紅葉と紺色の狐2

 真夜中のロビィは常夜灯の熱っぽい橙色に支配されて、宿全体が寝息を立てて眠っていた。チェックインカウンタには「本日の受付は終了しました」の札が立って従業員は残っていない。辺りで生きているのは入口の自動扉のセンサと、廊下側の台に置かれた水槽のフィルタくらいだった。六十センチ角の大きなやつだけど、展示用の蛍光灯も明かりを落とされて、滅多に眠らないグッピーやディスカスの銀色が稀にきらきらしているだけだった。

 僕は二十分くらい前まで自分の取った部屋に居たのだけど、どうも筆が進まなくて一息入れたくなったので浴衣の上にダウンを重ねて財布とタブラを持って下りてきた。紙カップ式の怠慢な自販機に熱いコーヒーを注文し、待っている間にロビィを眺めた。僕が来た時から誰も居なかった。奥の壁に暖炉の黒いマントルピースと煙突が見えた。そちらに背を向けるようにアームチェアに座るとエントランスからエレベータホールまで人の動線を大体見渡すことができた。カウチほどの小さなテーブルに手紙や筆入れを置いてコーヒーをちびちび飲みながら辺りを観察した。外は駐車場になっていて、僕の位置からだと胴の長いトラックが一両駐まっているのが見えるだけだった。シーツとか食品とかを運んでくる業務車両かもしれない。

 宿の浴衣にどてらを羽織った人が外で自動扉の前に立った。自動扉がちょっとあわてたように眠たそうに作動し、人影は風除室を抜けてきた。帯の高さで女の人だと判別をつける。

「こんばんは」と彼女は言った。僕はそちらに目を向けていたし、こんな夜中に起きている人も居るんだねという親しみを込めた会釈だと思って僕も挨拶をした。

 ところがその人はそこで足を止めた。背後で優柔不断の自動扉が閉じるのを気にして何歩かこちらに近づく。歳は四十がらみで、面長、ショートの髪を中心線で分けている。感じとしては鹿屋なんかより上なのだけど、でももっと若いような気もした。なんだろう、僕の周りに居る大人たちとは身体と精神のつり合いが逆だった。世の中のほとんどを占める仕事や家事に追われている人たちは身体の疲れが精神より先を行っているけれど、その逆というのももちろんあるはずだ。その人が綺麗だからそんなふうに感じたのかもしれない。まるで薄化粧みたいに、精神の美しさを覆っているのに不足のない程度というのがしっくりくる綺麗さだった。

「前に座ってもいい?」とその人は訊いた。煙草の匂いがした。外で吸っていたのだろうか。だとしたら随分長い一服だ。

「いつもそこに座るの?」僕は便箋を閉じて封筒に入れ、襟を直して窩が見えないようにした。

 彼女はマガジンラックから夕刊を一部選んできて「ここに座るのは初めてだと思うけど」と苦笑しつつ腰を下ろした。僕は気持ちだけテーブルの上を整理したけどどちみち新聞を広げるのは難しそうだ。「いいよ別に。エアで読むから」彼女にもテーブルを使うつもりはなくて、そう言ってホルダから解放して四つ折りにした。折り目を合わせるのにぺりぺり音がしてあまり慣れた感じのする手つきではなかった。僕の目が不審そうなので「どうせ明日になったら夕刊なんて誰も読まないよ」と彼女は言い訳をした。

 そうだろうか、と思った。というのも家庭の経験で、おじさんは平日の分は仕事のせいにして週末になるとリビングの床に広げて溜め読みをする習慣があった。

「誰から?」と目の前の彼女は訊いた。

「これから書いて送る手紙。貰ったのじゃない」

「じゃあ、誰に?」

「妹だよ。仕事の都合で長らく会えていないんだけど、誕生日くらい手紙でも書いてやらないと拗ねてしまうから」

「へえ、妹が居るの?」

 何を詮索しているんだろうと思って僕は相手の目を見た。何食わぬ微笑が浮かんでいた。初対面の相手に億さない人間のようだ。

「ああ、急に話しかけてごめんね。私は坂本。坂本千加子サカモト・チカコ。フリータ。ここへ来たのは、まあ、小旅行みたいなものかな」

 相手が名乗ったからには仕方が無いと思って僕が名前を言うと彼女は「諏訪野夕」と反芻した。

「何?」

「なんでもない」

「僕に話しかけたのはどうして?」

「こんな夜中に起きている人も珍しいと思ったからかな」

「あなたも珍しい人だ」

 相手は顔を向けることなく喉の奥を鳴らすやり方で少し笑った。僕らはあまりお互いの目を見ずに話した。彼女が折り目に近い半面を見る時は小さく折るのを諦めて顔の前に開くので表情も窺えなかった。

「これだけ静かな場所なら一人占めしたいという気持ちもわかるよ。私も広い場所に一人で居るのは好きだ。折角一人で居るのに、そこへ知らない奴が入ってくるとちょっと苛々する。別に相手は苛々させるために入ってきた訳じゃないし、相手も一人になりたかったのかもしれないわけで、誰の責任でもない。それはわかっているんだけどね、でも落ち着かなくなる。違うかな? どうせだったら話しかけて縄張りを共有してしまうのが収まりの良いとこじゃないかと思ったんだけど」

 どうもこの人の口癖は「どうせ」みたいだなと下らないことに気付いた。

「じゃあ、やっぱり一人で新聞を読みたかったんだ」

「そうした方が良いかな」

「いや、別に喋っていても、読んでいても」

「もしかして人と話すの好きじゃない?」

「初対面の人を警戒しているだけだよ」

「そう、私は別に怪しい人じゃないよ」

「それって、怪しい人が言いそうなことだ」

「確かに」彼女はまた笑った。よく笑う人だなと思った。笑い方は控えめだけど、かといって卑しいところもない。

「どうぞ、話して」僕は促した。

「話ねぇ、どうしようかな」

「煙草、吸ってたの?」

「ああ、吸ってた。それもあるけど、でも、ベッドで眠れない体質でね、布団を敷く床もないしソファで寝て肩凝るのも嫌だったから、少し外を散歩していたんだ。それで少し話し相手が欲しくなったのかも」

「何か温かいものでも飲んだらいいのに」浴衣とどてらと二枚しか着ていないのだが、それで外に出て寒くなかったのだろうか。サウナにでも入ったのだろうか。

「いいよ。この時間に飲むと顔がむくむから。……君、浴衣の上にダウンって、袖入ってるの?」

「いや――」

「あ、そうだ。思い出した。表のデイトナ、君の?」彼女は突然顔を上げて訊いた。

「デイトナ? グレイの675だったら僕のだけど」

「そう、それを夕方に見かけてね、ぜひ確認をとっておこうと思っていたんだ」

「それで話しかけたんだ。それはまた、なんというか、重要なことを忘れていたね」

「そうなの、時々重要なことをすっぽり忘れちゃうの」

「あなたもバイクに乗るの?」

「乗る。スラクストン、隣に駐めたわ。同じトライアンフだから気になっちゃって。これがホンダ同士だったら何の珍しさもないんだろうけどね、トライアンフじゃなかなか」

「へえ、スラクストンか。どんな感じなんだろう」我々はまた淡々とした会話に戻った。

「他に乗ったことあるのがYBくらいだから比較にならないけど、走っている間はハンドルは全然動かない。重心を振ってジャイロで切るの。慣れるまではカーブが怖いかもね。エンジンは結構大人しいよ」

 我々はそれから共通の話題で何往復か喋って、お互いにそんな悪い感触でないことを確認した。たぶん彼女も僕に話しかけたことを後悔しないだろう。そのうち彼女が欠伸をした。

「ああ、なんだか眠れそうな気がしてきた。ねえ、君、明日はここで朝食にする?」彼女は椅子の横に立てかけていたホルダを取り上げて新聞の背を挟み直した。どうせ誰も読まない新聞なのに律儀なものだ。

「そのつもりだけど?」

「何時に起きる? あんまり早くなかったら合わせられるかも」

「目覚ましは五時半にかけてあるけど、下りてくるのは六時くらいかな。仕事が午後からだから、あまりきっちりする気はないけどね」

「非番でその時間? まるでおじいちゃんみたいじゃない」

「その言い方は酷いな。軍隊式が染み付いちゃっただけだ」

「ごめんごめん、六時か…わかった、やってみるわ。とにかく今日はお休み」

「うん、お休み」

 僕の席から直接姿は見えなかったが、エレベータの扉が開いて閉まるのが漏れ出す白い光の具合で確認できた。僕はすぐにタブラを覗き込んで「変な人だ」と言った。

「それは何か意味のある発言ですか」

「報告だよ。坂本千加子についての僕の所感さ」

「そうですか」タリスは気位の高い秘書官みたいに何かしこりを残したまま言葉を切った。

 僕はテーブルの上を綺麗にして冴宛ての手紙を再開した。二三言書いたところでタリスが「まったく、その通りです」と独り言をした。

 不思議と筆は進んだ。

 僕は僕が十六歳になる年のことを書くことにした。三堂の言った通り十六というのは僕ら贋にとって特別な歳だ。贋は贋だけが集められる教養学校で中等までの教育を受ける。学校を修了する年に軍組織である教育部隊に配属されて最終的に半年間の基地生活を経験する。四月になると実戦部隊に移って先任たちの下で実際の戦場に立つことになる。贋は十二歳から身体機械投影器とシミュレータを使った肢闘の操縦訓練を行う。そこで感じられる感覚は仮想的なものだが、実機の肢闘がオペレータの神経に返す信号も仮想的な身体感覚であって、両者の間に差異は全くない。実機を操る時決定的に異なるのは結果だ。撃った弾が中れば敵は死ぬし、中てられれば自分が死ぬ。僕の時の教官はまず十六の贋に肢闘を歩かせて、それから生身で全員集めてその足跡を見学させた。非武装で五トンの質量が土を押し固めた窪みが目の前にあり、その中に入ったり土を触ったりできるのだ。それまで贋は生身で感じる世界と肢闘の中で感じる世界を相関のない別々のものとして理解してきた。肢闘が生身のある世界を変えることができる。贋はまずそれを教えられるのだ。目の前にありありと突きつけられるのだ。十人くらいの新入生が居たが、三人くらいはその場で気絶した。人間はたった一つの世界だけを生きている。けれど贋には人間と同じ現実の世界と、タリスの居る電子の世界と二つの世界があって、十六になる年の最初の体験に二つの世界を行き来することの意味を知る。二つの世界に強いつながりがあることを知る。そして大きなショックを受ける。

 僕らは肢闘に乗り、実戦に参加し、人を殺し、殺され、土地を荒らす。その結果を生身で捉える。贋が現実世界に生まれ落ちる瞬間は人間の出生とは全然異なる。人間式にいえば十六歳の時、この現実に実感を伴って初めて贋は生まれるのだ。多くの人間はそれを真剣には意識していない。

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