紅葉と紺色の狐3

 早番の従業員が入ってくるまで僕は書いていた。立ち上がろうとして足がふらふらした。すっかり冷めきって妖怪みたいになったコーヒーを飲み干し、カップを片付けて部屋に戻った。次起きた時にどれだけ眠ったかわかるように時刻だけ確認して――ああ、もう三時だ――倒れ込んで五時半まで眠った。

 アラームが遠い水の中に聞こえた。飛び起きて服を脱ぎ、シャワーを浴びて全身を洗った。ひげも剃った。

 制服の上着を脱いだ格好で食堂に下りると坂本は先に来ていて、今度は朝刊を読んでいた。まだテーブルが空いていたから広げていたし、ホルダも外していなかった。ジーンズにトレーナという昨晩とはまた異なったラフな格好。「私の方が早いはずない、急用で呼び出しでも食らったのかもと思ったよ」

 坂本は新聞をラックに戻した。お盆を取って厨房の前に行き、ごはんとみそ汁、主菜のまぐろの煮付けを皿ごとに受け取った。最もベーシックな日本食を出先で食べるというケースには慣れつつあった。僕がオペレータ業の副業みたいに出張システムエンジニアをやっているのは謹慎になったからではない。満州戦が一段落ついて日本に戻ってきてからちょくちょくいろんな所に出向いている。

「そうかぁ、千歳の工場にも監査か。九木崎も受難ね」坂本は席に戻りつつ呟いた。

「え、どういうこと?」

「こないだの戦闘で弓狐用FCSのバージョンに不具合が見つかったっていうでしょ。それで三菱の相模原工場の電装ラインがしばらく止められていたんだけど、もしかしたら投影器周辺かもしれないっていうんで千歳の九木崎にまで飛び火したんだよ。あれ、知らないって顔をしてるね」

 僕は思わず首筋に手をやり、それから肩の筋肉を押して、寝違えちゃったかなぁという振りをした。

「違う違う。陸軍の制服着て、若くて、それで単独行動を許されているっていうのは、絶対肢闘のパイロットだと思ったけどな。違った?」

「あなた、やっぱり僕に用があるんじゃないの?」僕は一応坂本の前に座って食事を始めた。お味噌汁を啜り、ごはん、まぐろ、ごはんに戻る。まぐろの煮付は意外とやわらかくて臭味がなくておいしい。

「ちょっとした期待だったからね。きっとそうだろうなって。もし本当に肢闘回しだったら、今のことは知っておかないといけないことだろうからと思って確認してみただけだよ。何かおかしいところある?」

「うーん、どうかな」

「じゃあ、いただきます」

「いただいてます」

「昨日の夜確か仕事って言ってたけど、午前中は空いてるの?」

「そう、一時からね。それまではフリータイムだけど、どうして?」

「少しつるんで走ってみたいと思ったから」

「あまり遠くには行けないよ」

「ううん、目的地があるんだ。近くだから、時間はいくらでも調節できる」

 我々は朝食を終え、それぞれ外出の用意をしに部屋へ戻って駐輪場で待ち合わせた。坂本は自分のバイクに寄りかかって煙草を吸っていた。車種はトライアンフ・スラクストン。色は黒。丸いライトの上の小さなカウルにクリーム色のストライプが入っている。大事に使われているようだけどボディの艶からして保管は屋外のようだった。ヘルメットはバイクに合わせたジェットだった。

 坂本は僕が来ると灰を振り落として吸いさしをハードの携帯灰皿に押し込んだ。知っている匂いの副流煙だった。自分が吸う銘柄のではない気がする。僕の知り合いが吸っているのだとしたら誰だろう…。「行こうか」と彼女は淡泊に言った。

 開けた海の方へは出ずに山間の道を走っていった。太陽が常に前方から左手に掛けて見えたから、方角としては北東を目指して行ったようだ。地図でいえば逗子か鎌倉の方向になる。まっすぐなエリアはほとんどなくて、山の斜面や木々が迫っていて見通しの悪いカーブが多かった。坂本はそんな道をゆったり先導した。カーブの手前でアクセルを緩め、ブレーキは使わずに抜けると三千回転くらいに抑えてまた加速する。まるで荒野のハイウェイを編隊で巡行するアメリカンみたいに鷹揚なドライブだった。新しいバイクの癖の慣れていない僕はちょっとでも危ない走りをするわけにいかなかったけれど、それでも余力があるくらいのスピードだった。三車長くらい離れたミラーに時々視線を感じた。タイヤの艶を見れば新車だとはわかったはずだ。僕のことを気に掛けていたのだろうか。

 三十分ほど走って別荘地の私道に車を進めた。それまでの道は勾配があっても緩やかだったが、これは山の頂上にまっすぐ向かっていくみたいな酷い坂だった。前方に空が見えるのだ。ちょうど両側にアカマツの林があってケーブルカーの線路みたいだった。坂本は脇道に入ると木目の壁をした家の敷地の前でエンジンを止め、よく茂ったササやオオバコの間にできた轍の上を押していった。駐車場に入る道か細長い駐車場そのもののようだったが、住人が使っているような車は見当たらない。敷地の境界辺りには鎖を留めておく柱に番地を書き込んだ古風なポストが取りついているくらいで表札は見当たらなかった。本当に人が住んでいるのだろうか。

「奥さんが機械のだめな人だから、いつもここから押して入る」坂本は振り返って言った。宿を出てから初めて振り返ったかもしれない。

「エンジン音が?」

「そう。て言ってもわからないか。家政婦というかホームヘルパというか、お歳の夫婦ではあるんだけれども、でも老人介護ではないんだ。とにかく、私はここで家事の手伝いをして生計を立てているんだ」

 コンクリート打ちのスロープを上って玄関でインターホンを押す。風よけの内側にバラの小さな鉢植えがいくつかあって、鉢ごとに違う色の花が咲いていた。玄関扉には上半面の硝子窓がついていて中で奥さんがつっかけを履くのが見えた。七十くらいの人で、綺麗に揃った白髪を頭の形に撫で付けていた。ウールの服を何枚も着重ねた部屋着だけれど背筋が伸びていて気品があった。扉を開けて「あら、チカちゃん、今日は水曜日ですよね。カレンダを捲り忘れたかしら」とさして驚いてもいないような口調で言った。坂本に向けた目には半分くらい親しみがあったが、僕に向けられたのは純粋に訝りの視線だった。僕は浅くお辞儀をして敵意のないことを表明した。相手が何者かもわからないのに敵意も好意もない。

「いえ、明日もきっと伺うつもりです。今日は非番ですがキランさんのお目にかけたい人が居たものですから」

 キランさん。坂本の口ぶりだとなんだか位の高い人みたいだ。音だけ聞くとなんだかふざけているような感じだけど、聞き覚えのある気もする。

「諏訪野夕です」僕はひとまず奥さんに対して自己紹介をしておいた。名前を聞けば相手も「はあはあ」という具合に納得すると思ったのだ。しかし実際のところ奥さんの納得に到達するには坂本の補足が必要だった。

「彼は肢闘のオペレータです。立川基地の第三駆陸団所属で実戦経験も豊富です」

 僕は肯いた。でも、そんなことは教えた覚えがないぞ。

「なるほど」奥さんは一歩下がって厳格に言った。「わかりました。どうぞ中にお入り。外は寒いですからね」先に土間を上がり、スリッパを二足揃える。坂本は扉の鍵を閉めたので僕が先に上がることになった。「先に電話でもいただければよかったのに。さっき二人でお茶をしてしまったばかりですよ。ほら、少しカモミールの香りがしませんか」

「あ、しますします。庭で摘んだのですか」

「そうですよ。あまり立て続けにするのは可哀想ですから、ありあいのもので我慢してくださいね」

「それなら私がやります」

「構いませんよ。先に挨拶をしてきた方がよろしいでしょう」

 奥さんは我々に背中を向けて左手の廊下を歩いていった。そちらがリビングとキッチンのようだ。

「事情がわからない」僕は奥さんに聞こえないようになってから坂本に訴えた。

「ここで説明するより見せた方が早いわ。私ね、合理主義なの」彼女は僕の要求を突っぱねて玄関から直進する廊下を進み、突き当たりの引き戸をノックした。「千加子です」と名乗って返事の前に戸を開いた。

 十畳ほどある広い寝室だった。左手の壁に備え付けられた本棚に枕の辺を寄せて介護用のベッドが置かれ、その上部を起こして老人が書見をしていた。読書というよりは書見という表現の古めかしさが似合う老人なのだ。彼がキランさんだろうか、坂本の次に僕を認めると半月型の老眼鏡をずらして上目に僕を睨んだ。

 鷲田旗覧。下の名前はペンネームだと聞いたことがある。もともとは書記官であったのだが、歴々の隊指揮官の側近を務めるうちに戦略の才覚を現していったそうだ。彼の経歴についてはもう少し詳しく知っている。というのも戦没者遺稿集『照らしえぬ暁』の序文に彼自身が書いているからだ。若い時分から続けてきた文筆の副業がここで集大成を迎えるのはまた宿命的な出来事だと述べていた。

 僕は頭を下げた。軍式でも脱帽時の敬礼は腰折の礼だが、それとは意味が違った。

「もう少し近くに来てくれないか」やや痰のかかったような声で鷲田大将は言った。

 ベッドの手前には畳まれた車椅子や食事用のキャスタ付きテーブルなどが置かれていた。介護者が話をするための椅子もあったがすぐに座るには抵抗があった。

「君は初めてではないな」

「諏訪野夕です。名前を言ってもお分かりにならないかもしれませんが、二年前、瀋陽基地でお会いしました」

 鷲田大将は頷いた。「まあ、掛けたまえ」

 坂本は僕が座るところまで見届けて寝室を後にした。中庭のせいで廊下がわかれているが、リビングと寝室は隣り合わせになっていてそちらの扉は開けられたままになっていた。空調の具合でそうしているのかもしれない。

「そうかね、あの時の……。無事に立ち直ったようで何よりだ」

「ええ」

 寝室の南側は壁が取り払われて全面が窓になっていた。なぜさっきあんなに急な坂を登ってきたのか、その眺望がきっちり説明をつけていた。邪魔するのはベランダの手摺くらいで、庭や林の木々の遠くに灰色の市街地――葉山の辺りだろうか――とわずかに白い砂浜、その先には黒々した相模湾が広がる。

 同じ冬でも景色はこんなに違うのだ。僕が十七の冬、何もかもが真っ白に覆われてしまう瀋陽の冬、凍傷の患者を集めて寝かせている病棟の一室に僕は居た。極寒の環境で肢闘の活動時間は著しく制限される。電池の容量がぐっと少なくなるからだ。戦闘行動中はヒータも使用できない。増槽いわゆる「しっぽ」をつけても戦闘では三十分と持たない。帰ってこられなくなって救援を待っている間に末端部から凍っていく。コクピットの中ではろくに身動きできないし、かといって外に出るわけにもいかない。病室では時々溜息のような息遣いが聞こえてきた。入る時に他のベッドの様子を見たが症状は僕が一番軽いようだった。意識もはっきりしていた。保温と点滴だけで無駄にベッドを占めているように思えた。

 そこに全く健常な数人の会議する声が近づいてくるのを聞いた。軍人の声だ。僕は起き上がってベッドの横に足を下ろした。でも布団の外はひゅうっと寒くてすぐに引っ込めなければならなかった。僕はベッドの上に正座をして布団を前掛けのようにして体を覆っていた。自分では正常だと思っているだけで実際はまともな判断力は戻っていなかった。

 鷲田大将は僕の前で立ち止まって後ろの付き添いに「彼は話せそうだ」と言った。いきさつに関する質問をいくつかされたはずだが、何と答えたのか憶えていない。ベッドの位置が低かったので僕が座っていても頭の位置は鷲田大将の方が上だった。彼はやや外套の裾を気にしながら銅像のようにまっすぐ立っていた。声は空間を制圧するように広がって僕の中にまで押し入った。僕の声はベッドを滑降して床を伝っていくのがせいぜいだった。

 僕は顔を上げて、なぜ生身というものはこんなに重たいのかと訊いた。確かそんなようなことを訊いたはずだ。付き添いが嫌な顔をしたから、礼節には適わない言い方をしたのだと思う。

「人間として生きるのが辛いことだと思うかね」と鷲田大将は答えた。力強い。会う前から用意していた言葉だったかもしれない。「その重さは罪の重さだよ。それは失われたものについての罪ではないかね」

 失ったのだとすればそれは得る前に失われたものだと僕は答えた。大切なものなんてなかったが、何か大切なものがあればいいと思っていた。

「ほう。それが言葉になるかね」

 僕は説明は得意だったけれど、それで伝わるかといえばそうではない。そう言った。

「伝わらんな、意味など」鷲田大将は外套の裾を払って僕の前に屈んだ。「君は良い勘をしている。しかし黙っていて伝わるか? 伝えようとする意志は語らねば伝わらん。伝達の間に生きるのが人間の心だ」

 桑名は伝えようとしたのに僕はそれをちっとも受け取ることができなかった。取りこぼした言葉を拾おうと追いかけて、けれど死者の言葉はもっと早く暗い底の方へ落ちていってしまって、決して追いつくことはなかった。

「あの時の私の言葉は私の言葉ではなかった」ベッドの上の鷲田大将は言った。「プリーモ・レーヴィというイタリア人を知っているかね」

 僕は肯いた。

「彼の思いを拝借したんだ。彼はホロコーストを生き延びたが、収容所での体験は家族にさえ理解されることがなかった。理性もろとも人間の尊厳を保ったまま耐え忍ぶことのできるものではなかった。話を聞くものは拒絶はしなかったと思うが、想像を行う非経験者の理性の限度を超えていた。彼は説明としての言葉の無力を実感した。ただ、言葉によって語り耳を傾ける者との間に時間を共有することで心が通じるのだと信じようとした。結局最後には彼は自殺してしまったがね。……少し水を貰ってもいいかね。なかなかこうも喋らないものだから喉が乾いてしまってね」

 サイドテーブルのトレイに伏せてあったグラスに水差しから水を注いで鷲田大将の口元で支えた。彼の手もグラスに添えられたが酷く震えていた。その力の入れ具合に従って僕はグラスの角度を調節した。

「人間の心は言葉では説明できないが、説明を諦めればそこで理解の道も断たれることになる。たとえ君たちが別の伝達手段を持つのだとしても、それはやはり言葉と変わらないのではないかと私は思うが、君はどう思うかな」

「投影器を介して行うのは機械との接続であって他者とのコミュニケーションではありません」

「タリスという他者を避けて通ることはできないのでは?」

「彼女は媒介そのものです。概念としてさえ個としての決まった形を持たない。彼女の心というのはそのものが言葉と同じ表現なのです。ある会話の中に感じられる彼女の心は必ずしも彼女の本心ではないのです」

「そうだろう、人間の心というものは」鷲田大将は朗らかな表情を崩さないまま言った。僕も表情は変えなかったが反論は続けなかった。自分の内部に生じた雪空のような不穏の様子見をしなければならなかった。

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