四、
おかしい。なんだ、あれは。
虚神憑きとなっていた砥部は、虚神の侵食が最深にまで達していた。
虚と瘴気を隠すことが出来るほど力を得た虚神憑きは、現世の理すらねじ曲げることが出来る凶悪な存在だ。
そうして、額に角を帯びて「鬼」となった虚神憑きは、天災と変わらない。
何十人もの虚神狩りが多大な犠牲を払って討伐するのである。
さらに言えば、砥部という男は、火盗として長年修羅場をくぐり抜けた人物だ。
虚神の力と達人の域に達した剣術が合わされば、もはや個人でどうこう出来るわけがないのだ。
少なくとも、正目の常識では間違いない。
にもかかわらず、断続的に硬質な音が響いている。
虚斬りと名乗った男が、未だ倒れていないからだ。
四方から縦横無尽に襲いかかる蜘蛛足をたった一振りの刃で受け流していた。
地を這うように姿勢を低くしたかと思えば、すくい上げるように刀を振るう。
体勢を崩しながらも、蜘蛛足が襲いかかってくれば、すぐさま刃で防ぎ、さらに踏み込んだ。
致命傷以外は無視し、砥部の脇腹へと刃を滑らせるほどに。
傷は浅くとも、確かに届いていた。
砥部が牙をむけば、獣のように反応し蹴撃を見舞って離れる。
「てめえの毒、咬まなきゃ流せねえんだろ。娘っこの腕にかみつくたあ、変態だなおめえさん」
「貴様、ちょこまかと! 羽虫の分際でっ」
平蔵の挑発に見事に乗った砥部は、気炎を吐いてふるうが、刃に精彩を欠いていた。
剣術家としては、型破りも良いところ。
足癖の悪さも特出すべきであり、断じて剣豪と認めるわけにはいかない。
しかし、荒い息を付きながらも、虚神狩りでも何でもない男、平蔵は鬼を圧倒していた。
だがあの刃を抜いた正目だからわかる。その光景があり得ないことを。
「だって、あの鞘神は……」
「抜き手の魂を形にしているからありえない、ですか」
正目ははっと振り返る。
体を起こした鎬は、顔色悪く、震えながらも、ただ平蔵の戦いぶりをじっと見つめていた。
その横顔に正目は己の震えをぬぐうように言い募った。
「そうだ。確かに鞘神様は、芯となる刃の表面を神力で覆うことで、この世ともあの世にも属さぬ
「それでも虚神を断ち切るには弱く、現世の存在である宿り主ごと滅するしかありません」
長年、虚神狩りの間では長年解決できぬ問題と認識されていた。
だが、鎬は正目を向かぬまま重大な事実を告げた。
「ですが、蘇芳さんは抜き手の魂そのものに神力を混ぜ合わせることで、虚神のみを断ち切る刃を創り上げているのです」
明確に言葉とされた正目は、腹の底からわいてくる恐怖を堪える事が出来なかった。
「そんなことをすればどうなるかわかって言っているのか!? むき出しの魂は心の臓を外にさらしているようなものなのだぞ。刃が砕ければ死ぬではないか! 俺は切り結んだだけで意識を失ったのだぞ!?」
正目が叫ぶ間にも、がんっ! 平蔵の刃と蜘蛛足が切り結ばれる音が響く。
正目は幼少の頃から、虚神狩りについて、鞘神について学んできた。
虚神狩りに必要な術は誰よりもうまく扱えた。
自負もあった。ずっとずっと、虚神狩りになることが当然だと認識していた。
なのに鞘神達は正目を選ばなかった。
理由がわからなかった。理不尽だと思った。当たり散らしもした。
ようやく任された蘇芳は多くの抜き手も避けた曰く付きだったが、あの名工
しかし鞘神は正目に刃を抜かせようとしなかった。それに苛立ち、怒鳴り散らしたが、今なら理由がわかる。
砥部を斬るために、あの刃を抜いた瞬間を思い出すだけで、今でも心が震える。
むき出しの心をさらし、傷つくことを厭わず、瘴気に穢される事を恐れず、ただ虚神を断ち斬り、縁もゆかりもない他人を救うために振るわなければならないのだ。
研ぎ澄ませるなぞ、到底無理だ。
そんなこと、己にはとても出来なかった。
一合切り結ぶだけで、魂が悲鳴を上げた。
あんなものを創り上げた天邦は、化け物か鬼畜だと思った。
「あんなもの、正気の抜き手が使って良いものではない!」
しかし。だが、しかし。
あり得ぬと断じる正目の前で、平蔵は普通の刃と変わらぬように銀の刃を振るっている。
砥部の悪意も敵意も、すべてむき出しの魂で受けているのだ。
にも関わらず、太刀筋は一度も鈍ることなく、むしろ鋭さを増しているように思えた。
一瞬、蜘蛛足がひるんだ隙を見逃さなかった。上段からの切り下ろしで、蜘蛛足の一本を断ち切る。
なにか妙だと感じていれば、男は笑っていた。
声はない。ただ唇の端が愉快気に弧を描いていて、正目はぞっとする。
その姿はさながら修羅。どちらが虚神憑きかわからぬほどの様相であった。
常識ががらがらと崩れていく衝撃に、正目が息を荒げていれば、鎬の声が響く。
「正目様は、蘇芳さんを使えなくて当然だったのかもしれません」
「俺が、あいつに劣っているとでも」
そぶ、と腹に空いた虚が騒ぐのを覚えたが、鎬はあっけらかんと言った。
「いいえ? わたしは正目様ほどすごい人を知りません。けれど、ただ蘇芳さんが求めている抜き手じゃなかったんです。平蔵さんが蘇芳さんにお似合いだったってだけの話だと思うんですよ」
毒に侵されているとは思えないほど、明るい声音で告げられ、正目はすとんと力が抜けた。
あれほど厭っていた娘の言葉が、すんなりと耳をとおり、身の内へと落ちていく。
代わりのようにこみ上げてくるのは、笑いだ。
うるさいと思ったら、勝手に笑っていたらしい。
鎬が真っ青になって慌てていた。
「ま、正目様!? もしや虚神に……て、ないですね」
「いやなに、確かにあのようなことは大馬鹿野郎にしかできまい、と思っただけだ」
正目は平蔵と呼ばれる男に、被った屈辱を鮮明に覚えている。
わずかばかり残っていた自信を完全に打ち砕かれ、少しだけ、と考えていた薬の量が増えた。
なぜ、なぜとそればかりをくり返していたが、あの男の振るう刃を目の当たりにすれば、否応にもなく理解するしかない。
たかだか酔っ払いの太刀筋の鋭さに羨望を覚えた己を、認めたくなかったのだ。
己が試した鞘神を持つ娘が、うろたえて居るのをほうっておいて、正目が涙をにじませながら笑い転げていたが、かさこそと音がする。
いつの間にか正目達の周囲を人の生首をした蜘蛛が囲もうとしていた。
鎬は表情をすがめ、力がない所作ながら大太刀を構えた。
「すみません。正目様、いつもと同じようには動けません。努力はしま、す……?」
正目が鎬の前に立った事で、鎬が困惑をあらわにする。
「ふん、馬鹿にするな。俺とて玖珂だ」
正目は、塗りの剥げた鞘に納まったただの刀を抜きはなち、懐から札を取り出す。
大した脅威ではないと思われたのか、道具は一切取り上げられなかった。
また、ぞぶりと腹の奥で感情が暴れかけるが、鈍色に輝く刃を見れば落ちついた。
鞘神がおらずとも、己が長年培ってきた技術は裏切らない。
刃に札を貼りつけ、念を込めれば、たちまち霊力で覆われる。
「この程度の雑魚、一人でどうとでもなるわ」
間髪入れず、襲いかかって来る生首蜘蛛に上段から刃を振り下ろす。
塵となって消えていく蜘蛛を皮切りに飛びかかってくる蜘蛛を、正目は刀と札を用いて防いでいく。
「鎬、なにを突っ立っている。お前は虚神狩りだろう! 虚神のうの字も知らぬあの大馬鹿者に、狩りのなんたるかを教えてこい!」
「は、はい正目様っ」
爆札による煙幕によってひるんだ蜘蛛の間を、鎬はよろめきながらも走って行くのを見送る。
己にその後は追えない。
虚神狩りはそれだけ過酷なもの、術者といえど容易に近づけば足手まといになる。
しかし、雑魚といえど、虚神憑きのの加勢に入られれば、形勢が逆転してしまう。
これはただの意地であり、己が虐げた鞘神への贖罪などではない。
合理的に考えて、これが最善であるだけだ。
「俺に露払いをさせるなど、後で覚えておけよ、虚斬りめ」
そううそぶいた正目は、印を組び、蜘蛛どもと相対したのだった。
*
もう一本、蜘蛛の足を奪った平蔵は、体の重さを自覚していた。
確かに常になく意識を集中しており、足も腕も酷使している。
しかし肉体的な疲労よりも精神の疲労が重くのしかかっていた。
集中が乱れたとたん、蜘蛛の糸に足を取られた。
すかさず、蜘蛛足の鋭い刺突が襲いかかる。平蔵は刃を盾にしてそらしたが左肩に熱さを覚えた。
そのまま吹っ飛ばされた平蔵は着物が血潮に濡れていくのを感じながらも、反射的に笑った。
刀を振るって愉快な気分になるのは久々だった。
とはいえ、と、平蔵は砥部に視線を凝らす。
未だに虚を見つけられられずにいた。
絡め手を駆使することによって蜘蛛足は五本にまで減らされているが、砥部の動きは鈍ることがなく、痛打に至って居ないことが知れた。
対して平蔵と言えば、受け損ねた蜘蛛足による切り傷が全身に刻まれ、今新たに増えた肩の傷は、刀を握るのにも支障がでそうだった。
これ以上膠着が続けば、平蔵は不利になるばかりだったが、未だに平蔵は砥部の虚を捉えきれていなかった。
しかし、形勢で有利なはずの砥部の攻勢が鈍い。
「なぜだ!」
振りかぶられた蜘蛛足を刃で受け止めた平蔵に、砥部のいらだたしげな声が響いた。
「それほどまでに傷を負いながらなぜまだ立ち上がれる!? 貴様はただの人間ではないか!!」
炎のような激しい打ち込みだったが、平静を掻いているのか、単純になっていた。
応じてやる義理はなかったが、一つ一つ捌きながら、口角を上げて見せた。
「んなもん、折れるか折れないかは、俺が決めるからに決まってるからだろ」
たったそれだけの意地だ。
そしてさやが信じるからには、平蔵は折れるわけにはいかないのである。
ぐ、と体に力がみなぎった気がして、砥部がひるんだ隙を逃さず、はじき飛ばす。
体勢を崩した砥部に、平蔵はすかさず追撃を仕掛けようとした。
しかし、平蔵は怖気を覚えて飛びすさる。
よろめいた砥部の周囲を取り巻く魍魎がぞぶとうごめいた。
「ありえん、ありえん。それがしは神の力を手に入れたのだぞ、たかだか浪人一匹を殺せぬなどあり得ないのだ」
明らかに様子がおかしい砥部が言葉を発するたびに、魍魎が呼応するようにうごめく。
「ああなんだ、簡単ではないか。この声に応じれば良い。だろう、我が身に宿る虚神よ」
砥部が、まるで祈るように呼び掛ける。。
「我が身を明け渡そう。それがしが浪人ごときに負けるなどあり得ないのだから」
「てめえ、それは」
まずい、と言う言葉が形になる前に、砥部の体に空いた虚が全身を飲み込み。
反転した。
べりべり、と砥部という存在を引き裂くように、ぽっかりと空いた虚から、なにかがまろびでてくる。
あれは、出てきてはいけないものだ。
全身が逆立つような怖気をねじふせて、走ろうとした矢先。
『へーぞー!!』
さやの警告が耳に入ると同時に衝撃に吹き飛ばされた。
かすむ視界で、虚から出てきた、太く硬質な足になぎ払われたのだと知るが、体を抜ける衝撃に血反吐を吐きながら、どうすることも出来なかった。
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