僕がタバコを吸った理由

大森

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 「話したいことがあるの」 

最近、何故かそっけなかった彼女から、久しぶりに連絡が来たのは、十一月の半ばだった。僕はあわてて「今週末でも大丈夫?」と連絡を返した。

 「ごめん、忙しいから。」と、言い訳をされ、連絡を絶たれてばかりいたから、唐突な連絡に僕はうろたえた。

 「別れ話なのではないか。」と、不安がよぎった。もしそうだとしたら……そう思いながら、僕は携帯に表示された文面を見て、しばらく固まり続けた。

しかし、ふと携帯に表示された日付を見て、僕は胸をなでおろす。僕の誕生日が二週間後に控えていたのだ。

律儀で優しい彼女のことだから、きっと僕に、誕生日プレゼントの相談でもしたいのだろう。そう思うことで、自分を奮い立たせた。

 いつからか、お互いの誕生日の直前にデートをして、相手の誕生日プレゼントを一緒に買う。それが僕たちのルールになっていた。付き合い始めて六年という時間が過ぎ去っていて、プレゼントのアイデアなんてものはとうに枯れ果てていた。それならばと、本人が欲しいものを選んで、相手はお金を出すだけ、という何とも味気ないお祝いをするのが、僕たちの付き合い方だった。


 待ち合わせの当日、僕は薄手のジャケットを羽織った。テレビから「季節外れのにわか雨に注意。」と聞こえてくるが、空は青々と遠くまで広がっていて、少し歩くと汗ばむくらいに暑く、まぶしい日だった。

 待ち合わせは土曜日の午後の新宿で、すれ違うカップルは皆笑顔で、浮かれているように見えた。僕自身も、数カ月ぶりのデートに心を躍らせていた。学校にも家にも居場所を見出せていなかった僕にとって、彼女だけが僕の全てだった。

 彼女は約束の五分前やってきた。

 「久しぶり、元気だった?」

 「お前こそ元気だったの?」

 「試験とか、サークルで忙しくて。ごめんね連絡が中々返せなくて」

 彼女の言い訳に嘘臭さを少しも感じなかった訳ではないが、それでも、僕は彼女の言い訳を全て信じようとした。

 彼女はよく、女友達と遊びに行くと言いながら、男を含んだサークルメンバーで飲みに行くような人だった。ようは、嫉妬深く、自分と彼女が釣り合っていないといつも愚痴っている僕のために、優しい嘘をついてくれる人だった。

しかし僕だってバカじゃない。各種SNSサイトの彼女のアカウントなんて把握しているのは当然のことだし、なんなら、彼女と特に親しい友人たちも監視していた。

そんな僕だからこそ、彼女の嘘に気が付いてはいたが、彼女の真意を僕は理解していたし、そんなことにいちいち目くじらを立てるのは嫌なので、知らないふりをした。

嫌なことを考えたくはなかった。彼女はあくまでも、今日は僕の誕生日プレゼントの相談に来たのだと信じたかった。


 「僕も忙しかったから大丈夫。喫茶店にでも入ろうか。。コーヒーでも飲んでゆっくりしようよ。バイト終わりで疲れちゃってるんだ」

 僕たちは駅近くの喫茶店に入ることにした。彼女はココアを、僕はエスプレッソを頼んだ。

 「いつもはアメリカンじゃなかったっけ」

 「いや、バイト終わりで疲れてて……、濃いの飲まないと、濃いのを飲まないと、デートなのに寝ちゃいそうでだから」と、僕は笑って、誤魔化すように答えた。

 「昔、寝てたことあったよね」と、彼女はうつむき気味に呟いた。

 長い髪がその顔をベールのように隠していて、僕からは表情が伺えなかった。


 

 果てしなく長い沈黙があって、ようやく飲み物が届いた。僕は急いで、それを口に運ぶ。やはり、誤魔化すように。


 「やっぱりエスプレッソって無茶苦茶に苦いや。量も少ないし」と、おどける僕を見て、彼女は少し笑ってくれた。

 「だから無理しないでアメリカンにすればよかったのに」

「でも、せっかく会えたのに眠い顔でいるのも悪いじゃん」

「そんなこと言ったら、もう悪いことしてるし……、明らかに苦いって顔歪められても逆に困るよ」

彼女は笑いながら、甘そうなココアを口に運ぶ。

「前みたいに寝ちゃうよりはましだろ」

動揺を隠すため、拗ねたように僕は答える。いつまでも「話したいこと」を彼女は切り出さなかった。

僕の目の前には二杯目のエスプレッソとココアが置かれていた。誕生日プレゼントの相談にしては、いやに彼女の口は重く閉じられていた。

 しばらく、周囲の雑踏しか聞こえなかった。僕は、この沈黙をどうすればいいのかわからず、エスプレッソを舐めるようにして、カップから口を離さなかった。彼女はココアを一息に飲んでから、ようやく口を開き始めた。

「あのね、話っていうのはさ」

「うん」


「もう、別れたいの」


「僕のことが嫌いになったの?」と、

 冗談めかして彼女に尋ねる。

 彼女は曇った笑みを浮かべながら、絞り出すように言った。

「あなたのことはまだ好きだけど、あなたの優しさが私には辛いの……」

 目の前が真っ白になった。好きだけど別れたいという感覚が、僕には到底理解できなかった。好きだからこそ一緒にいたいし、何かを共有したいし、何気ない会話で楽しめるのではないのだろうか。

「君が、それで、いいのなら」

 声を絞り出すのが精一杯で、彼女に僕の言葉が聞こえていたのかどうかは解らない。

「ごめんね、誕生日までもうちょっとだったし、プレゼントでも用意してくればよかったかな」

「それだと、僕が、ただのがめついやつみたいじゃんか」

「それもそうか、でも、プレゼント考えなくてよくなったのは気楽だなぁ」

「お前、それが別れたい理由じゃないよな」

 本当に別れ話をしているのかと、我ながら不思議に思えるほど、僕と彼女は下らない言い合いで笑い合った。

 「やっぱりあなたと合っているのは気楽だけれど、それでも、もう付き合っていこうとは思えないの」

 「さっきも言ったけれど、君がそうしたいなら、僕はそれに従うよ」

 「そういうところだよ」

 彼女は柔らかく微笑んだ。

 会話が途切れた。隣の席に座っているホストが、タバコを吸いながら、大声で電話越しに誰かを怒鳴りつけていた。

 「そういえば、あなたって……タバコ吸わないよね」

 「吸わない」

 「私、男性がタバコを吸う仕草って、すごく好きなんだよね」

 「あんなもの、体を悪くするだけで、格好良くもなんともないだろ」

 「私は格好良いと思うけれどなあ」

 「僕、タバコの匂いってどうも嫌いなんだよね」

 「なんで?」

 「オヤジがヘビースモーカーだったからかな」

  僕は左手を振って、漂ってくる煙を払いつつ、しかめ面で答える。

 「それに、僕みたいな、なよっとした男がタバコをふかしていても、格好良いとは思わないでしょ?」

 「そんなことないよ! タバコを吸ってる男性は、みんな一様に格好良いっていうのが私の自論!」

 「なんだよそれ」

 彼女の妙な口調の強さに、さっきまでの緊張が解けた。

そう、僕と彼女が最後に交わした会話は、タバコを吸う男性が格好良いか否か、というなんとも下らないものだった。


 「このあと少し用があって、暇潰しがしたいから、僕はここでのんびりしてから出るよ」

デートだと思っていたのだから、この後に用なんてなかったのだが、彼女にはそう言って、先に店を出てもらうことにした。

 彼女もそれを解っていたには違いない。しかし何も言わず、笑顔で「またね。」とだけ言って席を立った。

隣の席からずっと漂っているタバコの香りは、いつの間にか嫌に感じなくなっていた。僕の目の前には、冷めきったエスプレッソがあるだけだった。



 あの日以来、僕は彼女と会っていない。ただ、僕はタバコの匂いが好きになった。僕の周りでは、いつも紫煙が行く当てもなく宙をさまよっている。

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