平蔵、己を顧みること。

一、

 

 白が、よぎる。

 深、深、と降り積もる凍えるような雪の白に、赤い花が咲いている。



 まぶたに焼き付くような鮮烈な色合いに、泥のように黒々としたものが無粋に混ざるのがもったいないと、平蔵は感じた。


 その無粋な黒が、先ほどまで動いていた同藩の家臣たちであることが、どこか現実味がわかない。

 平蔵の全身を貫いた鉛玉による激痛すらも意識の外だ。


 自身の体から流れゆく赤で、雪が赤く紅く染まる中、肉を刺し貫く音がした。

 くぐもった悲鳴が、白の世界に吸い込まれ、静かに崩れ落ちる。


 派閥の先頭に立っていた家老は、自身も道場で流派の免許皆伝を持つ剣の達人であった。年を取り、一線からは遠のいたとはいえ、その豪剣は国中に知れ渡っていたほどの。

 しかし今は、顔の作りも体型もわからぬほどに切り刻まれ、血にまみれた肉袋と化している。


 その様をなんの感慨も宿さぬ瞳で見おろすのは、一人の青年であった。

 年はすでに三十路を越えているはずだが、青年、と言う表現がしっくりくる、線の細い柔和な男だ。


 平蔵のあこがれであった。命を賭してお仕えしようと決めていた。


雪宗ゆきむね、様』


 平蔵のかすれて溶け消えそうなその声に、青年はこちらを振り向いた。端正な顔に浮かぶ理知的な表情は、イチイの木の下で気さくに話しかけられた時と何ら変わらない。

 にもかかわらず、手に握られた血刀と、その額に生えるまがまがしき二本角が、ひどく自然になじんでいた。


『平蔵』


 まるで知己に呼びかけるように親しげに、心底晴れ晴れとした表情で、青年は言う。


『これで、そなたは自由だ』


 その、血潮にまみれた装束の赤よりも。

 血を払われた、鈍色に輝く刀身よりも。

 かの君の晴れやかな笑顔が、鮮やかだった。






 *





 平蔵の日常は、あっけなく戻ってきた。

 まず、布団がしきのべられたままになった。刀装の手入れが必要なくなったのだから当然だ。


 次いで、長屋の住人と疎遠になった。

 忽然と、さやがいなくなったせいで、女衆やさやが仲良くしていた子供連中に問い詰められたが、平蔵がかたくなに口を閉ざしたことで、遠巻きにするようになった。

 そのため、今まで増えていたおかずもなくなり、外で食べることが増え、平蔵は長屋自体に寄りつかなくなっていた。


 だが、それも元に戻っただけのこと。

 平蔵は童女が居ては出来なかった酒と賭博を、再び味わっていた。



 木枯らしの吹きすさぶ真昼の深河を歩き、平蔵が巴屋の裏口をくぐれば、梅彦に出迎えられた。


「平蔵さん、酔っ払っているんですか」

「別に良いだろうが、俺がなに飲んでようがよ」


 赤ら顔の平蔵に困惑のまなざしを向けつつも、梅彦はいつもの通り店の中へ招き入れようとする。しかし、足音も荒く現れた巴によってはばまれた。


「なに言ってんだい、このでくの坊! ここはあんたの仕事場だよ、どこに酒をかっくらって仕事に来る馬鹿がいるさねっ」

「ここに居るだろうがよ」


 ろれつのあやしい平蔵の答えに、かっとなった巴が、立てかけてあったほうきを手にして、振りかざす。


「おさやちゃんを下の家に帰しちまったろくでなしに仕事はないよ! 二度と敷居をまたがないどくれっ」

「おかみさんっ。それはいくら何でも」

「うるさいよ梅彦っ。あんな小さい子を無責任に放り出したんだ、それ相応の報いを受けないでどうするよ!」


 完全に頭に血が昇っている巴は、梅彦の制止も聞かずに平蔵を追い出そうとほうきでたたき続ける。


「一体、なんの騒ぎって、平さん!?」

「ちょうど良いところにきた、茂松、台所から塩もっといで!」


 平蔵がたまらず巴屋の外へ転がり出れば、憤怒の形相の巴が声を張り上げる。

 鈍くへたり込んでいれば、宣言どおり塩をぶつけられ塩まみれになった。


「あんたなんかどこかでのたれ死んじまえばいいんだよ!」


 捨て台詞と共にぴしゃりと戸が閉められる。


「ったく、容赦なくやりやがって」


 昼間の深河に往来は少ないが、それでも通行人の視線が平蔵へと突き刺さる。

 だが腰を上げるのもおっくうな平蔵は、傍らで所在なげに立ち尽くす梅彦をみあげた。


「で、てめえも俺に恨み言か」

「いえ、私はその……」


 言いよどんだ梅彦はしゃがみ込むと、平蔵にかけられた塩を払いだした。


「おかみさんを止められなくて、ごめんなさい。おかみさん、さやちゃんのこと、すごく気に入ってたから」

「てめえの子でもないのに気にかけるなんざずいぶん暇な女だな。ああそうか、いつか自分の店で働かせようって魂胆かね」


 平蔵が皮肉げに言えば、梅彦はさっと頬を朱に染めた。

 怒りからか、それとも苛立ちからかは判然としなかったが、平蔵に取ってはどうでも良かった。

 しかし、梅彦はそばから離れず、揺れるようなまなざしで平蔵を見つめる。


「平蔵さん、巴さんは、悲しかったんだと思うんです」

「はっあれが寂しがる玉かよ、鬼みてえに怒っていただろうが」

「おさやちゃんは、平蔵さんのそばに居て、とても楽しそうだったから」


 平蔵が茶々を入れても、取り合わずに続けられた梅彦の言葉に、平蔵は口を閉ざす。

 ただ、うつろな瞳だけを彼女に向けた。


「きっと平蔵さんは沢山、考えられたのだと思います。けどおさやちゃんと平蔵さん、隣にいてとても自然でした。普通に見れば、子供を育てるには不適切だとか、ろくでなしだとか言われるかも知れません。でも、それでも私はおさやちゃんには、平蔵さんのそばが良かったと思うんです」

「言うようになったな、梅彦」


 真摯にまっすぐ思いをぶつけた梅彦は、平蔵がくつくつと嘲笑を浮かべた事に目を見張る。


「さやが、俺を慕ってた? 俺があいつの事を考えた? 馬鹿言うな、なんも考えちゃいねえよ」

「平蔵、さん?」


 戸惑う梅彦は、平蔵の瞳に浮かぶ暗い色に息を呑む。


「あいつはな、俺が金ほしさに誘拐してきた縁もゆかりもねえガキなんだよ。元いたところに帰っただけだ」

「そんなっ」


 動揺する梅彦に、満足した平蔵はゆっくりと立ち上がると、ふらりと歩き出す。

 平蔵の言葉が胸に刺さり、とっさに追いかける事が出来ない梅彦だったが、それでもその背に言葉を投げつけた。


「平蔵さん、どちらへ」

「さあてな、ああ巴の言うとおり、ここじゃねえどこかで野垂れ死ぬとするかね」


 そう呟きを残した平蔵は、ゆらりゆらおぼつかない足取りで巴屋から離れていった。




 *




「平さん、もうよした方が良いよ」


 遠慮がちな声に、平蔵は意識を引き戻された。

 行きつけにしている、かめ屋の壁に寄りかかって居眠りを仕掛けていたらしい。

 目の前には盆を抱き、不安げにこちらを見やるおつるがいたが、平蔵はかまわず傍らの銚子を猪口へと傾ける。


「あんだよ、人が気持ちよく飲んでるってのに」

「お前さんが本当に気持ちよく飲んでいるならこんなこと言わないよ」


 おつるの苦言を平蔵は無視して酒をあおる。

 今日行った賭場では全く勝てず、さらに言えば小うるさい破落戸に絡まれて不機嫌だった。


「うるせえ、こちとら仕事を無くした上に博打ですって傷心なんだ。飲まずにやってられるかっての。もう一本たのんまあ」

「それ本当にそのせいなのかい」


 しぶしぶながら奥へ引っ込んでいくお鶴に、平蔵は酒精で鈍った頭でぼんやりと銚子を眺める。

 職がなくなり、連日の博打通いで素寒貧すかんぴんになっていたが、さやが現れるまではいつものことだった。鬱屈を忘れてのめり込める博打は、平蔵には良い薬だった。


 博打でだめなら酒。酒に飽きたら博打。そうやって平蔵は流れるままに生きてきた。

 まともな暮らしなどしたことがない。

 にもかかわらず、博打でのやり取りでも、苛立ちが収まらない事を自覚していた。


 あれほど憂さを忘れさせてくれた酒も、鬱屈した気分を完全に取り除くことはできず。ただただ泥のような重さがこびりつくだけだ。

 それでも飲むことをやめる気になれず、ぐずぐずと杯を重ねていた。


 もう、潮時なのかも知れないと、思う。

 平蔵は今まで、流れ流れて生きてきた。

 江渡にとどまったのは、平蔵のような根無し草やろくでなしでもなんとなく生きていける土壌があったからだ。

 特にこだわりがあったわけではなく、捨てて惜しいものもない。

 もとより根などない風来坊、体一つで故郷を飛び出した身だ。

 長屋に置いている物も値打ちのあるものはない。金なぞもとよりもっていない。関所を超える方法なぞ、いくらでもある。


 鈍った頭でも、良いことに思えた。

 江渡は楽な街だったが、しがらみが多すぎる。


「行くか」

「行くってどこへだい?」


 あでやかな声が飛び込んできて、平蔵はのろりと顔を上げた。

 いつの間にか、隣に美しい女が座っていた。


 男物の着物に股引、という女がするには奇妙な服装にもかかわらず、町人の格好の上からでもわかる、せり出した胸と尻は肉感的だ。

 くっきりとした目鼻顔立ちにはまるのはとろりとした蜂蜜ののうな琥珀色で、うなじでくくられた髪は、行灯の明かりで金色に煌めいていた。


 異相とも異様とも呼べたが、それが抜群の美しさによって、妙にしっくりときている女だ。

 しかしこのような派手な女が現れれば、店の中が騒がしくなりそうなものなのに、他の客も店主も、何らいつもと変わらない。


 それも異様さの一端を担っているのだが、平蔵は少し眉をひそめるだけだった。


 異様さよりも、どこかで出会ったような既視感を覚えていた。

 思考が、うまくまとまらない。

 平蔵が酒で重い頭で記憶を探って居れば、女は立て膝に肘をついて、小首をかしげた。


「どこかへ出かけるのかい?」

「ああ……この町を、出るつもりでな」

「ほうほう、旅にねえ。にしては辛気くさい顔をしてるねえ」

「うるせえ。悪いかよ」

「いんや、嫌いじゃないよ。どっぷりと、人の業を味わってる顔だ」


 からかって居るのか、と鋭くにらみつけた平蔵だったが、女はにんまりと唇を弓なりにしていた。

 その琥珀の目に宿る感情が読めず、どこか遠くのように思えた平蔵は、女が差し出した銚子を猪口で受ける。

 対して女は手酌で自分の杯に注ぐと、一口仰いだ。


「うまいねぇ。飯もうまけりゃ酒もうまいってのは最高だ」


 舌なめずりをして味わう姿は、猫のように奔放だ。

 つられるように猪口を傾けたが、いつも飲んでいる味だった。

 今の平蔵には酔いを回すための水に過ぎない。が、杯を重ねているうちに、思考は再び鈍くなりまろやかな酒精が体に回っていった。


「わっしだったら、こんなところ手放したくないんだが。よっぽどの理由があんだろうと思ってね」

「良いだろ別に。大した事じゃねえ」

「別に良いことなら、くっちゃべっても良いんじゃないか」


 女の声がゆらゆらと酩酊する頭に響く。

 そうなのだろうか。そうなのかも知れない。

 今まで知り合いには軒並み腫れ物のように扱われていたため、こうして会話するのも久々だった。


「武士になんざなりたかねえ」

「ふうん」

「誰かに、飼われるのは、もうごめんだからな」

「それは、どうしてだい」


 なぜか。なぜだっただろうか。

 手酌で酒をつぐ女の前で、平蔵の思考は始まりに飛んだ。

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