喪失の喪失

日車文

喪失の喪失

喪失の喪失


 先日、歯を抜いた。

 といっても、乳歯ではない。永久歯である。

 昨年始めた歯の矯正に伴い、頑固に八重歯であり続ける生意気な一部の歯を移動させるスペースを作るため、素直に生え、従順に己の職務を果たしていた永久歯を四本、抜いた。上下左右一本ずつだ。生意気な歯を躾るための尊い犠牲が払われたのである。

 歯を抜いている最中の感覚といったらもう、どんなホラー映画にも勝る衝撃であった。何度も何度も場所を変えて打ち込まれる大量の麻酔。それによって徐々に感覚を喪失していく口内。舌すら満足に動かせないほど痺れきった口内に、嚥下できない唾に混じって麻酔薬の苦い味が染みる。そして、顎の骨奥深くにしっかりと根を張ったいたいけな永久歯を突然強く引っ張るペンチ。顔を押さえられ、無理に開かれた口を蹂躙するそれは殆どただの拷問だろう。大の男の力で引っ張られ、骨が、歯が、ミシミシと嫌な音を立てる。ミシ、ミシミシミシ、と軋む音と感覚が骨を通して総毛立つほどリアルに伝わってくる。本来ならばまったく抜かれる謂われのない歯がその理不尽な仕打ちに悲鳴を上げているようであった。

 歯を抜かれている最中の悲惨さといったら、これはもう筆舌に尽くしがたい。麻酔で痛みをまったく感じないところが余計に拷問の酷さを増しているような気味の悪さであった。

 一瞬、感覚が消える。ずぼっ、と軽い音。

あ、抜けた――そう感じた刹那、あるべきものが失われた傷口から熱い液体が流れ出す。溜まった唾に混じって悪質なマーブルを描いているであろう液体、体温そのものの熱さは感じることができるらしい口内の粘膜は、結局麻酔が切れるまで抜歯の痛みを一切知覚することはなく。

 こうして私は、通常の美しい歯並びと引き替えに四本の永久歯を失った。

 あれから三日経つ。麻酔が切れてから収まることのなかった出血と激痛もようやく落ち着き、歯の抜けた場所には寒天よりも柔らかい血の塊が貼りついて瘡蓋の役割を果たしている。まだ歯が動いてその場所を埋めていないので、鏡を見ると正面からでも四本の歯が欠けているのが見えるはずだ。確かめようと鏡に向かっていーっと歯を剥き出す自分は酷く間抜けな面をしていた。


 そっと、抜け落ちたところへ舌を伸ばす。まだ少し腫れた、柔らかく濡れた歯茎が触れる。つんつんとそこをつついてから上に舌を這わせても、そこに硬いカルシウムの塊はもうないのだ。何も捉えようのない、形容しがたい空白と、その先には無慈悲に歯を締め付ける針金が存在しているだけ。

 たまらない喪失感だった。

 朝起きて高校へ向かう電車の車内で。食事中で。授業中で。夜、歯を磨いている最中で。

 ふとした瞬間に、歯が痛むことがある。歯列矯正において歯が痛むのはよくあることだが、その鈍い痛みとも違う、ちょっと鋭く、どこか疼くようなむず痒いような痛み。思わずそこに舌を伸ばしても、痛んでいるはずの永久歯は、無い。

 歯がまだそこにあるような感覚に囚われることもしばしばあった。力ずくで抜かれたはずの歯はもうそこには存在しないのに、柔らかい歯茎の先、硬く尖った歯で野菜を噛み砕く感覚は確かに感じた。

 幻肢痛。手足を切断した人間が感じることの多い、かつてあった「それ」が痛んだり、疼いたりする感覚。永久に喪われた「それ」がその存在を主張するように幻の感覚を覚えさせる。存在しないものが痛む感覚は不思議と記憶に残るもので、何とも言いがたい痛みとともに記憶に焼き付いていくその幻はどう表現したらよいのだろう。歯ごときの小さい部位でも感じるものかと驚いたが、その幻歯痛はその後何日も繰り返し現れては記憶に鋭い楔を打つように痕を遺していった。

 歯とはいえ、やはり自分の健康な身体の一部を失うという喪失感はなかなかに凄まじく、思いの外耐えがたい。抜いた歯は記念にと頼んで包んでもらって持ち帰り、手元に置いてある。歯茎から出ている表面に対して異様に長い根っこの部分や、食物を磨り潰すためにやたらと複雑な凹凸を持つそれは身体から切り離された後もてらてらと艶めかしく輝いていて、いっそ抜いた後の方がその色味を増したようにさえ思える。抜けた歯にわずかにこびり付く歯茎の断片も、今では干からびた死体の肉のような遠さだ。以前自分の身体に生えていて、今も似たようなものがまだ何本も骨にくっついて自分が生きる手助けをしてくれているというのに、小箱から取り出したそれは自分の身体から抜け落ちた途端にグロテスクに感じられた。

 幻歯痛。いずれこの痛みも感覚も、慣れてしまうのだろう。あと数年して歯列矯正を終えれば、四本分の空白は全て動いた歯によって埋められる。元々そこには何も存在しなかったかのように、美しい歯並びに覆い隠されてしまうのだ。もはやその存在を思い出すことすらなくなるだろう。

 喪失感を喪失していく。

 日を重ねる度、もう存在しない歯が疼く回数は少なくなり、やがてそれを感じることはなくなった。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

喪失の喪失 日車文 @ikansoku

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

カクヨムを、もっと楽しもう

この小説のおすすめレビューを見る

この小説のタグ