはずだ。なら、星に名前を付けるのだって、そんなにおかしいことではないと思う。


「僕は別に、星に名前が不要だとか、そういうことを思ったりしたことはないな。面白い考えだとは思うけど」


「そうですか」


 後輩は一瞬顔を歪めたが、すぐにいつも通りの堅苦しい表情に戻った。


「変な話をしてしまってすみませんでした」


 そう言って、彼は頭を下げた。僕はそれに対して何を言ったのだったか……今となっては思い出すことが出来ない。ただ、あの時の彼の表情を思い出すと、辛くなる。


 彼は理解して欲しかったのだろう。


 あの、過ぎ去ってしまった高校時代を回顧する時、楔のように頭に引っ掛かって離れないのが、この、彼との会話だった。あれから僕は受験で忙しくて部活に顔を出さなくなり、彼と会うこともなくなった。いつも真面目な目つきで、一人佇んでいた彼は、僕が去ってから部活内でどのように振舞っていたのだろう。親しい友人をつくろうともしなかった彼は、いつでもどこか浮いていた。僕も、望遠鏡を組み立てる間の数分間くらいしか、彼と話したことはなかった。




 彼は死んだ。


 僕よりも二歳年下だったはずだから、享年は四十五歳。


 死亡したことを知ったのは、同じく天文部の後輩から簡単なメールがきたことによる。死んだことは分かったが、僕はあいにく彼の住所も電話番号も、葬儀会場も知らない。だから、彼がどういう顔で死んだのかは分からない。


 でも、彼は、あの時歪めた、あの表情のままで死んでいったのではないかと僕は思っている。誰かに理解してもらいたかった彼は、哀しそうに、たった一人で死んでしまった、きっとそうに違いない、と、僕には思えてならないのだ。そして、彼が死んだ原因は、僕にあるのではないかとも。


 それは本当は遠く、小さな、原因の一つとも言えないような、取るに足りないものなのかもしれない。けれど、あの会話が遠因となって、彼は死んだのではないか、という思いは、いつでも僕の頭をよぎる。そしてその考えだけが、パズルのピースがかちりと合ったような、すっきりとした解答――唯一つの――なのではないかと、思えてならないのだ。




 星は遠い。


 永遠に触れることは出来ない。




 見上げる夜空に、僕は名前を求めることを止めた。

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