穴を掘る男の話
@DEGwer
穴を掘る男の話
穴の底に、微かな緑の点が見えている。
草木が生い茂るほどの雨はなく、大地を砂粒に帰すほどには乾燥していない中途半端な場所に、その穴はある。穴はその広さに対して不釣り合いに浅く、深さはせいぜい大人の背丈ほどしかない。滅多に吹かない風に吹かれてか、この穴の中に落ちた草の種は、見渡す限り赤土ばかりのこの土地の単調な日光を浴びて芽生えたようだ。何もない大地に生えた草の芽は孤独で、そもそもの初めから瑞々しさなどとは無縁だった。
しかしおよそどのような形であれやはり草は生命であり、そしておよそ穴というものに生命は不要だ。穴とはすなわち空虚であり、草は空虚にそぐわない。俺は壊れかけのシャベルで、周りの土もろとも、その草の芽を穴の外へと放り投げる。
俺は今日も、穴を掘っている。俺は昨日も、穴を掘っていた。俺は明日も、穴を掘る。
俺が穴を掘り始めたのは、およそ二十年前のことになる、らしい。らしいというのは俺がカレンダーを見ることはないからであって、というのもカレンダーとはあくまで他と異なる一日を他から区別するために存在し、そしてここに他と異なる一日などというものは存在しないからだ。つまり俺の勤続期間というものは俺にとって又聞きでしか知りえない情報、ということになり、その又聞きというのも新入り同士の噂話が漏れ聞こえるだけだから、信憑性は大層疑わしい。そもそも、俺が最後にその噂話を聞いたのがどれくらい前のことだったのかということすらさっぱり見当がつかず、つまり俺の正確な年齢は俺の知りうる情報ではない。毎年変わる情報をいちいち追い続けていられるほど、俺は物好きでも情報通でもない。
俺が穴を掘り始めた理由は、確か家族に仕送りをするためだった。仕送りをするためだったと過去形になっているのは今や家族のことを思い出すことはないからで、そもそも子供が何人いたのかさえ思い出すことはできない。三人か四人の息子がいたということ、それと娘はいなかったということは憶えている。息子たちについての記憶は混ざり合い、どれが誰についての記憶だったかなどと言うことを思い出せるとは思えないし、その必要もない。そしてここには、三と四の違いに敏感になるべき理由など存在しない。三とか四とかいう数の概念は、この単純な土地にはいささか複雑すぎる。一、二、たくさん。たくさん、たくさん、すごくたくさん。ここではこれで充分だ。
もちろん、仕送りをやめると決断した覚えもなく、つまり俺の給料の一部は今でも顔も忘れた家族のもとへ届いているのだろう。雇い主のジミーは毎日律儀に俺の給料の残り半分を渡してくれるが、そもそも使う機会のない者にとって紙幣とは紙屑に過ぎない。服と食事、そしてベッドはジミーが用意してくれているからこの赤土の大地を離れる理由はないし、最寄りの店――すなわち紙屑を紙屑以外の何かに変換するという行為が可能な場所――までは五十マイルほど離れている。というわけでもらった紙切れはいつも適当にそこらに放り出しているのだが、その紙切れがその後どうなっているのかは分からない。少なくともそこらに紙幣が散らばっているという光景は目にしないから、誰かが拾っているのだろうが、ジミーが拾って俺の家族に送っているのか、それとも同僚が拾って何らかの足しにしているのか(当然同僚たちにも金の使い道はないはずだから、何の足しになるのかは分からない)、それとも風に飛ばされているのか、そんなことを気にしても仕方ない。昔、まだこの仕事を始めたばかりの頃、どうせ使うあてがないのなら紙切れを穴に埋めてしまおうと考えたこともあるが、ジミーのいる事務室――この土地に一軒だけあるボロボロの平屋の一角を占める大部屋で、食堂としても使われている――から穴までわざわざ戻るのは面倒だった。そもそも俺の仕事は穴を掘ることであって埋めることではないし、それに翌朝また穴の中の紙切れを掘り出すことになる。
「今日から、本日からお世話になります、マイク・カーペンターと申します。えっと、これから、よろしくお願いします」明らかに緊張を感じさせる若い声が、穴の縁から聞こえてくる。最小限の首の動きで声の方を見やると、六フィートほど上に若い男の顔があった。日に焼けていない首筋と少し脂肪の残った身体――ここでは新入りだけが持つ特徴――を持つ男は、時折目を泳がせながら、体のあちこちを小刻みに動かし続けている。俺はシャベルを握る手を止めずに、ああ、とぶっきらぼうに一言返す。気圧されたのか、新入りは使い古しの備品のシャベルを右手から左手、左手から右手へと持ち替え続けながら、
「えっと、これからお世話になります、未熟な点ばかりだと思いますので、何か、仕事をするうえで気を付けておくべきことなど、ご教授いただけないでしょうか」と話をつなぐ。「無いよ」少なくとも
「えっ、あの、この道にでは伝説のような方だとお聞きしまして、何かこう、一言でいいので、教えていただきたいなと」新入りは、目の泳ぎをさらに大きくしながら続ける。
「掘るだけだ」俺は人に教えられるようなことなんて何も知らない。ここはあんたが期待しているような場所ではない。ここに期待することなど何一つない。新入りが入ってくるたびに、俺はこの場違いな初々しさにいたたまれなくなる。
「あっ、えっと、お忙しいところお邪魔してすみませんでした!」マイクは耐え切れず、頭を壊れたからくり人形のように不器用に上げ下げしながらどこかへ行ってしまう。そして俺は経験から、これが新入りとの最初で最後の会話になることを知っている。
別に俺は、穴を掘るのが好きなわけでもない。もちろん嫌いなわけはないのだが、それは俺に好きなものも嫌いなものもないからに他ならない。ジミーは俺が穴を掘り続けられることをめったにない才能だと言うが、全く意味が分からない。俺がやっているのはただ穴を掘ることであって、それ以上でもそれ以下でもない。仮にそれが才能だとしても、それは穴を掘ること以外の役には立たず、すなわち何の役にも立たない才能だということになる。俺はこの仕事を誇るべき仕事だと考えたことは一度もないし、別の仕事というものはすっかり忘れてしまった。俺は穴を掘ることが無益であると確信しながら穴を掘り続けるし、そして世の中に穴を掘るよりも有益なことがあるとも思わない。
ジミーの平屋を除いて、ここにあるのは赤土だけだ。赤土だけは豊富に存在し、それ以外に豊富なものはない。そして赤土だけがある土地とは、すなわち何もない土地だ。ここには何もない。ここは極限まで抽象的だ。この土地は現実とのつながりを持たない。世界からこの土地が丸ごと取り除かれても、現実は一切変化しないだろう。その意味では、この土地はフィクションだ。
俺はシャベルで土を放り上げる。放り上げた土の向こう、西の方角に、困り果てたマイクの姿が見える。他の同僚に何かを訊ね、期待した返答が得られずにいるのだろう。もちろん、まともな答えなど帰ってくるはずはない。誰も答えなど持っていないし、持つ必要もない。広大な土地のどこを掘ろうと勝手だし、穴を掘るだけの作業に流儀も何もない。ただ闇雲に掘っていればよいのだ。当の彼だってここで一週間も過ごせば、ここには何も学ぶべきことはないということを十二分に理解できるだろう。
マイクが来てから、俺の記憶が正しければ、二日が経った。案の定、あれ以降俺はマイクと話すことはなく、もちろん他の同僚と話すこともなかった。俺が一日に発する言葉は、特別な場合を除いて、ぴったり一音だ。ん。毎晩給料をよこすジミーへの、極限まで簡略化された無造作な返事。
俺の一日は夜明けとともには始まらない。俺の一日は俺が始める。しかし俺は判断ということをしないから、つまり俺の一日は勝手に始まるということになる。ジミー曰く、俺の生活周期は「機械のように精密」らしいが、別にそうあろうと目指したわけでもない。朝起きて、スティック状の食糧を口にすると、シャベルを持って穴へと向かう。太陽が高く昇った頃、ジミーが昼食だと叫ぶ。俺はすぐに作業を切り上げ、事務室兼食堂へと向かう。昼食は朝と同じスティックで、俺はその棒にいまだかつて味というものを感じたことがない。食べ終わると俺はまた穴へと出かけ、また穴を掘る。いくらか時が経ったら、俺はシャベルを片付け、夕食――スティックのほかに冷めた塩味のスープが付いており、この塩味がここに来てから味わったことのある唯一の味である――を摂る。そしてシャワーを浴び、ジミーのところで給料を受け取ると、寝るためだけに俺の部屋に向かう。俺の部屋にあるものは備え付けのベッドと本棚だけで、本棚はいまだかつて使われたことがない。
俺が穴を掘ることでなぜ俺に給料が支払われるのか、そんなことを説明できる理屈は存在しない。社会的成功などには一切興味のない中年男にしか見えないジミーが実はやり手の経営者だった、とかそういった可能性はすべて、全く考慮するに値しない。ジミーがやり手だとかやり手でないとか――もちろん、ジミーがやり手であると少しでも考えることはやはり不可能に近いのだが――そういうこと以前に、そもそも俺は何も生み出しておらず、そもそも穴は何も生み出さない。そして、俺に払われる給料の謎を解く必要もまた、存在しない。俺は穴を掘っている。これは疑いようのない事実だ。ジミーは俺に給料を渡している。これも疑いようのない事実だ。疑いようのない事実が二つあり、それ以外のものは何もない。よってここには、何も疑うべきことはない。
経済学というのは、俺の状況を一切説明しないという一点において、既に嘘っぱちだ。そして説明の必要のないことを説明しようとするという一点において、経済学は見当はずれだ。説明されようがされまいが、俺は現に穴を掘っている。そして役に立たないという一点において、俺と経済学は同じだ。
俺は単に、穴を掘る。ざくり。ざくり。シャベルが土に食い込む小気味よい音は真昼の日差しの中へと消え、そして俺以外にその音を聞く者はいない。ざくり。ざくり。
俺がそろそろ帰ろうと思い始めたころ。西の方からなにやら叫ぶ声が聞こえた。近くで穴を掘っていた男たちが手を止め、ぱらぱらと声のした方へ駆け寄るのが見える。そして男たちは地平線、すなわち穴の縁の下へと姿を消す。数十秒の間をおいて、笑い声。ぺこぺこと頭を下げるマイクの肩を、同僚たちが笑いながら叩いている。
俺から一部始終は見えなかったが、何が起こったのかは十分に理解できた。穴を深くするのに夢中になったマイクが、深くしすぎた穴から出てこられなくなったのだ。俺は以前にも、このような光景を何度か見たことがあった。今更可笑しくもない、普通の光景。
どの新入りも、穴を深くしたがる傾向にある。穴など好き勝手に掘ればよいのだが、彼らは決まって穴を深くする。ただ掘るだけの仕事だと頭では理解しつつも、どうしてもそこに何らかの価値を見いだそうとしてしまうのだろう。もっと深く。もっと深く。塔の価値は高さにあり、塔の幅はその高さを支えるためのシステムに過ぎない。穴の価値は深さにあり、小さく深い穴は大きく浅い穴に優越する。そして彼らは、深さも大きさと同じくらい無価値だということを理解しながら、それを認めたがらない。穴はどのような意味においても無価値だ。穴とはそこにあるはずのものがない状態であり、穴が何かを損なうことはあっても、穴が何かを生み出すことはない。
ざくり、ざくり。俺は掘り続ける。俺は毎日、掘り続ける。俺の手段は穴を掘ることで、俺の目的も穴を掘ることだ。俺は穴を掘ることによって穴を掘る。俺は穴を掘るために穴を掘る。手段と目的は同義語だ。俺は穴を掘る。ざくり。ざくり。
ざくり。
こつっ。
シャベルの先端が何かに当たり、俺は確認のためにかがみこむ。次に穴になるはずだった場所から、透明な塊が覗いている。周りの土をシャベルで除けると、その塊は簡単に取り出すことができた。掌にちょうど収まるくらいの大きさの、八面体の透明な塊は、シャベルを握っていた手の上でも自らの質量を主張している。
もしや。
シャベルについた土を払い落とし、露わになった鉄の部分に塊をゆっくりとこすりつける。シャベルが鈍い悲鳴を上げる。俺は塊を見る。塊に傷はついていない。
これは。おそらく。
ダイヤモンドの原石。
俺の身体は動きを停止している。
俺は塊を見つめる。塊の奥の掌は、塊全体を染め上げる赤色の背景だ。西の方からはまだ、笑い声が断続的に聞こえてくる。笑い声の向こうの赤く染まった空を、俺はダイヤモンドの奥に透かしている。
俺は今、巨大な価値を手にしている。
これは、おそらく、喜ばしいことだ。
しかし俺はただ、戸惑っている。
形を持たない、思考以前の何かが、俺の頭の中を無秩序なイメージとして駆け巡っている。俺はそのイメージをひとつたりとも、言葉として捕まえることができない。俺は二十年ぶりに戸惑っている。俺は、ここで働き始めて以来、初めて冷静さを失っている。
笑い声が近づいてきて、俺は我に返る。ジミーの建物と俺の穴を結んだ直線を伸ばした先に、マイクは穴を掘っていた。同僚たちがマイクを引き連れて、事務室に戻るところのようだ。俺は慌ててダイヤモンドを元あった位置に戻し、それと分からないように土をかける。ざくり。俺は平静を装いながら、再び別の場所を掘り始める。俺は、しかし、穴に集中することができない。無心でいることができない。もし同僚の誰かがこのときの俺を注意深く観察していたなら、俺の視線が時折ちらちらと特定の方向を指していることを見抜いただろう。しかし同僚たちにとって、俺はいつも単に風景の一部だ。俺は彼らの観察の対象にはなりえない。彼らは、幸いにして、俺がいつも通りに穴を掘っていると思っている。
同僚たちが過ぎ去ると、俺は再び原石を取り出す。あたりは少しずつ、暗くなり始めている。透明な正八面体は変わらず、そこにある。八つの正三角形が、それぞれ現物以上に幻想的な夕暮れの空を映し出している。この土地の地面は単調で、空も単調だ。だがダイヤモンドを介して見る空は、どういうわけか起伏に富んでいる。
さて、こいつをどうしたものか。
俺は初めて、現実の問題に行き当たる。
俺はここ二十年で初めて、現実と対峙している。
突然目の前に現れた、選択の余地。
俺は判断をしなければならない。
俺は考えようとする。俺は考えようとして、考えようと考えることに集中する。俺は俺が考えようと考えているということを考えている。
そして俺の脳は、俺の意思とは裏腹に、少しでも判断につながりそうなことが思い浮かんだ瞬間、それについて考えないことに全力を傾けようとしている。
穴の中に長い影が伸び始め、俺は我に返る。俺はどれだけの間、掌の石を見つめて立っていたのだろう。俺は日が暮れかけていることに気付く。暗闇の中で、大穴がそこかしこにあけられた土地を歩くのは危険だ。現実が別の現実に押しのけられる。今、俺がすべきことはダイヤモンドの使い道を考えることではなく、暗くなる前に事務室に帰ることだ。
俺は再びダイヤモンドを埋め戻して、事務室へと急ぐ。事務室に帰ることだけを考え、ダイヤモンドのことは極力考えないようにした。勿論、これは判断の後回しでしかない。それでも、判断というものをすっかり忘れてしまっていた俺の脳にとって、それは束の間の解放だった。
事務室兼食堂では、同僚たちがマイクを囲んで騒いでいた。「お前だって入りたての頃、穴から出られなくなってたじゃねぇか」笑い声。「それは言わないって話だったじゃないですか」笑い声。部屋は広くはないから、笑い声の主はすぐ近くにいる。しかしそれは、何マイルも向こうの街から聞こえてくるようだった。
「どうした」ジミーの声で俺は我に返る。俺は何回我を忘れれば気が済むのだろう。「何がだ」俺は本能的に、そう返している。決して大きくはない俺の声は、それでも俺が声を発したという事実だけで、同僚たちを静まり返らせるのに充分だった。
「食べる手が止まってる」ジミーはそれだけ言うと、さっさと部屋から出て行ってしまった。俺は確信する。ジミーには分かっている。ジミーは俺が普段とは違う状態にあるということを、正確に感じ取っている。俺は俺自身に興味がないから、俺が普段食べるときに手を止めないのかどうかなんてことは分からない。だが少なくとも、ジミーがこのように声をかけてくるなんて、これまでには一切なかったことだ。
しかし今日の給料をよこすジミーは、残酷なまでに普段通りだった。
その晩はなかなか寝付けなかった。俺は二十年ぶりに、考えていた。何故俺はダイヤモンドを見つけたのか。穴を掘ったからだ。何故そこにダイヤモンドがあったのか。分からない。あったものはあったのだ。俺は地質学には詳しくないから、ダイヤモンドがどういうところで採れるのかは知らない。しかし、あったということは採れるのだろう。待てよ。あれは本当にダイヤモンドだったのか。いや、あれはダイヤモンドだ。小さいころに図鑑で見た八面体と、あの石は酷似していた。
ジミーはここにダイヤモンドがあるということを、少なくともあるかもしれないということを、知っていたのだろうか。知っていたとすれば、俺が雇われているという謎――ずいぶん昔に解決を諦め、以後不問にすることにしたその謎――は解決される。ジミーはダイヤモンドを見つけるために、俺にここを掘らせた。ジミーはこの赤土の大地に投資し、そして成功した。単純な話だ。しかし、そんなに単純で良いのだろうか? そもそも、ジミーは明確な目的を二十年間も黙っているような男だろうか? 俺は穴を掘る以外の目的のために、二十年間も穴を掘り続けていたのか? ここには存在しないはずの現実のために、俺は働いていたのか?
全ては俺の見た幻だったのではないか? ダイヤモンドなど存在しなかった。そうすれば少なくとも、何も考えなくて済む。しかし、俺は二度もあれを掘り返した。だからたぶん、あれは存在する。どちらにせよ、明日また掘り返してみればわかる話だ。
ダイヤモンドが存在したとして、俺はあの透明な石を、どうすればいいのか。
ジミーに渡して忘れてしまうのは、ひとつの手だ。確認したことはないが、この土地はジミーの管轄のはずだ。それならそこで採れたものも、ジミーのものということになるだろう。皇帝のものは皇帝に、ジミーのものはジミーに。
しかし俺の本能は、その解決策に首を振っている。俺はこれを、ジミーに渡して終わりにするべきではない。おそらくこの感情は、二十年間日の目を見ることのなかった、現実への渇望だ。急に現れた現実に、俺は希望を感じている。これは俺の問題だ。俺以外の誰の問題でもない。俺はこの透明な塊で、何かを成せる。
何かを。
何を。
ここで俺は初めて、この塊をどうにかするに足る目的を、俺が持ち合わせていないことに気付く。
束の間の希望は潰え、虚しさが襲ってくる。俺はこの透明な塊で、何を成したいのか。富が欲しいのか。違う。俺は富を必要としていない。あれを売れば恐らく巨万の富が手に入るだろうが、俺には富の使い方など一切分からない。では名声か。これも違う。
俺はダイヤモンドで、何をすることもできない。俺は、現実の扱い方を何一つ知らない。
それならいっそ、手元においてはどうか。俺はそのアイデアを、それに縋りつくように評価する。いや、俺には審美眼がない。誰かがこっそり俺の部屋のダイヤモンドをガラスのレプリカにすり替えたところで、俺は気付かないだろう。それならそんなものは、手元にあっても仕方ない。
俺は、あの塊で何もできない。
俺は別に、現実から逃げようとして穴を掘っていたわけではない。俺には逃げたくなるような現実なんて始めからなかった。俺はただ、穴を掘っていただけだ。現実から逃げようにも、ここにはそもそも現実の方が存在していなかった。
しかしダイヤモンドとは現実だ。俺の本能は、ダイヤモンドに価値があると言っている。しかしその価値のすべては、俺の知らない現実の中にある。
具体性が支配する世界。ダイヤモンドが価値を持つ世界。
俺はその世界の価値を、何一つ受け取ることはない。
翌朝。俺はいつもの時間に目覚めた。身体に染み付いた生活習慣は、一晩の悩み程度で乱されるものではないようだ。しかし俺の身体は何かふわふわと浮かんでいるようで、俺の足は大地を踏みしめていない。
朝食のスティックをかじる。俺は考えなければならない。俺は昨日の続きを考えなければならない。俺は昨日の思考を思い出そうとする。俺は思い出した昨日の思考を、頭の中で朗読する。しかし俺の姿はまるで覚えた言葉を繰り返すだけの鸚鵡のようで、読み上げた言葉が俺の頭の中に意味という像を結ぶことはない。
俺は、俺には考える必要があるということそれ自体以外に何も考えることができない。スティックを食べ終わった俺は、機械的にシャベルを取り、機械的に建物の外に出る。
俺の身体が太陽の光を浴びた、その瞬間。
朝の太陽が、一瞬にして昨日の俺を消し去る。昨日の俺の迷いが復活するという希望は、ここで完全に打ち砕かれる。悩みがすべて、一瞬にして過去の記憶へと昇華する。幻想の中の現実を一瞬のうちに叩き潰す、日常という虚構の暴力。
ざくり。俺は穴を掘っている。俺の頭脳は明晰になる。シャベルの柄を通じて、大地から俺の腕に喜びが伝わってくる。俺は初めて、穴を掘ることに喜びを感じている。
俺はその時、どこにダイヤモンドを埋めたのかさえ忘れかけたほどだ。俺は無関係に掘っている。無秩序に掘っている。穴に掘るべき順序などない。俺はどこを掘っても良い。俺はどこだって掘れる。
思えば単純なことだったのだ。俺にはダイヤモンドなど始めから必要なかった。赤土の中から出てきた石ころをしかるべきところに持っていけば、役に立たない紙きれを得ることができる。俺は昨日、無価値の中から無価値を取り出した。その取り出した無価値は、ただ別の無価値に変換することができるのみだ。俺と現実は本質的に無関係だ。ここには何一つ意味のあるものはないという事実を、俺は改めて思い出している。俺は俺が虚構の中の存在であることに喜びを感じている。俺はただ、穴を掘っている。ざくり。ざくり。
俺はこれからも穴を掘り続ける。俺は永遠に掘り続ける。穴を掘っている限り、俺が死ぬことはない。死とはつまるところ、現実だからだ。俺は永遠に生き続ける。もし俺が掘り続けて、この地球全てが俺の穴になったとしても、それでも俺は掘り続けるだろう。何を、と問うてはならない。俺は掘るのだ。嘘っぱちなのは経済学だけではない。物理学だって嘘っぱちだ。仮にそこに掘るものがなくなったとしても、俺は穴を掘り続けるのだから。
ジミーが昼食だと叫ぶ。俺は構わず掘り続ける。俺は土を放り投げ、次の瞬間には放り投げた土のことを忘れている。俺はただ掘る。俺は掘る。自然と笑みがこぼれ、掘るスピードが速くなる。
昼食の号令が聞こえなかったかのように穴を掘り続ける俺を見て、昼食へ向かう同僚たちが怪訝な顔をする。構うものか。同僚たちは顔を見合わせながら、建物の中へと消えていく。
少し遅れて、マイクが小走りでやってくる。俺はマイクを呼び止める。俺はダイヤモンドのあった場所へ行くとその石を取り出し、穴の外のマイクに向かって投げ上げる。
真昼の太陽光を反射して輝く石の中で、二人の視線は初めて出会う。
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