何処〈ドコ〉

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何処〈ドコ〉

 ある時、妻に頼まれて表の店へ買い物に行った。


 妻の顔なじみの店であるらしいが、私には何の関係も無い所だった。少し気後れしながら、私は深い緑色をした必要以上に大きい、店の暖簾を潜った。外から見た限りでは小ぢんまりとしていたように見えていたのだが、中は信じられないほど広く、又いやに賑わっていた。ざっと見た限りでも、この店内には四、五十人ほどの人間がいる。


 驚きに声も出ない私に、店員らしい男が声を掛けてきた。




「嗚呼先生、いいところに来なすった。丁度今、先生を呼ぼうと思ってたんでさ」




 先生とは誰のことか知らないが、店の男は言いながら私を見つめている。じっとりと湿った汗っぽい手で、私の手を握りさえした。なにやら私を、その「先生」と間違えているらしい。


 誰のことを言っているのかは存じませんが、私はその、あなたが言う「先生」ではありませんよ、と説明したが、男はこれを笑って流してしまった。




「いつもそういう冗談をお言いになる。まあともかく、うちの妻が患いましてね。ささ、早くおあがりなすって」




 意味もわからないまま、私は男に連れられて、店員用の勝手口を通り抜けた。喧騒が段々と遠ざかり、私と男だけが、店の奥へと続く長い廊下を歩いている。


 男は時折、何かを呟いて、密かに一人で笑う。歩く内、私はこの男が不気味に思えてきて仕方なかった。男は笑う時、ちらりと私を盗み見て、下卑た声できしし、と笑った。その度に、私は胸の奥で不快な嫌悪感が渦巻くのを感じた。


 男は、狐のように細い眼をして、烏の様に痩せていた。店のものらしい手拭いと腰巻を身につけていて、何処と無く身軽で、飄々としていた。そして時々私に話しかけたが、それは「先生」に対しての問いであって、私には答えようが無いので黙っていた。男はそれでも構わずに延々と喋り続けた。元から私の存在を無視しているようにも思えた。しかし、私は男の後を付いていく。


 だいぶ歩いたと思った頃だろうか、私はふと、何故私は「先生」でもないのにこんなところをこんな男の後についていかなければならないのか、と思って、引き返そうと考えた。この間にも、男は喋り続けている。私の方を見もしない。これなら、私がいなくなっても気づくまい。そろそろ引き返して、妻に頼まれた買い物を済ませて帰ろうと思った。


 しかしその時、男の足は止まった。一つの襖の前だった。




「先生、お疲れ様でした。ここです」




 ここに、男の妻がいるというのだ。


 私はもう、どうにでもなれと思って、男に頷いて見せた。男は黄色い歯を見せてにたりと笑った。愛想のつもりだろうか。私は背に怖気を感じながら、男が襖を開けるのを見ていた。




「どうぞお入りください。では」




 仕方なく私は、薄暗い部屋の中を見回した。ここに、男の妻がいるのだろう。


 だが、その姿は見当たらない。部屋の中には小さな灯が一つ。小さな机が一つ。上には何も載っていない。部屋の真ん中にはきちんと布団が一組、敷かれていた。てっきり男の妻は其処に寝ているものと思ったが、近づいてみると其処には誰もいなかった。


 いよいよ困った。妻が患った、と言っていたから、病人には違いない。でも、居ない。居ないということは、帰ってもいいのだろうか、と考えたが、その時声がした。




「先生、おいでくだすったんですね。有難う御座います」




 少し弱弱しい女の声で、部屋のどこかからかぼんやりと響いて聞こえた。


 私は、何処から聞こえたのか、とあちこちたって歩いてみた。だが、この部屋には人が入れるような押入れなどは一切無い。女の声はくすくすと笑って、




「先生、何をうろうろなさってるんですか、此処です。此処ですのに」




 女はそう云うが、私にはその姿が全く見えてこない。未だうろうろと彷徨う私に、女は少し苛立った様子で云う。




「先生、此処ですと云ってるじゃないですか。此処ですと言っていますのに」




 とげを含んだ甲高い声。


 それでも、私にはその女が何処にいるのか全くわからない。段々、女の声は益々高くなっていく。「此処です」「此処です」私の耳元か、それとももっと遠いところなのか。「此処です」「此処です」女の声は止まず、それどころか大きくなっていく。私はもう、完全に恐ろしくなってしまった。こんなところにこれ以上いてはいられない。こんなところにいたら、気が触れてしまう。


「此処です」まだ女の声は部屋中に響いていたが、私は襖を開けて部屋を出た。




「こ」




 女の声は、襖一枚で完全に遮断されてしまった。私は、いつ女が姿を現すか知れぬと思い、急いで廊下を歩き出した。


 一本道なので迷わずに勝手口までたどり着くことができた。店は相変わらず繁盛しているようだった。


 私は男に見つからないうちにと、また急いで店内へ入った。すると、何処かからかあの男の声が聞こえてきた。




「先生、先生じゃないですか」




 一瞬、また私のことを言っているのかと思ってはっとしたが、どうもそうではないらしい。あの店の男は、別の――私とは違う男に話しかけているようだった。その男もまた、私と同じような弁解を試みていたがしかし、店の男は、私のときと同じようにその男を連れて、勝手口へ行ってしまった。


 私はそれを見送って、ただ黙っていた。しばらくしてから妻に頼まれていた買い物をし、帰路に着いた。


 外はもう、真っ暗だった。

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