三角海域

 時がゆっくりと流れていくのを感じた。

 ノートにペンを走らせる音だけが、頭の中で聞こえている。その瞬間、僕は現実から乖離し、詩の中に入っていく。

 綴られる言葉のひとつひとつが世界を少しずつ作り上げ、輪郭をはっきりさせていく。僕は傍観者としてその世界を見つめ、完成すると同時に、あちらの世界へと戻る。

 僕にとって、現実こそが仮想世界なのだ。本来の世界は、ノートの中にある。詩の中にある。言葉の中にある。

 WORLD(世界)とWОRD(言葉)は少し似ている。その世界を隔てるものは「L」だけだ。

 それなら、そのLを探し出せば、僕はこの現実という仮想から抜け出て、詩の世界へと旅立てるのではないか。そんな風に考えている。

 いつも僕は、Lを探している。単語としてのL。響きとしてのL。頭文字としてのL。だが、つかめない。そこにあるのは、どれもただのLにしか過ぎなかった。

 僕は、僕という存在を消し去ることはできない。この仮想世界に縫い付けられた僕という存在。それを消し去るのは、死しかない。

 だが、それでは意味がない。肉体を失った先に宗教などが語る天国のようなものがあったとしても、それは僕が望むものではない。

 僕は死で楽になりたいわけではない。詩で自由になりたいのだ。

 ノートにペンが走る。滑らかなペン先、緩やかなカーブを描く文章。美しい詩を書きたい。もっと美しい詩を書きたい。

 僕がまだ大学にいたころ、所属していた文芸サークルに、詩を愛する男がいた。商業的側面や学術的側面にとらわれず、ただ詩を愛する男。

「赤。という表現ひとつでも、いろいろな言い方があるだろう。英語にしたり、抽象化したり。変化を加え、赤を強調する。でも、究極系は、ただそこに赤とあるだけで詩人のイメージを読み手の脳内に浮かべることだと思う。一枚の写真が、誰かの頭の中では一本のフィルムとなり、映画となるようにね」

 彼はそんな風に語り、熱い議論を交わすサークルのメンバーとは離れたところで、いつも詩を読み、詩を書いていた。

 彼は、ペソアやボルヘスなどを好んで読んでいた。どこか掴みどころのない言い回しや、膨大な知識と引用の素晴らしさは、それらの詩から得たものだったのかもしれない。

「君はどんな詩を書きたい?」

 いつだったか、彼は僕にそう訊いた。僕は何も答えられなかった。詩について語ることが楽しかった。彼の膨大な知識と、その表現に触れるのが楽しかった。

 その時僕は、傍らに置いていた自分のノートを見た。数ページだけしか書かれていない、詩のノートを。僕もまた、言葉を消費するだけのサークルメンバーと同じになっていたのだと、その時初めて気が付いた。

 そんな僕を、彼はじっと見つめ、それから、笑った。

「これを君に持っていてほしい」

 彼はそう言って、僕に小さな鍵を渡した。鍵付きノートを解錠するための小さな鍵だった。

「大切なものだから、なくさないでくれよ」

 僕は頷き、その鍵を受け取る。そうして、いつものように彼と詩について話し始めた。

 彼が自殺したのは、その日の夜だった。


 追憶が邪魔をして、ペン先がぶれる。だめだ、だめだ。もっと深く詩に入りこまなくては。だが、それでも頭の中で、彼の顔が、声が、言葉が響いている。響き続けている。

 彼が死んだと教えられ、僕は放心した。ただ、同時に嬉しくもあった。この鍵は、彼のノートのものだろう。それなら、彼は自分の詩を、僕に遺したということではないか。

 彼は、僕を同志と認めてくれていたということではないか。

 葬儀の席で彼の両親に、遺書にあなたに渡してくれと書いてあったからと鍵付きのノートを渡してもらった時、僕は喜びでいっぱいだった。笑みが漏れるのをこらえるのに必死なくらいに。

 家に帰り、彼からもらった鍵で、ノートを開けた。

 ノートは白紙だった。

 末尾にだけ、小さな書き込みがあった。

『白紙の君へ捧ぐ』

 その時から、僕は呪いにかけられたのだと思う。僕はすべてを否定されたのだ。君の未来はまだ白紙だから可能性があるということだろうと誰かは言うかもしれない。

 違う。これは、訣別だ。彼が僕へと送った最大の軽蔑だ。

 僕には何もない。詩がすべてだと思っていた。でも、それは彼のような純粋さとは程遠いものだった。

 同志だと思ってくれていた? 真逆じゃないか。



 ペン先が震える。乖離した世界が、次第に僕に張り付いてくる。仮想の世界が、仮初の世界が、僕に自覚しろと訴えてくる。

 音が聞こえる。ペンが走る音じゃない。

 騒音。町の音。

 違う。違う違う。

 僕は没頭する。詩の世界へ。もっと遠く、詩の世界へ。Lの意味を、Lの……。

 ふと、手が止まる。

 詩と世界を隔てるL。欠かれたL。

 「L」ACK。

 ああそうか。欠かれているのだ。

 世界から欠くことが、WORDの世界への行き方だった。

 でも、どうすればいい? 君のように、死を選べばいいのか? いや、違う。君はたぶん、死んだのではない。この世界から欠かれたのだ。君は、Lになった。選ばれたんだ、詩の世界に。

 僕は、君のようになれるだろうか。

 僕は、Lになれるだろうか。

 自信がないよ。もう疲れてしまった。

 ペンが止まる。

 音が聞こえた。

 現実の音が。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

三角海域 @sankakukaiiki

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

カクヨムを、もっと楽しもう

この小説のおすすめレビューを見る

この小説のタグ