紅葉と紺色の狐22

 初雪は積もることを知らない。アスファルトを黒く濡らすか、芝の葉先の露になるか。けれどそうやって次に降る雪のために地面を頃合に冷やしておくのだ。次の積雪がスコップにがりがり掻き分けられたり、下手に融け残って煤や土煙で真っ黒になったり、おまけに人々の恨みを引きつけてしまうのに比べれば、ロマンチストの恍惚と喪失や、ビジネスマンの不安と安堵のうちに短い一生を遂げるのも儚く健気でいいものではないかと思う。

 でもバイク乗りにとっては空から降ってくるものも道に積もっているものも全部天敵である。雪の中を走る気にはなれなくて1月の中旬からはほとんど歩いて基地と自宅の間を行ったり来たりしていた。ある日の帰りに「だから四駆なんだよ」と豪語して鹿屋がR32に乗せてくれたけれど、雪の下に埋まった車止めに乗り上げて早くも基地の駐車場で立ち往生した。どっちに押してもだめで、それから作業の都合もつかないのでしばらくはそのままになっていた。

 佳折が学校で基地に来ない日はいつも一人で自宅に帰る。その日も通り道の弁当屋でお弁当を買って、路地の近道は使わずに商店街の雪の捌けたところを歩いた。基地の雪掻きをしてきたせいで時刻は十九時を回っていた。街灯が地面の雪に映って煌々としている。食べ物系の店が半分くらいまだ粘っていて、通りにも駅から歩いてきた背広や学生服がちらほら見えた。だから知り合いの姿を見つけるのが少し遅れたのだろう。信号機の柱の辺りにカップルが立っていて、こんな下町でデートなんて物好きだなと思って見てみると、その片割れが隣人のロシア人だった。しかし仕事ではあるまい。だとしたら日本語で問い詰め続ける客に対してロシア語でわからない振りを続けるのはどういうことだ? そういうシチュエーションなのか。僕はしばらく立ち止まって遠くから聞いていたが、素通りする気にもなれなかったので声をかけることにした。

「Юлия! где ты была. Я искал(ユリア、どこ行ってたんだ!)」

 僕が大声で呼ぶと彼女はこっちに気付いて、ちょっと希望の垣間見えたような顔で手を振った。振ったといっても当然ユリアのことだから、顔の横でちょっとひらひらさせてみただけである。

「Ты медленный. Эй, хлопотное дело……(やっと来た。ねえ、ちょっと、面倒事)」

「Кто это? Другой мужчина? (誰? 別の男?)」

「Нет, просто он раздражает(違う。しつこいのよ)」とユリアは倦怠感たっぷりに目の前のいかつい男を睨んだ。

 身長差があるのは遠くからでもわかったけど、近くで見ると神話の挿絵で天井を支えている係みたいなものすごい大男だった。でもなかなか物分かりの良い奴で、僕が男だとわかると潔く引き下がって向こうへ歩いていった。唾を吐くのが潔い行動のうちに入るのかは知らない。ただ悪足掻きをしなかったのは評価できるはずだ。

「時機が悪いな」彼女は小声で吐き捨てた。

「ごめん、邪魔だった?」

「いいえ、助かったわ。でも頼んでないし、さりげなく呼び捨てにしたのも癪」彼女は足元に置いた買い物袋を持ち上げた。もう一つさっきまで大男が立っていた辺りにも置いてあって、僕はそっちを持った。持つよ、と言うと彼女はお礼を言って自分が持っていた分まで僕に預けた。彼女は手ぶらで、僕は両手に荷物で、リュックで背中まで塞がっている。そういったツーショットで家に向かって歩く。

「よくあるのよね。普段はこれが助けになるの。ケイが持って行けって」彼女はコートを少し開いて胸ポケットの軍の識別票を見せた。「まあ分別がないのも偶には居るわ」

「僕が呼んだ時、ちょっと鹿屋だと思わなかった?」

「馬鹿、声が全然似てないわよ」

「でも本当はエスコートしてほしいんだね」

 彼女は冷酷無情といった感じで滅多に笑わないのだけど、僕が答えを聞くために振り向くと笑った。寒い土地で暮らしていると表情まで凍ってしまうとよく言うけれど、彼女の場合はそれが左半分だけだった。右側はちゃんと笑っているのがウィンクみたいで不気味ではないのだが、とにかくそれが彼女なりの拒絶だった。ユリアは煙草に火をつけて、それから職場の話をした。鹿屋と同じ銘柄だった。

「そう、これよ。煙草の不始末でボヤを起こしてね、店が使えないからしばらく暇を貰っているの。警察の検分と、それから改装でしょう。二三週間。当然その間お給料は無しだから、掛け持ちしている子はいいけど、大変な子もいるわよね。仲間に借りて回ったりして。私なんかいい気なものよ。ケイの稼ぎはあるし、あんなボロ屋でいい暮らしとも思われないから。今日だって驚かれたわ。え、こんな高そうなお店に入るのって。

 まあ、どうせ新しくするのなら安っぽくてもいいから汚れない部屋にしてほしいものね。あとは散水機も付けてくれれば。支配人は誰が犯人だって私らを疑ってるけど、みんな知ってるわよ。誰が犯人かなんてことじゃなくて、ただ、通りすがりの客のせいにしておけば誰の罪にもならないということをよ」

 あまり自分の話をする人ではないという印象を抱いていたけれど、朝のベランダで顔を合わせるだけでは挨拶くらいしかできないし、長い時間があっても鹿屋と一緒だったりして、二人きりということがなかった。何かを喋らなければならない、そういった夜道の雰囲気を予感して彼女は「時機が悪い」と言ったのかもしれない。その気持ちは理解できた。

 僕が部屋に入って二十分経った頃だろうか、温めたお弁当を食べていると誰かが入口の扉を叩いた。

「誰?」

「ユリア」

 僕が鍵を開けてやるなり彼女はずんずん部屋の中に入っていって、ストーブの電源を入れてその前にしゃがんで手を翳した。「この部屋全然暖かくないじゃないの」

「寒いの平気だから」

 彼女は少しだけ顔をこちらに向けてちっと舌打ちをした。襟のついた腿丈の長いセーターにスキニージーンズ、黒でまとめているのはさっきまでコートの中に着ていたのと同じ恰好だった。僕はテーブルの横に立って様子を眺めた。「これ、壊れてない?」

「寒いのだめなの?」

 彼女はそこで立ち上がって眉間に皺を寄せて僕を睨んだ。肩で受話器を挟む時のように顔を斜めにしている。それから「やっぱり駄目ね」と言ってまたずんずん歩いて部屋を出ていった。

「なに?」

 彼女は眼鏡をかけて戻ってくると、ついでにビールのケースを持ってきてテーブルの端に置いた。彼女はそのままそこに手を突いてレンズ越しに僕を見た。蔓無しのハードブリッジ型眼鏡だ。目元にパッドを開くための角が付いているのが特徴で、硝子は円形、枠は金色をしている。彼女はおそろしく鼻が高くて、それを自慢しているみたいだった。部屋が暗くてストーブの前では気付かなかったが、彼女は化粧を落としていた。白粉なんか塗っていないのだと白い手の甲が言っていた。

 ユリア。第一音節にストレスが来るので正しい発音は「ユーリア」に近い。歳は三十歳前後だろう。声の音色からそう判断していた。見た目は信用ならないものだ。彼女のような美人では特にそうだ。顔立ちに関しては非の打ち所がなくて、どんな趣味の人間が見ても「ここはまあ愛嬌」と感じる所さえないのではと思う。背は百七十と少しで佳折より高い。体格は西洋人だが痩せているので大きいというよりは薄っぺらい感じがする。胸のサイズも佳折より下だろう。

 彼女は何か酒のつまみが欲しいと言って、僕がお弁当を食べている間に冷蔵庫から唐揚げやらポテトやらを勝手に出して勝手に鍋で揚げた。どういうつもりなのかはわからないけれど「彼女はどうしたの? 他の女とこんな時間に一緒なんて気が気でないかしら」と訊くので、そんなことはないと答えた。

 僕が交際関係の縺れに関して否定するとユリアは溜息をついて「彼女だって歳上じゃないの」とゆっくりな口調で言った。彼女の日本語はなぜだかいつも眠気のような倦怠感を纏っていた。

「歳の問題じゃないよ」

「あ?」とユリアはロシア式に訊き返す。油が跳ねる音と換気扇で会話が通りにくくなっていた。

「三十代の恋愛と二十代の恋愛とではまるで意味が違うものよ。私だって二十そこらの白面郎に口説かれたって全然濡れないわ」

「それって、肉体的な、それとも精神的な未熟さ?」

「両方でしょうね。突き詰めた所、まだ伸び代があるって希望的な感触が堪らないのよ」

「酷い言い様だな」

 ユリアは少し振り向いて軽蔑の視線で見下ろすだけだった。

「あなたは綺麗だから、若く見えますよ。歳がそれなりに見えるのは物腰のせいだ」

「ありがとう、でもわかるのよ。あなたは求めてない。それは欲情していない目だわ」

 ユリアは換気扇を緩めてキッチンペーパを敷いた皿でつまみをテーブルに出した。ストーブを引っ張ってきて、コードの長さが足りないので台所のコンセントに差し替えて足元に置いた。「料理すると手元はいいけど脚が冷えるのよ」

 僕はテーブルの下を覗いてストーブの位置や光を確認した。ユリアは脚を組んでいた。いい形の脚だ。

「どう、綺麗な脚だった?」

「ええ」

 そうやって僕が肯くのを彼女はじっと観察していた。

「ほらね。触りたい、ずっと見ていたい、そういう気持ちが無いのよ。誠実なのに遊んでいるように見せたがる男って案外多いのね」

「職業病だな」

「戦士に色気は不要、かしら?」

「違う、僕の話じゃなくて、あなたのだ。そうやって見透かそうとするのはあなたの職業病じゃない?」

「さあね、どうかしら」ユリアはぷっと唇を窄めて機嫌を悪くした。それからケースの厚紙を破ってビールの缶を開けた。かなりペースの速い呷り方をする。「どうぞ、あなたも飲んで」

「じゃあ、いただきます」僕もケースから一缶取って開ける。「でも、とにかくさ、あなたの指摘は当たってるよ。僕は自分からはあんまり言わないし、誘われたところでいいなって思うこともないから、付き合ってる人との約束なんだとか言って、大抵断ってる」

「あれが嫌いなの?」

「まあね」

「じゃあ、他の女を知らないわけ?」

「いやいや、知ってるよ。別に最初から嫌いだったわけじゃない。外地勤務なんか他に楽しみもないし、内地よりフリーだったから。でもある時嫌んなっちゃってさ。ずっと閉じてたんだ。自分の肉体的な側面を否定して、精神的な生き物なんだと決めつけていた。彼女は僕をそういう分裂から救ってくれたのかもしれない」

「ふうん、難しい喋り方をするのね」

「彼女が理論家だから、毒されたのかも」

「毒されて、変った?」

「変った変った。体があるのも悪くないなって思った。彼女は愛の本質はおかえりなさいにあるって言うんだ。僕らなんか、ほら、ここでものを見ている時は体のことなんか忘れてしまうから、帰ってきて体があって地面があって重力がある、それだけでちょっとほっとするんだよ」僕は少しショコネットの話をした。

「おかえりなさい、か。それは良い表現だわ。私もね、愛には二種類あると思うわ。四角い愛と丸い愛よ」

 四角い愛と丸い愛。僕は一瞬それを理性の愛と感性の愛かと思った。

「積むことのできる愛とできない愛」ユリアは開いていない缶を二つ取って重ねて見せた。次いでその二本を横倒しにして転がした。「どう、これも積んでみた時横から見ると四角いのよ。それがこの向きではどうやっても無理だわ。丸いものは積むことができないのよ。だから、将来に向けて積んでいくのが四角い愛、その場限りの遊びが丸い愛。彼女が言ったのは私的には四角い愛かしらね」

「なるほどね…」そうだ、愛は理性か感性かで分別できるものではない。「じゃあさ、その二通りの愛は共存することができるだろうか」

「あ? よくわからない」

「外で少しくらい浮ついたことをしていても、家に帰ってくることで生きている心地が得られるなら、家内としてその人におかえりなさいと言ってあげる愛は十分あるというのが佳折の考えなんだ。ほら、こんなふうに二人で食事をしたら佳折が怒らないかってあなたは訊いたけど、それで佳折が怒らないのは、僕がこの状況に将来性を感じないからだよ。僕があなたにおかえりなさいと言ってほしいと思わない限りは彼女を怒らせるような浮気にはならない。ごめん、こんな例えはあなたを傷つけるかな」

「平気よ、全然。それで?」

「彼女は、自分のものにする、誰かのものになる、そういう表現は嫌いだと言っていた。そういう人間は自分の子供も所有物にしたがる、人の言葉に耳を傾けられない愚者だって。だから交際するからといって他の人間との接触が制限されるのは良くない。自由であるべきなのは結婚しても変わらない。彼女自身他の男と寝ることもある。でもそれは一緒に生活したり家財を共有したりといった想像を完全に省いた状態なんだと思う」

 ユリアは何度か肯いた。「わかるわ。でもそれって単なる譲歩ね。駆け引き。後先考えずにいられるなら独占していたい。ずっと抱きついていたい。誰にも渡したくない。一番に思われていたい。女の子なら、誰でも」

 ユリアは揚げ物の皿やビールを少しずらして、テーブルの端に腕枕をして溜息をついた。

「けれどそうしているだけでは結局失ってしまうと女は知るの。厳格な愛が人を疲弊させていくこと。転がっていられる方が自由だということ。彼女は独占のせいで二番目にくだされるのが怖いから、譲歩をして懐の深さを見せつける。何も不自由はないと言ってくれる。怖いから、怖いことをする。彼女が何を怖れているか私にはわかる。私が本気で襲ったらあなたは今日のことをきっと忘れられなくなる。たった一度きりの情熱に絡め取られて、もう一度、もう一度、そんな思いが将来など考えない愛の行路を生むということもあるのよ。そういった暗闇にある純粋な愛は、残念だけど女にはどうすることもできない。どうあがこうと運命的にやってくるものなのよ。あるいは、やってこないということもあるのだろうけど」

 僕はビールを飲んだ。佳折への愛、タリスへの愛それは別々のものだろう。でも最後にどちらに命を捧げるのか、そう訊かれたら僕はまだ答えられないのかもしれない。

 ユリアは腕枕のままでポテトを口に運んで、ビールの缶を少し持ち上げて振ってみせる。それが空なので起き上がって三本目を開けた。別段僕との会話を楽しんでいる様子でもない。なぜ自分の部屋で飲まないのだろうか。ちょうどつまみが切れていたのでかっぱらいに来ただけなのだろうか。

「鹿屋は? 今日は帰ってこないの」僕は訊いた。

 ユリアは机の陰に隠れてストーブを僕の方へ少し遠ざけ、そうやって屈んだまま答えた。「知らない。私が訊きたいくらいよ。上司のことなんだからあなたの方が詳しいんじゃないの。今日は忙しいとか、暇だとか。職場恋愛とか」それは結構冷たい言い方だった。彼女はいつだって温かみのない口調なのだけど、それにしてもだ。聞いている僕の方がショックを受けるくらい。

「鹿屋の仕事が忙しいかどうか、どちらかと言ったら忙しいのが現状だよ。組織の構成が大きく変わるかもしれない。瀬戸際なんだ。でも、驚いたな。毎日帰ってこないにしても、どちらかが会いたいときに会う。そういう自由な関係なんだと思っていたけど」

「誰か会いたいなんて言った?」

「言ってないけど、絶対そうだ」

 ユリアは恐い顔をして僕を睨んだ。「自由ではないわね。気紛れな関係と言った方がしっくりくるわよ。出会ったときからの不文律なの。ケイは会いたいなんて言わない。会いたい時は何の約束も無しに帰ってくるものね」

「だったら、あなたから会いに行けばいいのに」

「そうね、それはいい考えだわ。――そう思って一回やったことがあるんだけど、でも一回きりよ」

「それって最近のこと?」

「最近ではないけど、でもここで仕事を始めてからのことね。ケイはちょっと嬉しそうな顔をするんだけど、なんだか心ここに在らずって感じでね。私のところへ来るのでも、もしかしたら結構な心の準備をしてくるのかもしれないのよ。……ねえ、あなたケイの話を聞きたいの? 上官の情けないところを知ることになるのよ。覚悟が要るんじゃない?」

「鹿屋とあなたのこと、知りたいな」僕は少し足が熱くなってきたのでストーブを遠ざけて、そうやって悩んだ振りだけをしてすぐに答えた。

「まあ、だめだと思ったら酔いつぶれて忘れることね」

「了解。じゃあ、最初の質問だけど、鹿屋が帰ってくるとどこかへ出かけるよね」

「ええ、夕食なんかじゃないのよ。散歩ってただ公園の中をあてどもなくほっつき歩くの。その間ほとんど何も喋らない。ケイは私に話したがらないのよ。『今日は何座が南中だな』なんてくらい。そうしてどんどん人気のない方へ入っていって他に誰も居ないという所まで来ると、立ち止まってじっとしているのよ。風に当たっているんだって。私も居なきゃ駄目って訊くとね、一人だともっと遠く小さい気配まで気になってしまうから駄目だって。要するに落ち着かないのよ」

「ロマンチックじゃない」僕は少し笑った。ユリアは深く頬杖を突いていて、全然面白そうじゃなかった。

「ケイは可哀想な男なの。ずっと昔の女に囚われているのよ」

「でも、そんな鹿屋をあなたは愛してるんでしょう。結婚とか子供とか、将来の話はしないの」

「しないわ。私らはそんな関係じゃないもの。私は子供なんていらないし、結婚することが楽しいことだとも思えない。残念だけど、お互い愛していないのよ」

「じゃあ、愛してた」

 ユリアは否定する。「最初からよ。最初から私らはお互いの空白を見てきた。愛というのはね、いい、数ある感情の中でも唯一相互に交換されて初めて成立する特殊な感情なのよ。あなたの言う将来の想像も愛の作用が成せる技よ。でも私らは期待しなかった。一人で生きていくから、一人では生きていけない人間の性を否定するだけの慰めを交換できればそれでよかった。空だからお互いの負担にならなかった。家族や面倒な友達、恋人、そういった糸から完全に切り離されていたの。ケイは失って、私は捨てて」

「捨ててきた?」

「そうよ。誰も信じないけど、私はこの仕事に憧れていたし、誇りを持っているのよ」

「娼婦に?」

「だって、こんなに絶対的な立場を与えられる仕事なんて他にないわ。誰かの慰めになるということは人間としてそれだけ器の大きさがあるということだもの。辱められるのは私で権威は自分にあると思っている客が居るけど、そんなのは誰の慰めにもなれない小器の自覚の裏返しでしかない」

「あなたから客に求めるということはないの?」

「何言ってんの。それじゃ商売にならないじゃない」

「鹿屋は?」

「ケイは違う。あいつは泣きたいだけよ。私が居たって何をぶつけるわけでもない。ぶつけるっていうのは暴力のことじゃない。言いたいこと、伝えたいこと、そういう感情のことよ。そういうものを隠している。どうして泣くのかケイは教えようとしない。普通はどっちかよ。理解してほしいか、それとも、女なんていらないと思っているのか。ケイはきっと慰めが嫌い。でも救われたい。女の微笑があいつの悲しみなんだわ」

 ユリアはそこでまたビールを呷って、手の甲で唇を一拭いした。

「あなたがここへ来る時、ケイは言ったわ。おまえが姉貴になってやれって。ケイがあなたのことをよく気に掛けているのは言わなくてもわかる。だから、ひょっとするとこうやって二人きりで会うのをケイは心待ちにしていたのかもしれないわね。ケイが求めているものの破片があなたの中にはあるんでしょう。私には何もないものね、私があなたから何か預かってくるのを待っているのよ。一体それが何なのか、当のあなたにはわかるのかしら」

「鹿屋は失ってきたって言ったよね」

「ねえ、回りくどい言い方はやめてよ。自分が知らないから訊いているんじゃないの。ちゃんと知ってるわ。ケイは誰かあなたの身内を愛していたんでしょう。だからあなたのことを特別扱いするのよ」

 ユリアは眼鏡を外して僕を正面に見つめた。肩の力は抜けて、薄く結んだ唇が細かく震える。瞼に垂れた水滴が顔の造形に沿って下っていく。

「もっと早くケイに会いたかった」とユリアは息だけの声で呟く。

 僕はテーブルの物を横によけて首を前に出した。彼女もすっと唇を近づけた。

 彼女は一回きりの小さな愛のうちに一生を捧げるような人間ではなかった。もっと深く誰かを愛しうる人だった。僕は彼女の深い愛が不憫でならなかった。だから、僕は遂にサキという名前を彼女の前で言うことができなかった。

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