空色の狐と僕

妖狐ねる

第1話「空色の狐」

 空は清々しく晴れ渡り、強い日差しが街を照らす。それが木々の葉を通して穏やかな木漏れ日に変換され、心地よい明るさの黄緑色の光が視界を包み込む。森全体がしっとりとした清涼感を伴う空気で満たされており、暑苦しい外の世界から一転、ゆったりと落ち着いた時間が流れる。そうして外界から隔離された結界の中で、クマゼミたちの生命力溢れる律動だけがこだまする。


 涼風市すずかぜしの東側に広がる天然の森──この地は古くから「木漏れ日の森」と呼ばれ大切にされてきた。……いや、「大切にせざるを得なかった」と言った方が正しい。この森には「妖狐が棲む」だとか「天狗が出る」などといった様々な言い伝えがあり、むやみに踏み入ったり荒らしたりしてはならないと言われているのだ。

 十数年ほど前にこの森を切り拓いてニュータウンを作る計画が立てられた際、工事の下見に来ていた関係者たちが原因不明の熱に浮かされて次々と倒れ、祟りだと騒がれて計画が白紙になったという話もある。もちろんこれは極端な例であり、悪意のない地元の住民にとってはごく普通の森であった。


 そんな森の中に、彼女はいた。木の上に寝転がってくつろいでいるその少女は、一見しただけでは少年と間違えるような見た目をしている。健康的に日焼けした肢体に、黒のショートヘア。オレンジの半袖Tシャツと黒の膝丈ハーフパンツ。全体的に飾り気のない服装に対し、透き通るような青色をした勾玉のペンダントが目を引く。

 衣谷いたに のぞみ、16歳。涼風市内にある喫茶店「喫茶こもれび」の娘で、この森には幼い頃から毎日のように通っている。ここは彼女にとって第二の自室のようなものであり、特に用がなくても自然と足が向く場所なのだ。


◆第1節 衣谷臨と空色の狐◆


「うーんっ!」


 息を吸い込み、大きく背伸びをする。葉っぱの隙間から差し込む太陽の光が、私の気分を高まらせる。

 夏休みを目前に控えた土曜日──私は昼食をとった後、いつものようにここに来ていた。明日は日曜で、明後日は祝日。今日を含めたこの3連休は、いわば夏休みの体験版のようなものだ。私はお気に入りの木の上で寝転がって、この夏をどう過ごすかをのんびりと考えていた。


≪……?≫


 不意に妙な気配を感じて、体を起こした。“人ではない何かが近づいてくる”……そんな気がする。いわゆる第六感というやつだろうか。懐かしさと恐ろしさが入り混じったような、不思議な感覚。気配の正体を探るため、耳を澄まし、周囲を見回す。辺りには依然としてクマゼミの声が響き渡り、ほかには木々を揺らす風の音くらいしか聞こえない。


 10mほど離れた木の陰から、何かが向かってくる。拳ほどの大きさの、青い光。ぼんやりとしていて、意識していなければ見失いそうなほど儚げな光。それが風に乗って流れてきたかのように、ゆったりと私の方へ飛んでくる。

 光が体に触れたかと思うと、すうっと溶けるように消えた。同時に、今まであった漠然とした奇妙な感覚が、言葉にできない焦燥感に切り替わる。“初めに感じたのとは別の何かが近づいてくる”……理由はわからないが、確かにそう感じられた。私の体は、その直感に呼応するように木から飛び降り、辺りを警戒し始める。


 相変わらずセミが鳴き続ける森の中で、視界の端に赤い光を捉えた。さっきの青い光とは違う、ハッキリとした光──火の玉だ。3、4個の火の玉が、雨が降る前のツバメのような軌跡を描きながら、高速でこちらに飛んでくる。明確な敵意を持った動きと、ギリギリ目で追える程度の速度。


≪ダメだ、避けられない!≫


 そう思った瞬間、私の体が勝手に動いて、最初から火の玉の軌道を知っていたかのように軽やかに身をかわす。


≪悪いけど、ちょっと体を借りるよ≫


 混乱する頭の中に、そんな声が聞こえた気がした。


 私の横を勢いよく通過していった火の玉は、後方で折り返し、また私に向かってくる。再び私の体は私の意志とは無関係に動いて、火の玉を回避する。その動きが終わるか終わらないかのうちに、今度は地面を蹴って走り始めた。──速い。私は元々足が速い方ではあるけど、普段の何倍も速く走れている。そして唐突に跳び上がったかと思うと、虚空に向かって回し蹴りを繰り出した。確かな手応えとともに、ズン、と鈍い音がして、私の右足が抉った空間が揺れる。


 着地と同時に振り返ると、そこにはよろめく少女の姿があった。灰色のレインコートに身を包んだ、細身の少女。年齢は10代前半くらいだろうか。少女は私が心配する間もなく体勢を立て直すと、鋭い視線で私を睨みつけた。


「お前……七星ななほしか?」


 私の口が勝手に動き、少女はその言葉に反応を示した。無言で身構え、警戒しているようだ。その所作は人間とは思えないほどに獰猛で、何を考えているのか全く掴めない。当然、私は目の前にいる少女との面識はなく、「七星」という名前も知らない。この少女は何者なんだ?さっきの火の玉は彼女が出したものなのか?だとすれば、なぜ私を狙ってくる?──そんな疑問が次々に浮かぶ。


「七星、その鏡をどうするつもりだ」


 また私の口が動く。よく見ると、少女は左手に何かを持っている。直径20cm、厚さ2cmほどの灰色の円盤。先程の言葉通り、それは鏡のようだ。少女は鏡を胸の前に持ち、鏡面に触れた。水面に水彩絵具を垂らした時のように、鏡面が赤く染まる。そのままゆっくりとこちらに傾けて──。


 パァン!


 セミの声に紛れ、どこからか破裂音が響き渡る。少女の持っていた鏡が手を離れ、地面に転がる。音のした方に目をやると、眼鏡をかけたポニーテールの少女が小さな銃を構えていた。その横から、黒いタンクトップを着た浅黒い肌の少年が、太く長い木の枝を持って走ってくる。

 七星と呼ばれた少女が鏡を拾い上げて私の方を一瞥すると、その姿は歪んで見えなくなった。


「消えた!?」


 タンクトップの少年が助走から立ち止まり、辺りを見回した。どうやら、既に彼女はこの場にいないようだ。


「リンちゃん、今の人は?」


 ポニーテールの少女が口を開いた。彼女の名は岡崎おかざき 皆美みなみ。私の幼馴染で、一つ年下の中3である。水色のメガネと短くまとめられたポニーテールから知的な印象を受ける少女で、そのイメージ通り、小学生の頃から学年トップの成績を維持する優等生だ。その手には、彼女の父親が“護身用”と称して作った「爆裂ゴム鉄砲」、通称「爆ゴム」が握られている。


「っていうか……今のは人間なのか?」


 タンクトップの少年が、私の顔と少女が立っていた辺りを交互に見ながら尋ねた。彼の名は霧島きりしま 闘也とうや。皆美と同じく私の幼馴染で、こちらは一つ年上の高2だ。幼い頃から「闘う男」に憧れる熱血漢で、日々筋トレに励んでいる。燃え盛る炎のような髪型にタンクトップ、ジーパンという格好も、彼の中の「闘う男」のイメージらしい。祖父の道場で棒術を教わっているので、手にした枝は立派な武器だ。


「わからない。急に火の玉が飛んできて──」


 そこまで言った時、私の言葉は私自身の口によって遮られた。


「僕から事情を説明するよ」


 それは、さっきから私の体を動かしている何者かだった。闘也と皆美が不審そうな表情で私の顔を覗き込む。


「僕は空狐ソラ。この森に棲んでいる妖狐だ」


 それを聞いて、私には思い当たるものがあった。「空色の狐」……涼風市に伝わる妖狐の伝説の一つだ。この地には遥か昔から空色の体毛を持つ妖狐が棲んでいると言われ、様々な逸話が残されている。中でも有名なのは、平安時代に人々を苦しめていた鬼をこの森で退治したという伝説だ。幼稚園の頃にこの話を絵本で読んで以来、空色の狐は私にとってヒーローのような存在になっている。

 しかし、伝説は伝説。そんなものが実在するとは思っていなかったが……。


≪うん、それは僕のことだ≫


 今度は私の口からではなく、頭の中で聞こえた。まさか、声に出さなくても通じるのか?


「今、僕は自分の肉体を持っていない。だからこうして彼女の体を借りているんだ」


 私の疑問に対する答えも兼ねるかのように、ソラは声に出して言った。


「さっきのは黒狐七星……僕と同じ妖狐だ。あいつが襲ってきたのは、この『空の玉』を狙ってのことだと思う」


 ソラは、私が着けているペンダントを指して言った。このペンダントは、母さんがお守りとして私にくれたものだ。透明感のある青色の勾玉で、小さな窓の向こうに青空が広がっているかのように見える。母さんはとても大切なものだと言っていたけど、具体的にどう大切なのかはよくわかっていない。


「今から300年ほど前、現世と冥界を繋ぐ『現冥境げんめいきょう』という扉が作られた。この玉はその扉の一部、『三種の神器』の一つなんだ」


 現世と冥界を繋ぐ扉?三種の神器?マンガの話か中二病の妄想としか思えない現実離れした話だ。とはいえ、じゃあ火の玉を飛ばす謎の少女や、私の体を勝手に操る存在が現実離れしていないのかと言われると……。

 私は、改めて自分の体を意識してみた。確かに自分の体のはずなのに、どこか遠いように感じられる。試しに手を動かしてみると、心なしか重い気がした。


「七星が持っていたのは『魂の鏡』。空の玉と同じく神器の一つで、本来はそこの神社に納められていたものだ」


 ソラは私の手を使って街の方角を指した。この森の外には小さな神社がある。この地に棲む妖狐を祀っているらしく、小さいながらも大切にされている場所だ。そういえば、あの神社の奥にある鏡は、さっき七星が持っていたものだったような気がする。


「七星が鏡を持って逃げるところをたまたま見かけて、それを追いかけてきたら臨がいた、というわけだ」


「……んで、あいつはそれを盗んでどうするつもりなんだ?」


 闘也が尋ねた。こんなぶっ飛んだ話でも、彼らは真剣に聞いてくれているようだ。


「あの鏡には、『鏡越しに見た者の心を読む』って力がある。けど、七星がそれを目当てに鏡を持ち出したとは考えにくい。それに、あいつは空の玉を持った臨に襲いかかってきた。ということは……」


「現冥境の、復活?」


 皆美が言った。


「そう考えるのが妥当だろうね」


「何のために?」


 今度は私が尋ねる。


「わからない。かつて現冥境が開かれた時には、冥界から溢れ出てきた亡霊によって大勢の死者が出た。七星は人間嫌いな性格だから、それで何かをしようとしているのかもしれない」


 そうか、この街の妖狐の伝説は「人間が妖狐に助けられた」という話ばかりだけど、そうじゃない、人間のことが嫌いな妖狐もいるのか。考えてみれば当たり前のことだ。


「僕が在り処を把握している神器は二つ。神社に納められていた鏡と、臨が持っている玉。もう一つの『剣』がどこにあるのかはわからないし、七星も知らないと思う」


「いずれにしても、そのペンダントさえ七星の手に渡らなければ大丈夫ってこと?」


 皆美が尋ねた。


「少なくとも、現冥境を復活させられることはないはず。できれば鏡も取り戻したいけどね」


 それはつまり、私が七星と戦わなければならないということか。ソラは七星についてよく知っているようだし、さっきの様子を見た感じだと戦闘力も高いようだ。それでも……。


「そういうことなら、俺の体を貸してやるよ!鍛えてるから、臨よりも強いはずだし!」


 私としても、闘也に憑依してくれた方がありがたい。いくら幼い頃から好きだった空色の狐といっても、四六時中頭の中を覗かれるのは気分のいいものではないからだ。


「残念だけど、臨以外の体には憑依できない。僕は自分の体を失って以来、何度か人間の体を借りようとしたことがあるんだけど、普通の人ではそもそも体に入ることすらできないんだ。臨を七星から守ろうとしたら、偶然憑依できてしまった、って感じ」


 それは私にソラを憑依させる素質があったとかなのだろうか?それともソラが本気を出したから憑依できたのだろうか?どっちにしても、私がやるしかないのだろう。


「……じゃあ、せめて力にならせてくれ。俺も戦う」


「私も。リンちゃんだけにそんな危ないことさせられないもん」


「心強い。君たちが臨と一緒にいる以上、巻き込まれる可能性はあるし、備えておいて損はないからね」


 なんとなく「危険だから関わるな」と言いそうな気がしていたので、ソラのこの返事は意外だった。


「わかった、七星から鏡を取り返すまでの間、この体を貸すよ」


 私は現冥境がどういうものかを知らないし、それで大勢の人々が死ぬと言われてもピンとこない。でも、そのためにあんな風に襲われるのは嫌だし、母さんから貰ったペンダントを奪われるのも嫌だ。ソラに出ていけと言うわけにもいかないし、決着がつくまではソラの力を借りた方がいいだろう。


「ありがとう。七星は用心深い性格だから、失敗してすぐには手を出してこないと思う。何か動きがあるまで、君たちは普段通りに過ごしてくれていいよ」


 ソラがそう言った直後、私の中にあったぼんやりとした感覚がすっと抜けて、代わりに私の右足首に青色のリングが現れた。


≪憑依したままだと君の体に負担がかかるから、普段はこうしてくっついていることにするよ。必要な時はすぐに移れるし、この状態なら君の考えていることはわからないから安心して≫


 さっきまで頭の中で聞こえていた声が、今度は足首の辺りから聞こえるようになった。それと同時に、少し体が軽くなった気がする。突然の出来事でそれどころではなくなっていたけど、ソラの言う通り、一つの体に二つの魂が入るのは窮屈だったようだ。何よりも、頭を覗かれずに済むのは気が楽でいい。


 ──私たち3人は、小学生の頃から気の向くままにいろんな遊びをしてきた。その中で、学校で噂になっている都市伝説の真相を確かめようとしたこともある。でも、所詮は都市伝説。その正体はくだらないものだったり、そもそも誰かの創作だったりした。

 だけど、今の私たちが直面しているのは“本物”の超常現象。それがどれほど深刻なことなのか、この時の私たちはよくわかっていなかったように思う。


◆第2節 霧島闘也と喫茶こもれび◆


「あっちー……」


 森を出た俺たちを待っていたのは、むせかえるような暑さだった。日光は容赦なく地上を照らし、生物に灼熱の苦痛を与える。地面から湧き上がる水分を含んだ熱気は、さながら逃げ場のないサウナのようだ。まだ7月だというのに、こんなに暑くていいのだろうか。


「ところで、二人はいつから見てたの?」


 俺たちの前を歩く臨が尋ねる。


「臨がいつもの木の上にいないなーと思ってたら、近くで話し声が聞こえたんだよ。臨以外にも誰かいるのかと思って見てみたら、臨とあの女が睨み合ってたからさ……」


 俺はそこまで言って、皆美の方に目を向けた。


「なんか穏やかじゃない雰囲気だったし、私の直感が“こいつは撃っていい”って判断したから、とりあえず武器らしきものを持ってる方の手を撃ってみたってわけ」


 皆美が爆ゴムを手に持ち、撃つ動作を実演した。


 学校では優等生として振る舞う彼女の本性は、真性のヘビーゲーマーだ。特にガンシューティングが得意らしく、正確無比な射撃精度を持っている。さらに、手にした爆ゴムの方は段ボールの板くらいならたやすく貫通できる程度の威力を誇る。今回は結果的に役立ったものの、いつかコイツが警察のお世話にならないか心配だ。


「俺は、皆美が戦うって言うから仕方なく……」


 それが無意味な弁明であることは承知の上だ。あの時の俺は、何も考えずに動いていた。もし皆美が撃たなかったとしても、俺は木の棒一本を武器にして突っ込んでいたかもしれない。俺も皆美と同様、直感に突き動かされていたのだろう。


 あの女──七星はとんでもない殺気を放っていた。あの場で俺たちが出ていかなければ、臨は殺されていたのではないかと思うほどだ。

 俺は、妖狐の存在なんて信じてはいなかった。所詮は昔の人が考えたおとぎ話だと思っていた。だが、実際に俺の目の前で一人の人間が姿を消したし、臨の足首には青色のアンクレットが現れた。俺には妖狐の実在を否定しつつこれらの出来事を説明することができないし、しようとも思わない。


 そんなことを考えているうちに、俺たち3人は喫茶こもれびに着いた。元々は臨の祖父が開いた店で、今はその息子──つまり臨の父親が経営している。1階の半分くらいが喫茶店になっていて、残りが臨の家だ。この店は集会所のような一面もあり、常連客が悩み相談に訪れたり、街で起きたトラブルが持ち込まれたりする。


「ただいまー」


 臨がドアを押し開け、俺と皆美もそれに続く。

 店内に入ると同時に、全身をじっとりと湿らせていた汗がほんのりとした冷気に触れ、すーっとした清涼感となって駆け抜ける。もう一歩踏み込むと、コーヒーの香りが鼻をくすぐる。


「おかえりなさーい」


 カウンターの手前でコップを拭いている青年が顔を上げた。

 バイトの前田まえだ いつきさん。今年の春から涼風市に引っ越してきた大学生で、この店の制服代わりとなっている黄緑色のエプロンが似合う好青年だ。仕事も手慣れてきてはいるが、まだ少し表情が硬い気がする。


「おう、おかえりー」


 続いてカウンターの奥に立つ臨の父が答えた。


「おかえりー」


 カウンター越しに臨の父と会話していた三原みはら ゆう……通称「優にぃ」もこちらを振り向く。

 彼は毎日のようにこの店を訪れる常連客であり、俺たちのことも幼い頃から知っている。俺より4つ年上だが、その性格や服装からは年上という感じがせず、同世代の友達のように接している。


「ああ、こんにちは」


 俺たちが座ろうとする席の隣にいた山館やまがた 詩音しおんさんが挨拶をする。

 彼女はとても不思議な雰囲気の女性だ。長い黒髪に薄い青紫色のワンピースという格好もさることながら、見た目は10代後半か20代くらいに見えるのに、実際は俺の親世代と同じくらいの年齢らしい。どこか儚げなイメージもあり、俺たちとは別の世界の住人という印象を受ける。


「何飲む?」


 臨の父がカウンターから尋ねる。


「アイスカフェオレ」


「私はアイスコーヒーで」


「俺はアイスティー」


 注文を済ませて一息つこうとすると、入口のドアの鐘が鳴った。


「いらっしゃいませー」


「ふぃー、すっずしー!」


「陣さんいらっしゃい」


「マスター、いつもの」


「はーい」


 常連の会社員、陣内じんない 広鷹ひろたかさん──通称「陣さん」だ。クールビズ期間中とはいえ暑いようで、彼のワイシャツは汗でぐっしょりと濡れ、下に着ているランニングシャツが透けている。

 彼は涼風市に本社を持つ大手電機メーカー「涼風ヒネモス」の社員だ。黒縁メガネに無精髭、ボサボサの髪という冴えない見た目だが、こう見えても仕事はできるらしい……あくまで本人談である。


「はい、お待たせー」


 俺たちの頼んだ飲み物がテーブルの上に置かれる。カウンターに戻る臨の父と入れ違いになるように、いつもの窓際の席に荷物を置いた陣さんが、新聞を片手に俺たちのところに来た。


「おい闘也、今朝のニュース見たか?」


「え、見てない」


「昨日シカマスクがひったくり犯を捕まえたらしいぞ」


「マジで!?」


 陣さんが広げた新聞には、シカマスクの記事が載っていた。

 怪人シカマスク──半年ほど前から涼風市内で活躍している、正体不明のヒーローだ。鹿の頭を模したマスクをかぶり、首から下はビジネススーツに身を包んだ異様な姿なのだが、この半年間で何件もの事件を一人で片づけているそうで、俺も陣さんも彼のファンになっている。


「待った!」


 皆美が新聞紙を押しのける。


「闘也、お前今日ほかにやることあるじゃろ?」


「……別に忘れてるわけじゃねーし」


 そう、今日はここで夏休みの宿題をやる予定になっている。俺が毎年のように宿題を放置して夏を終えるため、今年は休みが始まる前にやっておこう、ということで勝手に決められた。


「あ、もしかして話しかけちゃまずかった?」


 陣さんが申し訳なさそうに首を傾げ、メガネが重力に引かれてズレた。

 ……いや、陣さんのメガネはどうでもいい。俺はその後ろに、もっと恐ろしいものが見えていた。陣さんのテーブルにアイスコーヒーを置いて戻ろうとする臨の父の体が、ゆっくりと前のめりに倒れていく。──ガラン、とトレイが転がる。これが飲み物を運ぶ途中ならばガラスの砕け散る音がしたのだろうが、もっと静かで、もっと鈍い音。しかしそれは、俺たちの日常が崩れ去る音であった。


「父さん!?」


「順さん!」


「えっ……えっ!?」


「マスター!?」


「店長!」


 混乱が渦巻く中、真っ先に駆け寄った樹さんが様子を確認する。


「ありがとう、大丈夫……ちょっとめまいがしただけだから……」


 その顔は引きつっているが、意識はあるし、言葉も話せている。俺はそれだけで、心底ほっとした。


「救急車呼びましょうか?」


「いや、いい……けど、少し休むよ……」


 そう言うと、彼はふらふらとおぼつかない足取りで立ち上がり、店の奥、2階に続く階段のある方へと向かった。臨も心配してその後を追う。


「さっきまではなんともなかったのに……」


 皆美がぼそりと呟いた。

 確かに、彼に具合が悪そうな様子は一切なかった。それに、本人はただのめまいだと言っていたが、それにしては苦しそうな表情をしていた。おそらくは俺たちを心配させないためにそう言ったのだろう。


 呆然とする俺たちに追い打ちをかけるように、店のドアが勢いよく開いた。


「悪い、ちょっとこいつを休ませてやってくれ!」


 常連の太田おおたさんが、会社の同僚で釣り仲間の呉岡くれおかさんを背負って入ってきた。呉岡さんも意識はあるようだが、真っ青な顔をしている。


 太田さんが蹴り開けたドアが閉まる間に、けたたましいサイレンの音とともに救急車が走り抜けていく。瞬間的に、ただならぬ事態が発生していると察した。


「呪い……」


 呉岡さんの顔を見ていた山館さんが、独り言のように口にする。

 呪い──その言葉を聞いて、嫌な予感が背筋を撫でる。普段なら気にも留めないような言葉なのに、今の俺には心当たりがある。まさか、七星が臨を陥れるために呪いをかけたとでもいうのか?しかし、それなら臨の父親はともかく、呉岡さんやほかの人は無関係なはず……。


 顔を上げると、既に山館さんはいなかった。いつの間に出ていったのだろうか。俺はこの異常事態に対し、何をどうすればいいのかまったくわからなかった。


◆第3節 岡崎皆美と呪いの正体◆


 日常というものは、ある日突然崩れ去るものだと聞いたことがある。経年劣化によって静かに蝕まれていたものが自重によって瓦解するように、あるいは突然現れた爆弾によって木端微塵に砕け散るように……いずれにしても、「破壊」という形で目に見えるまで、人々はそれに気づくことすらできないそうだ。

 私たちの場合はどちらだったのだろうか。この日突然壊されたのか?それとも、もっとずっと前から運命づけられていたのか?……いや、そんなことはどうでもい。私たちの日常は、確かに崩れ去ってしまった。今は「どうやって修復するか」を考えるべき時だ。


 ……と、頭ではわかっているのに、心がかき乱される。内臓を火で炙られるような焦りが、私から冷静さを奪う。

 これも七星って奴のせいなの?ゲームの序盤、主人公の故郷が破壊されて戦いに巻き込まれるところなの?これからラスボス討伐のために旅に出なきゃいけなくなるの?そんなのはゲームの中だけでいい!

 得体の知れない何かが、私たちを脅かそうとしている。さっきまで呪いがどうとか意味深なことを言っていた山館さんはいつの間にかいなくなっているし、今のこの状況で何をするのが正解なのかわからない。

 クソッ!これは日頃「いちいち次の行動を指し示す案内役キャラが鬱陶しい」とか「チュートリアルなんて見ずとも触りながら覚えればいい」とか思っていた報いなのか?今ほど次にすべきことを教えてくれる人物がいてほしいと思ったことはない!


「落ち着いて、皆美」


 臨が私の肩に手を置いて、優しく囁いた。


「ソラと話してみたけど、これは七星のせいじゃないらしい。何か別の原因があるんだ」


 臨は闘也の方に目をやって続ける。


「父さんはもう大丈夫。上で母さんが見てくれてる。だから安心して」


 一番焦る状況にいるはずの臨が、ここにいる誰よりも落ち着いて見える。そんな彼女の姿が、私にはとても大きくて力強いものに見えた。


「あー、やっぱり」


 声の主は、先程から姿を消していた山館さんだ。手首には紐の付いた鈴を着け、無色透明の小さな三角柱の結晶──プリズムのようなものを通して呉岡さんを見ている。


「任せて、これは私の管轄。太田さん、闘也君、ちょっと彼をそこの席まで運んでもらえる?」


「え、俺も?」


「はぁ……」


 二人は山館さんに言われるままに呉岡さんの体を運び、窓際の席の椅子の上に寝かせる。

 山館さんが手にしたプリズムのような結晶を窓に近づけると、窓から差し込む日光が虹色の光線となって呉岡さんの首元を照らした。すると光線がゆらりと揺らめき、ぼんやりとした煙の筋が立ち上る。線香にも似た淡い煙は、呉岡さんの肩の辺りに留まり、“見えざるもの”の姿を描き出した。

 透明なわらび餅にきな粉をまぶしたように、表面だけに白い煙が定着した、直径10cmほどのマシュマロのような質感の丸っこい塊……それが呉岡さんの首筋に張り付いている。


「げっ、なんだこれ」


 山館さんが声を上げる。


「なんだこれって、山館さんが出したんじゃねえの?」


 闘也が尋ねる。


「いや、そうなんだけど……普段ならもうちょっと人の顔っぽいものになるはずというか……」


「人の顔?」


「うん……これは『エクトプリズム』っていって、霊体に半実体を与えて目に見えるようにするものなの。死者の魂であれ生霊であれ、呪いを引き起こすほどの力を持っていれば、その霊の持ち主の顔の形になるはずなんだけど……」


 呉岡さんの首元に現れたそれは、「丸い」という以外に人の顔らしき要素が見当たらない。私たちにとっては「霊体を可視化する」という能力だけでも驚きなのだが、どうやら彼女にとっても想定外の事態らしい。


「とりあえずやってみよう……」


 山館さんはそう言うと、手首に着けた鈴をマシュマロの近くで鳴らした。


 早朝の澄んだ空気に響く鳥のさえずりを思わせる、清らかな鈴の音色が店内を満たす。心の奥底に届くような、体の内側から浄化されるような。さっきまで抱いていた焦りがウソのように消え去り、休日の朝の布団のような、ふんわりとした安心感に包まれる。


 ……しかし、その音色とは対照的に、山館さんの表情は芳しくない。


「ダメかー……」


「あのー、それが呪いの正体なんですか?」


 その様子を見ていた優にぃが口を開いた。


「多分……」


「待った、待った。説明が足りない。ここだけ世界観がおかしくないか?」


 割って入ったのは陣さんだ。


「ああ、ごめんなさい……実は私、半分幽霊みたいな体質なんです」


 妖狐、呪いときて、今度は幽霊か。前から儚げな印象の人だとは思っていたけど……。それより、「半分」というのはどういうことだろう?もう半分は生きた人間、でいいのだろうか?


「私、この体質のおかげで現世と冥界を自由に行き来できるんですよ。それで、この能力を買われて冥府で働いてるんです。あっ、『冥府』っていうのは冥界の役所みたいなもので──」


 山館さんは、普段の物静かなイメージに反して生き生きとしゃべり始めた。まるで学校であったことを話したくてたまらない小学生のようだ。

 そんな山館さんには悪いけど、私の思考は「冥界」という単語で停止した。ついさっき森の中で聞いた話が蘇る。


 「冥界」「あの世」「黄泉」──呼び名は様々だが、太古より世界中の文明で「死後の世界」の存在が語られ、示し合わせたかのように「死者の魂は異世界に向かう」とされている。この共通点については、死に対する恐怖から逃れるために人間が普遍的に生み出す概念なのだと思っていたけど、実在していたとなれば話は変わる。古代の人々は何らかの形で死後の世界を観測し、それを各々の文明における言葉で解釈した、といったところだろうか。


「──で、こうやって現世で除霊のお仕事をやってるわけなんですけど……」


 私が考え事をしている裏で軽快に話していた山館さんが、唐突に口をつぐんだ。それにつられて、私の意識も引き戻される。


「この霊には、何の特徴もないんです。呪っている人物の正体が掴めない……多分、そのせいで『清めの鈴』も効かないんだと思います」


 山館さんは手首の鈴を示した。どうやら普通の霊であれば、あの音で何かしらの反応が得られるらしい。


「こんなこと初めてで、どうしたらいいか……」


 さっきまであんなに楽しそうに話していたのに、今度は泣きそうな声になっている。彼女がこんなに喜怒哀楽の激しい人だとは知らなかった。半分幽霊の体質だと情緒不安定になるのだろうか。


「呪いをかけるってことは、犯人はリンちゃんのお父さんや呉岡さんと面識がある誰か、じゃないんですか?」


 私は率直な疑問を口にした。


「ここまで大規模だと、そうとも限らないかもしれない。不特定多数を対象とした“条件”で呪っているとすれば、面識の有無は関係なくなるし……」


 山館さんは窓の外で鳴り続けるサイレンを指すかのように外を見た。


「じゃあ、その条件を割り出すことは?」


「不可能ではないと思うけど、呪いの被害に遭っている人を片っ端から調べて、呪われそうな共通点を見つけなきゃいけないから、現実的じゃないよ……」


「それなら、僕たちも協力します」


 臨が立ち上がり、毅然とした態度で言った。


 「僕」と聞いて、一瞬ソラが言ったのかと思ったけど、なんとなくこれは臨の言葉のような気がした。

 私は、この臨を知っている。彼女は時々、こんな風に一人称が「僕」に切り替わる時があるのだ。本人は特に意識していないようで、感情が高ぶった時に自然と口から出るらしい。だから今日ソラが憑依した直後も、一人称自体にはあまり違和感がなかった。


「いいですか?山館さん」


「えっと、臨ちゃん……」


 山館さんは申し訳なさそうに、けれど何か強い意志を持っているかのように口を開いた。


「『山館さん』じゃなくて、『詩音』って呼んでくれる?」


 その言葉に、私たちはひどく拍子抜けした。


「あっ……私、君たちがいつも一緒に遊んでいるのを見て、ずっと仲間に入りたいなーって思ってて……」


「わかりました、詩音さん。行きましょう!」


「……了解!」


 詩音さんは元気よく敬礼をした。


◇◇◇


 空は半分ほどが量感のある雲に覆われ、太陽の出入りに合わせて街の風景が明るくなったり暗くなったりする。ふと隣に目をやると、臨は機嫌が悪そうな表情で空を見上げていた。

 彼女は昔から、人一倍天気の影響を受けやすい。晴れている日は機嫌が良く、曇りの日はテンションが低い。雨の日には物思いにふけっていることが多いように思う。そして、彼女が一番嫌いなのが、こんな風に曖昧な天気だそうだ。晴れるなら晴れる、曇るなら曇るでハッキリしてほしいらしい。……だが、今の彼女の機嫌が悪いのは天気のせいばかりではないだろう。


 私たちが倒れた人の情報を集め始めてから、丸一日が経過しようとしている。街中を回って集めた37人のデータは年齢も性別も職業もバラバラで、これといった繋がりは見えない。

 この怪事件はニュースにもなり、「集団昏倒事件」という無骨な名前が与えられた。その報道によると、この現象は全国的なものではなく、ほとんど涼風市周辺に限定されているようだ。

 手がかりになるとすれば、それともう一つ。年齢層は幅広いが、一番下は15歳──私の隣のクラスの女子だ。それよりも下の年齢、例えば小学生が倒れたという話は聞いていない。一見無差別に見える呪いも、幼い子供にまで手出しはしないということだろうか?別にそれで「犯人は根はいい奴だ」とは思わないけど。

 そんな有様なので、私たちは調査に訪れた病院の横にある公園で途方に暮れていた。


「おーい!」


 どこかで声がした。

 見ると、病院の駐車場に立つがっしりとした体格の男が、こちらに向かって手を振っている。


「あ、親父だ」


 闘也が言った。


 闘也の父親は、「ベーカリー東風」というパン屋で働いている。病院の駐車場にいるということは、パンを届けに来たところだろうか。


「ああ、大五郎さん」


「あれ、詩音さんも一緒なんだ。誰かの見舞い?」


「いや、今起きてる呪いの正体を探ってるところ」


 闘也が答えた。


「あー、そういや昨日そんなこと言ってたな。で、進展はあった?」


「ダメ。手がかりになりそうな情報が全然ない」


 詩音さんが返答する。


「これが倒れた人たちのデータなんだけど、なんか心当たりある?」


 闘也は、私たちが調べた人のリストを父親に渡した。仮にも個人情報だというのに、身内とはいえそんな簡単に人に見せていいのだろうか……。


 と、彼は意外な反応を示した。


「あー、この高田って人、俺の先輩だわ。あれ、福山も?こいつは俺の同級生だ。あと、大竹……大竹……思い出したっ、生徒会長の名前だ」


「え、みんなうちの学校なの?」


 闘也が尋ねた。


「ん?ああ……その辺は調べてないのか?」


「うん……考えてなかった」


「順も呉岡さんも楓高だし、これみんなそうなのかもしれんぞ?」


 盲点だった。倒れた人々の現在の職業などについては調べていたが、出身校までは聞いていない。確かに、私たちと同世代の子供はみんな涼風楓学園うちの学校の生徒だ。私は自分の迂闊さを呪った。


「でも、なんでうちの学校出身の人を呪うんだろう?」


 臨が言った。

 そう、呪いの動機がわからない。年齢がバラバラでほとんど面識もないとすると、犯人の知り合いを呪っているというわけではないだろう。となると詩音さんが言っていた「不特定多数に対する呪い」なのだと考えられるけど、それでもうちの学校出身者を狙う意図が不明だ。世代を超えて、うちの学校の生徒だけに向けられる呪い……。


 瞬間、頭の中で一つの答えが提示された。謎解きゲームの解法を閃いた時のように、強い衝撃が脳細胞を襲う。私たちは「呪い」という言葉に対する先入観で見落としをしていた。


「『願いの机』……!」


 思わず口からこぼれる。

 願いの机──私たちの学校で語られている都市伝説だ。学校内のどこかに「願いの机」と呼ばれるものが存在し、見つけ出して天板に願い事を書くと、その願いが叶うと言われている。

 私が目をつけたのは、その続きだ。この都市伝説は、最近になって「願いが叶った者は13日以内にお礼を書かなければ呪われる」という風に変化してきているらしい。

 もしこの都市伝説が本当の話だとすれば、今起こっている呪いの正体であるとは考えられないだろうか?


 ……いや、落ち着け私。「呪い」という非科学的な存在が相手とはいえ、さすがにこんな都市伝説を事実として扱うのはバカバカしい。昨日からずっとこの件に関わっていたせいで、冷静さを欠いているのだろう。もう一度考え直した方が──。


「あー、俺たちの頃にもそんな噂あったなー」


 闘也の父親が言った。


「そうそう、その話を聞いた順が自分の机に何か書いててさ。何を書いたか覗こうとする俺たちと、見られまいと必死で抵抗する順の激しい攻防で、昼休みが丸々潰れたんだよ。最終的に飛鳥あすかが順を無理矢理引っぺがしたんだけど、机には何も書いてなくてさ……あれはマジで騙されたなー。いつの間に消してたんだろ」


 闘也の父親は曇り空を見上げ、髭で覆われた顎を太い指で撫でながらしみじみと口にした。

 「飛鳥」とは臨の母親の名前だ。もちろん私たちはその現場を見たわけではないけど、彼らが机を巡って争う光景は容易に想像できた。


「机の呪い、か……確かにそれなら、取り憑いてた霊体が人の顔の形をしていなかったのも納得できる……」


 詩音さんは真剣に考えてくれているようだ。


 たかが都市伝説、されど都市伝説。ほかに手がかりのない以上、少しでも可能性があるなら調べてみる価値はある。幸い、学校はここから徒歩圏内だ。


「行こう、私たちの学校へ」


 臨の言葉を合図に、私たちは涼風楓学園へと向かった。


◆第4節 衣谷臨と願いの机◆


「幽霊、か……」


 詩音さんの姿を見ていた闘也がぼそりと口にした。


「やっぱ幽霊って、死んだ時の姿から変わらないんスか?」


 皆美がそれに便乗するように尋ねる。


「それは人によるかな。幽霊の姿は『自分が思っている自分の姿』に依存するの。だから、生前の自分とは違う姿を強く思い描くことで変わることもある」


「例えば?」


「そうだな……私の知り合いに、足腰を悪くして歩くことができなかったおばあちゃんがいるんだけど、冥界に来て古い友達と再会したら、急に若返って歩けるようになったの。彼女にとって、その頃が一番印象深かったのかもね」


 なるほど、気の持ちようで自分の姿を変えられるということか。確かに死んだ時の姿そのままだと、冥界は現世を上回る超高齢社会になるだろうし、死に方次第では首などの部位がない人もいるかもしれない。


「あと、生前の自分のイメージがない幽霊は、人魂の姿になっちゃうみたい。生まれる前に死んだ赤ちゃんとか、生前の記憶を持ってこれなかった人とか」


「持ってこれなかった?」


 私が尋ねた。


「死者の魂は、本来ほとんど記憶を持たないものなの。記憶はあくまで肉体、脳に保存されているからね。だから、脳には自分が死ぬ直前に、生前の記憶を魂に渡す機能が備わってる。それがいわゆる『走馬灯』ね」


 走馬灯……死ぬ間際に自分の人生を振り返るように記憶が呼び覚まされるというアレか。


「でも、これは脳が自らの死を悟ってから動き始めるから、死ぬタイミングによっては不完全だったり、一切の記憶を渡せなかったりする。そうなると、生前の記憶がない状態で冥界に行くことになっちゃう」


 詩音さんは淡々と話しているが、その内容はあまりにも恐ろしい。生前の記憶を持たずにこの世を離れるくらいなら、何の荷物もない状態で無人島に放り出された方がまだマシだ。彼女は冥界に雇われて現世の悪霊を成仏させる仕事をしていると言っていたけど、その語り口はあまりにも浮世離れしていて、まさに“プロフェッショナル”といった感じだ。


「まあ、走馬灯の受け渡しは一瞬で終わるから、よっぽどひどい死に方じゃなければ大丈夫なんだけどね」


 詩音さんはフォローするかのように続けた。


「詩音さんは、普通に幽霊が見えるんスか?」


 皆美が言った。


「いや、私も現世にいる時は普通の人間と変わらないから、これを通さないと幽霊は見えない」


 そう言いながら、詩音さんはポケットからエクトプリズムを取り出す。そういえば、昨日も倒れた呉岡さんの様子をチェックする時にあれを通して見ていたな。


「皆美ちゃんも覗いてみる?」


「いや、結構っス……」


 皆美は視線を合わせずに断った。


 ──そうだ、ついつい冥界談義に花を咲かせてしまったけど、詩音さんに現冥境のことを相談してみるのはどうだろう?彼女なら何か知っているかもしれない。


「あの──」


「あっ」


 私が話しかけようとした時、詩音さんは空を見上げて声を出した。


「まずいな……急がないと間に合わないかも」


「え?」


「エクトプリズムは、太陽の光を通さないと幽霊の姿を映し出せないの。だから日が沈む前に行かないと……」


 太陽は西に傾き、空の色はくすんで、雲の陰はほのかなオレンジ色を呈している。


「走るぞ!」


 闘也が叫び、つられて私たちも走る。幸い、学校はすぐそこだ。角を曲がれば校門が見える。


 ──しかし、ここで私たちは重大なミスに気づいた。角を曲がった先に見えたのは、閉ざされた校門だった。今日は日曜日……部活も終わっている今、校内に入ることはできない。仮に門を乗り越えて入ったとしても、教室には鍵がかかっているはずだし、何より今の私たちは制服を着てすらいない。また明日出直すしかないのか……?


「ちょっといい?」


 詩音さんが、私たちを人目につかない場所に連れて行く。


「みんな、手を繋いで」


 私たちは言われるまま、4人で一列になって手を繋いだ。


「もっと強く……そう、離さないでね」


 詩音さんが深呼吸をすると同時に、視界がぐにゃりと歪む。そして、私たちがそれに怯んでいる間に──目の前には、さっきまでとは別の景色が広がっていた。


「えっ!?どこ?ここ」


 皆美が戸惑いの声を上げる。

 一見すると別の場所のようだが、よく見ると道の構造はさっきの場所と似ている。少し離れた場所には、見覚えのある青い屋根の家がある。これはかつて学校の前に建っていた古い民家で、2年ほど前に取り壊されたはずだ。道路に立っている歩行者用信号機は、LEDのものではなく、電球式で人型が白抜きになっているもの。そして校門があった場所の先には、学校内に展示されている写真で見た「旧校舎」がある。


「これが、冥界……?」


 私は思わず声に出す。


「なんか、思ってたより普通……」


 皆美が言った。


「冥界は、生き物だけじゃなくて無生物の魂も送られてくるの。だから、こんな風に一世代ずつ前の街並みになってる」


 つまり、言うなればここは「現世の過去ログの世界」というわけか。


「え、俺ら死んだの!?」


 闘也は状況を呑み込めていないようだ。


 私たちは学校の敷地内へと歩を進めた。道行く人々に変わった様子はなく、子供からお年寄りまでごく普通に歩いている。犬の散歩をしている人もいるし、車も走っている。そこに「冥界」という言葉から想像される異世界感はほとんどなくて、時折視界を横切る人魂を除けば、ちょっと古い街並みを歩いているのと変わらない。死んだとは思えないほど……いや、死んだからこそ生き生きしている人たちが、そこには暮らしていた。


「この辺でいいかな」


 旧校舎に入った辺りで、詩音さんは再び私たちに手を繋がせた。また大きく深呼吸をして、さっきと同じように景色が歪む。そうして、見慣れた校舎の光景が現れた。


「よし、早いとこ机を見つけちゃおう」


 冥界を経由したことでうっかり忘れかけていたけど、私たちの目的は呪いの原因──“願いの机”の発見だ。詩音さんはエクトプリズムを手にして、すたすたと廊下を歩き始めた。


 私は、一つ引っ掛かることがあった。私たちが使っている机は比較的新しいもので、父さんたちの時代からあるとは考えにくい。この呪いが机によるものならば、机が入れ替えられた時点で取り除かれているはずだ。とすると、この呪いの原因は机ではないのでは……?

 しかし、今更そんなことを考えても仕方がない。今は少しでも手がかりが欲しいのだ。


 ──中学1年生のクラスを調べ終えて2年生のフロアに移動する途中のことだった。


「誰だ!?」


 闘也が階段の上に向かって叫んだ。


「どうしたの?」


「今なんか、黒い服を着た人影が見えたんだよ……」


「えっ……幽霊とかじゃないよね?」


 皆美が怯えるように尋ねる。


「多分違う。闘也君が叫んだ時にエクトプリズム越しに見てたけど、霊的なものは見えなかったから」


「それってつまり……生きた人間の不審者ってことじゃ?」


「あ、そっか……」


 詩音さんは「幽霊じゃないから怖がらなくていい」と言ったつもりなのかもしれないが、余計に怖い答えが導き出されてしまった。


「闘也、いざとなったら戦って」


「えー?あー、うーん……そうなるかー」


 闘也の煮え切らない返事で空気が緩んだところで、机探しを再開する。


 ──そして、ついに私たちは元凶の机を見つけ出した。高校2年3組……そこに問題の机はあった。私たちは冥界を通って教室内に入り、詩音さんが指し示した机を窓際に運んだ。

 妙だ。現時点で一番年下の被害者は中学校3年4組の生徒だった。しかし、実際にあったのはここだ。やっぱり、私たちは呪いの正体を勘違いしているんじゃないだろうか?とはいえ、まずはこの“願いの机らしきもの”をなんとかしてみよう。


 詩音さんが窓から差し込む西日にエクトプリズムをかざすと、机の上には呉岡さんの肩に張り付いていたのと同じマシュマロのような塊が山盛りになっていた。机の上からはみ出そうなほどの塊は、生きているかのように蠢き、ひしめき合っていた。


「よし、今度こそ……」


 詩音さんは、姿を現した霊に向けて手首の鈴を鳴らした。静まり返った教室に、心地よい鈴の音がこだまする。

 ……だが、呉岡さんの時と同様、やはり反応する様子はない。力が強すぎるのか、元々除霊なんてできる代物ではないのか……いずれにしても、この方法ではどうにもならないようだ。


「んー、最終手段を使うかな」


「最終手段?」


「机ごと冥界に持って行って、強制的に成仏させる」


「え、そんなことできるんですか?」


「こいつが冥界の引力に逆らえるだけのエネルギーを持っていなければ、それで成功するはず。ここから剥がせない以上、机は犠牲になっちゃうけどね」


 詩音さんは、机の中にあるものを椅子の上に出し、空っぽになった机を持ち上げた。深呼吸をした後、その姿はすーっと薄くなり、机とともに背景と同化する。


 その瞬間、私たちには見えた。エクトプリズムによって可視化されたマシュマロのような霊が、冥界に連れて行かれるのを拒むかのように、机を離れて飛び去ったのだ。すかさず闘也が掴みかかったが、霊は彼の手と教室のドアをすり抜けて廊下に出ていってしまった。詩音さんも失敗したことに気づいたようで、すぐに机と一緒に戻ってきた。


「逃げられちゃったか……」


 もう日も沈み、空はみるみる暗くなっていく。今から校舎内を探しても、見つかる頃にはエクトプリズムの効果が切れてしまうだろう。今日中に決着をつけることは不可能か……。


 そう思った時、背後でバサッという大きな音がした。窓の外に目をやると、そこに生えている木の上に、金色の羽毛を持つ鳥が止まっている。これは……トビだろうか?金箔のようにしっとりとした艶を放つトビが、窓越しに私たちをじっと見つめている。


≪高校1年2組の教室に行ってみるといいよ≫


 私はとっさに、自分の右足首にある青色のアンクレットに目をやった。


≪違う、僕じゃない≫


 ソラが答える。

 じゃあ、今のはこのトビが?──そう思って顔を上げた時には、既にトビの姿はなかった。


「何?今の……テレパシー?」


 皆美が困惑した表情で言った。闘也と詩音さんにも聞こえたようだ。ならば話は早い。


「行こう、私の教室に」


 高校1年2組──それは、私のクラスだ。あのトビが何者かはわからないけど、今は藁にもすがりたい気分。従ってみる価値はある。


 ──


「まさか、本当にここにあるなんてね」


 私はそう口にした。

 塊は、トビが言った通り私の教室……それも、よりによって私の机の上にあった。


「こいつ、もしかして願いを叶えたり机を動かされたりするとほかの机に逃げるのかな?」


 皆美が言った。

 確かに、それならば最後の被害者がいた教室になかったのも説明がつく。だとすれば、この机をどこかに隠したり破壊したりしても、別の机に移動するだけだろう。


 そんなことを考えているうちに、塊の姿が薄れて見えなくなった。どうやらエクトプリズムの効果が切れたらしい。とはいえ、さっきみたいに移動されない限りはここにいると考えていいはず。見えていても有効な手段がないなら、見えていなくても同じだ。


 “願いの机”──天板に願い事を書くと、その願いが叶う。願いが叶った者は、13日以内にお礼を書かなければ呪われる。……父さんたちが倒れたのは、この後付けのルールによって呪われたからだ。

 詩音さんの話によると、彼女の持つ「清めの鈴」は、霊が持つ怒りや憎しみなどの“悪意”を鎮めて成仏しやすくするためのものらしい。

 では、なぜ効かなかったのか?それは“願いの机に悪意がないから”ではないか?この机には「呪ってやろう」という意志なんてなくて、生徒たちが勝手に「呪われる」という話にしてしまったから、仕方なく従っているのではないか?机としてもこの呪いは不本意なのではないか?

 ……考えていても仕方がない。


 私はショルダーバッグからボールペンを出し、自分の机に歩み寄った。


「待ってリンちゃん、それはまずい気がする」


 皆美が私を引き止める。


「大丈夫、きっとうまくいく」


 私は皆美の手を振り払って机に向かい、その天板にこう記した。


“願いの机から呪いが消えますように”


 書き終わってすぐ、その文字は薄れて見えなくなった。


「呪いの根源が、消えた……」


 エクトプリズムを通して見ていた詩音さんが、そう口にした。

 私はほっと息をつき、窓の外に広がる藍色の空を見上げた。


「一件、落着……!」


 私は再びボールペンを手に取り、また机に文字を書き綴った。


“ありがとう”


 ボールペンで書かれた5文字のひらがなは、先程と同じように天板に溶けていった。呪いがなくなった今、感謝の言葉を記す必要はないのかもしれないけど、なんとなく書いておきたかったのだ。


◇◇◇


「いやー、もしかしてこのまま臨に店を任せることになるんじゃないかと思ったよ」


「早い早い、あんたの時と違って臨はまだ高校生なんだから」


 1階から、父さんと母さんの話し声が聞こえてくる。どうやら店の準備をしているようだ。


≪ああ、守れてよかった。この日常を……≫


 ここ2日間の疲れのせいで、まだ起きようという気にならない。今日は海の日だし、このままベッドの上で過ごすというのも悪くはない。


「臨ー、そろそろ起きなさーい!」


 ……残念ながら、母さんはそれを許してはくれないらしい。


「はーい」


 体を起こすと、机の上に置かれた青色のアンクレットが目に入った。


「あ」


 そういえば、詩音さんに現冥境の話を聞くのを忘れていた。……まあ、また今度でいいか。

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