Monday

 西日で目覚めた。張りつく喉が水分を欲している。フローリングに絨毯。その上で寝ていた私の体は、至るところが痛くて、それでいて妙に軽く感じた。起き上がるときに足がハイボールの空き缶を蹴った。部屋の隅へと転がっていくアルミニウムの鳴き声に背を向けた。

 冷蔵庫には飲みかけの炭酸水のボトルしかなかった。蓋を開ける。その音すらしないほど気の抜けきった、ただの水。何でも良いやと渇いた食道をくぐらせた。



 人間不信のくせに八方美人な私にも、実は心から尊敬している人は少なからずいて、片手で数えられるだけではあるけれど、一緒にいて確かに嬉しい楽しい心地好いと思える相手はいた。でもその数人は私のバイトの先輩方で、全員が同じ職場にいたのだから、いかに狭い世界で生きているか、自分で悲しくなる。人間と真正面から向き合うことを避けているから、一向に人間嫌いは治らない。

「表面的な付き合いでも、長原さんが良いなら良いんじゃない」

 荻野さんはよく、チキン南蛮を齧りながらそう言っていた。行きつけの居酒屋での光景だ。

「俺にはそういう生き方ができないっていうのもあるけど、単純な羨ましさみたいなものはあるよ」

「皮肉ですか」

「皮肉っていうのは、言葉にした事実をどう受けとるのかっていう聞き手側の認識だよ」

「その言い方がもう皮肉なんですよ」

 タルタルソースを箸で広げてチキン南蛮を、アルコールとともに胃に投げ込む。荻野さんの笑顔が私の言動に対する肯定なのか、料理に対する満足なのか、私には分からない。一番に知りたいところがいつも曖昧な人だ。それでも荻野さんは私の憧れる人間の一人だった。


 荻野さんは今年の春にバイトを辞めて大学に入り直した。学生としてやり残したことがあるらしい。詳しくは聞いていないし、なぜか聞いてはいけないような気がしていた。

 職場から荻野さんが消え、任される仕事が山のように増えた、とバイト仲間は口を揃えて言う。私もそう思う。増えた分を足し合わせたら荻野さんの時給を優に超える仕事ができあがるわけだが、涼しい顔でそれをこなしていたのだから頭が上がらない。

「俺は長原さんよりも五年間長く生きてるんだから、これぐらいできて当たり前なんだよ」

 それが口癖。そんなもんかなと聞き入れながらも、五年間後に荻野さんになれる自信は全く無い。なりたいのかどうかも分からなくなっていた。

 荻野さんはシフトが終わってから、五歳差の小娘の愚痴を毎度毎度飽きずに聞いてくれていた。私のように表面的な――心よりも肌を交える人間関係を主とする人からすれば、間違いなく荻野さんの目的を邪推することだろう。いや、そうでない人が見てもそう思うぐらい、荻野さんは生産性のない会話に献身的に付き合ってくれた。

 なんでそんなに親身になってくれるのか尋ねたことがある。アルコールが回ったいた。今思い返せば、荻野さんの気持ちを期待していたんじゃないかと考えてしまう。

「俺は人間が好きなんだよ」

 自称下戸の荻野さんは居酒屋でもお酒を飲まない。場の熱こそあれ、素面の状態で恥ずかしげもなく、いつもの涼しい顔でさも世界の常識かのように、そう言った。

 この人にはなれないんだろうな。敗北感と紙一重の憧れが、崩れ落ちて、できあがった。荻野さんと飲む機会が多くなったのはそれ以来だ。



 意識は回想から手元に戻ってくる。スマホの画面に映し出された時刻は午後五時十分。通知の山。聞き逃したアラーム。未読メッセージは三桁。同じ数字を連打してロックを解く。通知を無造作に全て消して電源を落とした。

 講義を休んだのは今日が初めてだった。徹夜で飲んだ朝でも、自ら進んで代返まで請け負うような私が、初めて休んだ。メイクもせず、誰にも会わず、家に居たかった。結局、誰からも必要とされない夕暮れ刻が、これほどまでに空っぽだとは思わなかった。



 昨晩は荻野さんと久しぶりに会った。偶然ではなく私が呼び出した。聞いてもらいたい言葉があった。満たされたい心があった。

「結局私は、どう転んでも幸せにはなれないんですよ」

 物心ついたときから分かりきっていた結論を、まるで昨日今日初めて知ったかのように語る私。チキン南蛮を追加注文する荻野さん。運ばれてきたハイボールのジョッキ、二杯目。

「幸せになろうとしてるうちはなれないよ。向上心の裏返しだから」

 前向きに聞こえるが、私には響かない言葉だった。荻野さんもきっとそれを分かっていて、それは投げ槍に吐き捨てるようなトーンに表れていた。

「長原さんは幸せになりたいの」

「じゃあ荻野さんは幸せになりたいんですか」

「俺はどうやったら幸せになれるかな」

 まともな問答じゃない。お互いにそれを分かっている。まるで言葉を覚えたての人工知能か何かが、検索エンジンの予測の網に引っ掛かった単語を繋げているだけのような会話だ。代返をした友人が生成するレポートのような内容だ。それでも単位はもらえたようだ。

 荻野さんの問いに対する答えは浮かばないが、この人が幸せになれないなら私には到底無理だな、という諦めは、私の心をどういうわけか軽くしてくれた。そこに流し込むハイボール。だからストッパーが外れる。

「私最近、進藤さんの家に行くことが多いんです」

「進藤って、あの進藤くんかい」

 ジョッキを置きながら頷く。荻野さんも知っている、同じバイト先の進藤さんだ。

「彼と長原さんなら似合っている」

「皮肉ですか」

「いや、嫉妬だ」

「進藤さんに、それとも私に」

 そんな問いかけを荻野さんはわざと無視する。目を合わせて声を発さない。

 世間一般的に見ても進藤さんは美形で、本人もそれを自覚している。ある程度の傍若無人なら許してしまう女は多く、事実としてその身勝手さが求められていることもまた、彼は知っている。そうでないならば、そう見紛うほどの天性の勘を持っている。

「彼には彼にしか無いものが多い」

 荻野さんの言うことは正しい。でも荻野さんが言うのは間違っている。他人を持ち上げて自己肯定感が低い人間ぶっている。

「だから長原さんも進藤くんに惹かれているのかい」

「逆ですよ。進藤さんが私を求めるんです」

「でも君は応じるだろ。彼はそれを知っているだけだ」

「都合の良いだけが私の取り柄ですか」

「だから似合ってると言ったんだ」

 端から聞いたら修羅場にでもなると勘違いしそうな刺々しい台詞を、私たちはまるで、子守唄のように口ずさんでいた。

「進藤さんにとって、私は、たくさんいる女の一人なんですかね」



「嫌なら辞めたらいい」



 人間と真正面から向き合うことを避けているから、いつか私が初めて向き合う相手がいるならば、それはきっと、本当に好きになった人か、人間じゃない何かだろう。カーテンの隙間から西日が漏れてアルミ缶を照らしていた。

「荻野さんはどっちだったんですか」

 アルミ缶は答えない。



「嫌なら辞めたらいい」

「辞めるきっかけを探してます」

「あ、どうも」

 荻野さんはわざとらしく聞こえないふりをして、チキン南蛮の皿を受け取った。本気ならもう一度口にしてみろと挑発しているのか、気の迷いなら流してやるという優しさなのか、荻野さんは慈しむような目線を寄越した。

 自分の気持ちなんて分からない。でも確かめるための方法を多くは知らなかった。そのために呼んで、荻野さんはここに来た。

「辞めるきっかけを探してます」

「……そっか」

 僅かな間の後に微笑んで、荻野さんはお会計を頼んだ。いつになく穏やかな、どこか悲しげな顔の荻野さんがいる。きっと私のことは全て見透かされている。

「不器用には不器用のやり方があるもんだね」

「皮肉ですか」

「そう、皮肉だ」

 いま、荻野さんの言葉は私だけに向けられているのだろうか。人間好きの人間もどきは、目の前にいる人間嫌いの人間を見ているだろうか。もう、どう思われてもいい。たった一人に認めてもらえなければ、私はきっと救われないのだと、そう思った。

「荻野さんはいいんですか」

「長原さんに呼ばれた理由は分かってたんだ。だから嫌われる覚悟をしてきた」


 居酒屋を出た後に、私たちが解散しなかったのは初めてだった。同じ電車に乗ったのも、同じ駅で降りたのも、実は部屋に誰かを上げたのも、全部初めてだった。

 そして、確かめた気持ちに名前がついたのも初めてだった。


「同情ですか」

 始発電車の少し前、荷物をまとめていた彼の背中に尋ねかけた。それは自分の言葉なのにもかかわらず、後頭部に冷たい痛みを与えた。カーテンの隙間から覗く夜も、上京してから二年経とうとしているこの部屋も、湖の底に沈んだような鈍色だった。

「だとしたら」

「荻野さんを嫌いになります」

「違うなら」

「荻野さんを信じられなくなります」

「そっか」

 酔いと寝不足の消化不良。夢見心地と呼ぶにはあまりにも不安定な浮遊感。スマホの画面で時間を確認した荻野さんの顔が一瞬だけ白く光った。

「長原さんは今まで通りでいたいのかな」

「今まで通りってなんですか」

「バイト終わりに居酒屋寄って、稼いだ分のお金で身体に悪そうな食事と、目的の無い駄弁りを続けて、日付が変わる前に家に帰れる時間に解散する」

「……荻野さんはもうバイト辞めちゃったじゃん」

「そう、だから聞いてるんだ」

 重く冷たく、荻野さんの声が響く。どうしてそんな質問をするのか、らしくもなく透けて見えた。彼の中では決まってる答えを、敢えて私に選ばせようとしていた。

「もう俺と長原さんはバイト仲間じゃない。だから会うなら理由と約束が必要になる」

「今まで通りじゃなければ、私はもう荻野さんに会えませんか」

「今まで通りじゃなかったから、今二人で、ここにいる。こうしてる」

「これからも私が求めたら荻野さんは応えてくれるんですか」

「俺にはそういう生き方ができない。長原さんのことが羨ましいよ」

「皮肉、ですね」

「そうだね。だからきっかけを探してるんだ」

 右頬を熱が伝うのを感じた。その理由が分からないふりをした。

「お互いが幸せになれないうちは、私たちはずっと今まで通りです」

 強がった台詞を吐き出した唇が重なり、荻野さんの右親指が私の頬を拭った。そして部屋はひとりになり、ひとりは床に伏せ、その場で眠りに落ちた。



 気付けば夜になっていた。

 片付けた部屋の隅にゴミ袋を置いた。袋の中には、あらゆる相手から押しつけられてきた気持ちが入っているような気がした。その代わり私の中は空っぽで、今ならどんな高いところへも昇って行けそうだった。

 スマホを充電ケーブルに差す。明日からはいつも通り。普通にメイクをして、興味の無い講義を受けて、がらくたで心を埋めていく。それが一番楽だから。

 薄い壁を隔てた隣室から、古いバンドの曲が聞こえる。曲名は思い出せないが、初めて聞いた時に好きになった曲だった。

 空っぽの中に荻野さんの顔が浮かんだ。だから私たちはきっと、もう会うことはない。

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